見出し画像

クラゲのように・・・と言う表現はどこから来たのか?

古事記で、日本の国土が出来る前の状態は、次のように書かれています。

次に国稚く浮かべる脂のごとくして、くらげなすただよえる時、葦牙の如く萌え騰る物によりて成れる神の名はウマシアシカビヒコヂノカミ。次にアメノトコタチノカミ。

これを日本書紀の文章と比較してみると、

本伝では、

開闢くる初めに洲壌のただよえること、譬えば游魚の水上に浮かべるがごとし。時に天地の中に一つの物生まれり。状、葦牙のごとく、すなわち神に化為になる。クニノトコタチノミコトと号す。

第二別伝では、

古えに国稚く地稚かりし時に譬えば浮かべる膏のごとくにしてただよえり。時に国の中に物生れり。状、葦牙の抽け出たるがごとし。これによりて化生づる神あり。ウマシアシカビヒコジノミコトと号す。

つまり、古事記では、
国が幼い時、浮かべた油のようにクラゲのように漂っている時、葦の芽のように芽生えてくるものによって成った神の名をウマシアシカビヒコヂノミコトと言う

としています。

日本書紀本伝は、天地開闢の当初段階で洲壌が漂っている状態は、遊ぶ魚が水上に浮かんでいるような状態だった。この時、国の中に出来たものがあって、形は葦の芽のようだった。それが神になって、クニノトコタチノミコトとなった。

日本書紀第二別伝は、国も幼く、地も幼い時、例えば、浮かべた油のように漂っていた時、葦の芽のように芽生えてくるものによって出来た神がウマシアシカビヒコヂノミコトである

と述べているわけです。

この3者を比較してみると、
1)天地開闢の直後に
2)地と国土が不確定な状態の時には、
3)地と国土は漂っていた
4)その時、葦の芽のようなものがあった
5)その葦の芽のようなものが神になった

と言う要素の全部、あるいは一部組み合わされていると言えます。

まず、本伝は、1)~5)の要素全部を含みますが、
第二別伝と古事記は1)がなく、2)~5)の要素だけで成り立っています。

2)の国土について、本伝は「洲壌(しまつち)」と表現していますが、第二別伝と古事記は「国」と表現しています。

3)について、漂う状態を本伝は、魚が水の上に浮いているような状態と述べていますが、「油が浮いているような状態」とは述べていません。第二別伝と古事記には「油が浮いているような状態」との表現があります。

4)葦の芽のようなものがあると言う表現は、本伝にも第二別伝にも古事記にもあります。

5)葦の芽のようなものから生まれてくる神様は本伝ではクニノトコタチノミコトですが、第二別伝と古事記はアシカビヒコヂノミコトです。

このように、日本書紀第二別伝と古事記は、かなり近似した表記になっていると見ることが出来ます。

では、日本書紀第二別伝と古事記の違いはどこにあるかと言うと、第二別伝には、「国稚く地稚く」とありますが、古事記には「地稚く」の表現がなく、「国稚く」としか記されていません。

地は天地の地で、いわば世界全体の「地」です。これに対し、「国」はここでは日本の国土を指していると思われます。

日本書紀第二別伝では、世界が始まって天地が生まれてきた時、その世界全体の地もまだ確定していなかったが、日本の国土も水に浮かぶ油のように漂っていたと書いています。

これに対して、古事記は単に日本の土地が漂っていたと書いているだけで、世界全体の「地」は書かれていないわけです。

つまり、日本書紀第二別伝では、世界全体の「地」と日本の国土を並べているのに古事記では日本の国土の事しか書かれていないと言えるわけです。

この点は、日本書紀本伝が日本の国土について「国」ではなく「洲壌」と言う表現を取っている事と合わせて興味深い問題だと言えます。

これについては、また後日論じていきたいと思います。

もう一つ、日本書紀第二別伝と古事記の違いをあげるとすると、国土がまだ定まらず、水に浮かべた油のように漂っていた状態について、「クラゲナス」(クラゲのようだ)と言う表現のあるなしが言えるでしょう。

古事記には「クラゲナス」と言う表現がありますが、日本書紀第二別伝にはありません。

日本書紀本伝にも、また第一別伝や第三~第六別伝にも「クラゲナス」と言う表現は出て来ないのです。

つまり、まだ私達が考える「日本列島」が出来る前、水の上の油のように漂っている状態があったと、神話の著者達が考えていたとして、その漂っている状態を「クラゲのようだ」と表現するのは、古事記オリジナルなわけです。

では、一体、この「クラゲナス」と言う表現は、どのように生まれてきたのでしょうか?

古事記とは違いの多い本伝の表現ですが、成立以前の国土の状態を「游魚の水上に浮かべる」ごとしと、クラゲと同じ水中生物の「魚」に譬えています。

ただ、魚は骨格がありますし、自発的に運動もします。水に浮かんだ油のように定まった形がなく、漂っている状態を示す譬えとしては、「魚」より「クラゲ」の方がピッタリくるように思います。

ところで第四別伝を除くと、日本書紀の本伝、別伝、古事記、共通に葦の芽やアシカビヒコヂノミコトが登場してきます。

僕は、葦の芽のようなものから世界が始まったと言う認識は倭の地では割りとポピュラーだったのではないかと想像しています。

日本書紀で瀬戸内海を進んできた神武天皇は、大阪に上陸します。大阪には今でも葦原があり、水鳥の生息地となっている場所があるそうです。

上代の大阪は湾に接続する形で「湖」があったと言われており、岸辺には広大な葦原が茂っていたと思われます。

高天原から下界をみて、葦原中国こそお前たちの子孫が繁栄する場所だと言われて、天孫降臨した事になっています。

おそらく、葦が生い茂る場所として、上代以前の倭の土地は、「移民」達に認識されていたのでしょう。

そして、そういう場所の先住民・・・つまり、縄文人達や初期の弥生人達の事ですが・・・が、世界の始まりは葦の芽から始まったと考えていてもおかしくはありません。

その後にやってきた移民達の末裔が律令国家を作り、日本書紀や古事記を編纂するわけですが、彼らも「葦の芽から世界が始まった」と言う先住民の思想を無視出来なかったのではないかと思います。

このように広汎に登場する「葦(の芽)」と言う表現に対して、「クラゲナス」の方は、類例が少なく、日本の国土が確立する以前の状態を表現する語としては、古事記が唯一の例になっているわけです。

「クラゲナス」と言う表現がどのように生まれてきたのか、今後も検討を続けていきたいと思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?