見出し画像

僕は1990年代に中東やロシア・ハンガリー等に環境プロジェクトに行っていました。
当時、日本は、中東和平多国間協議の環境問題作業部会議長国でした。
ソ連が崩壊した後でロシア・東欧圏の国づくり支援と言うのもありました。

海外で日本人はどんな宗教を信じているのかと聞かれて、僕は「組織されていない宗教(ノン・オーガナイズド・レリジョン)」と返事をしました。

なんだ、それは?と聞かれて、
キリスト教だったら教会があって、そこに牧師さんや神父さんがいる、聖書って聖典がある、イスラム教ならモスクがあってコーランがある、日本人はそういう風に組織化された宗教に所属していないんだ

って答えたわけです。
これはかなり重要なやり取りです。
つまり、多くの日本人はキリスト教やイスラム教を信じていない、仏教とか神道を信じていると言ったら、当の日本人の側が違和感を持つでしょう。

初詣は神社、結婚式は教会、お葬式は仏式と言われるような日本的宗教のあり方について、たいていの日本人は「特定の宗教を信じていない」と答えると思います。

ただ、海外の場合、「宗教を信じていない」=「無神論、唯物論者」と解釈されることがあります。
「初詣は神社、結婚式は教会、お葬式は仏式」的に生きている日本人は、別に積極的に無神論や唯物論を奉じているわけではないわけです。
積極的に無神論や唯物論を奉じているなら、神社にも教会にもお寺にもいかないはずです。行くという事は、一応、神様や仏様のようなものがいると言うことを認めている、だけど、特定の宗教を信じているわけではないと言うことになります。

実は、このような日本的宗教のあり方を「多神教」と言うのは間違いです。
多神教は一神教のように神様が一つと言うわけではなく、複数の神様がいる特定の宗教なので、「日本人は多神教を信じている」と言ったら、例えば、ヒンズー教のような「多神教の特定宗教を信じている」と言うような意味合いになってくると思います。

では、「神仏習合」なんだと言ったらどうかというと、この説明をする日本人は多いのですが、これも説明としては正しくないと思います。
神仏習合と言うのは、天照大神は本当は大日如来の事だ(本地垂迹説と言います)のように、日本在来の神様と外来宗教である仏教の仏様の関係についての説明として存在してきたからです。
日本は古代には途上国で中国など大陸の先進国から文明を教えてもらう側でした。
それで「先進国」から仏教を教えてもらって受け容れた後、在来の神様との関係をどう考えるか、日本人が悩んだ結果出てきた理屈が「神仏習合思想」なのです。
だから、現代日本人の「初詣は神社、結婚式は教会、お葬式は仏式」的あり方を「神仏習合」と説明するのは、理屈として正しくありません。

と言うわけで、僕が思いついた理屈が「組織されていない宗教」と言うものでした。
これを言うと、外国人側は、そうか、キリスト教とかイスラム教みたいに組織された形で存在していない宗教のあり方があるんだと理解してくれたわけです。

さて、後に僕は僕が言った組織された宗教とは、宗教学では「創唱宗教」と言う専門用語で呼ばれていることを知りました。
「創唱宗教」に対して、岩とか樹木みたいなものを神聖視するが特段の教義や組織を作るわけではない信仰のあり方を「自然宗教」と言うのだそうです。

それで僕は僕が使った「組織されていない宗教」と言う用語=「自然宗教」といったんは考えるようになりました。
しかし、最近、どうも、それも怪しいと思っています。
現代日本人の中に岩とか樹木みたいなものを崇める気持ちがないかと言うと、それはそれで残っていると思います。
ただ、そういう「自然宗教」だけで「初詣は神社、結婚式は教会、お葬式は仏式」と言う日本人の宗教行動を説明するのはやはり説明として正しくないような気がします。
神社(神道)、教会(キリスト教)、仏式(仏教)は、それぞれに「創唱宗教」的に存在しているもので、日本人は特定の「創唱宗教」に所属はしないが、複数の創唱宗教の間を回遊していると見なせるからです。

では、こういう風に複数の創唱宗教間を回遊する状態をどう説明すればいいのか、分かりやすい用語を今のところ僕も思いつきません。

ただ、戦国時代に吉利支丹宣教師達がやってきた時、日本人が「八宗、九宗」と言う言葉を使った、これはヒントになると思います。
「八宗」と言うのは、八百万の神みたいな表現、つまり、「八」と言う数詞に「たくさん」と言う意味合いを込めて使っている言葉です。
八百万の神が本当に八百万柱の神様がいると言う意味でなく、たくさんの神様がいると言う意味だと言うのと同様、「八宗」と言うのは、いろんな宗派の仏教や神道がある状態を示した言葉です。
そして、その八宗あるところに、吉利支丹がやってきので、吉利支丹(キリスト教)を九番目の宗教=九宗と言い表したのだそうです。

この「八宗、九宗」と言う表現は、とにかく、日本には複数の創唱宗教が存在するが、多くの日本人は特定の創唱宗教に所属せず、複数の創唱宗教の間を回遊して過ごしている状態をかなり的確に表現していると思います。

日本人の多くは、無宗教であるとか多神教であるとか神仏習合である言うような不適格な用語の使用法ではありません。

ただ、「八宗、九宗」と言う言い方は、創唱宗教、自然宗教、組織された(されていない)宗教と言うように「用語」としてまとまった表現ではないようですが・・・

さて、今、僕は実は「観音様」の事を勉強しようと思っています。
それで、ちょっと調べてみて、どうしたら観音様の事を勉強したことになるのか?と言う疑問に行き当たりました。

この疑問を始め、「観音様」に関することをこれからいろいろ述べていきたいと思っています。

実は「観音様」について学ぶとはどういうことなのか?みたいな分かっているようで、よく考えると分からないような事を掘り下げていく事が、「日本人の精神性、宗教性」について考えていく上で役立つのではないかと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?