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なぜ、善人が不幸になり、悪人が幸福になるのか?
史記は「天道、是か非か(天の道は正しいのか?、間違っているのか?)」と記しています。

親鸞聖人の考えを解説した歎異抄は「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて」と言う言葉から始まっています。

「阿弥陀如来様が立てた近いの不思議な力で救われると信じて」と言うような意味です。

南北朝時代の「神皇正統記」にも「神は人をやすくするを本誓とす」とあります。

この本誓は、神様が立てた誓いの事です。つまり、神様は人々が幸せに生きられるように誓われたと言うことです。

一方、旧約聖書では、洪水後に方舟から出てきた人々に対して、神様が「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫に対して契約を立てる」と仰っしゃられたことになっています。

ただし、この前段にはこう書かれています。
「人に対して大地を呪う事は二度とすまい。人が心に思う事は幼い時から悪いのだ」

つまり、人は悪いことばかり考えているけれども、神様はもう洪水を起こして、人々を滅ぼすような事はしないとお考えになったと言うことです。

歎異抄にも「弥陀の本願には老少・善悪の人を選ばれず。ただ、信心を要とすべし。そのゆえは罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」と書かれています。

阿弥陀様の立てた誓いは、年とった人とか若い人とか、善人・悪人を選ばず、ただ信心を必要なこととしています。それは罪が深く重く、煩悩が盛んに燃えさかっている人達を助けるための誓いだからです

と言うような意味です。

つまり、史記が言っているような問題提起…
「善人が不幸になって、悪人が幸福になるなんて、天の道は正しいのか、間違っているのか」について、

歎異抄や旧約聖書は
「善人だから救われるべきだ、悪人だから救われないでよいと言う論理がおかしい。『天』、『神』、『仏』の側からみた場合、およそ世間の『人間』はロクでもない奴ばかりだが、そのロクでもない奴を救うと、『天』、『神』、『仏』の側が『誓い』や『約束』をしたのだ」
と答えていることになります。

旧約聖書の場合、
「造られた者は造った者と対等ではない。
陶器が陶工に分別がないと言うのか」

つまり、『神』、『天』、『仏』の側が世界を
そして、人間を造ったので

造られた側の人間は、自分がなぜこの世界に生きているのか、
もっと別な世界に生きていたかったと言っても始まらない、

つまり、「そういう設定なんだから仕方ないじゃん」と
言われて終わりみたいなところがあるわけです。

仏教の場合、キリスト教ほど、「世界を神が造った」と言う論理は明確に示される事が少ないようです。

ただ、平安時代に書かれた梁塵秘抄には、
「仏はさまざまにいませども実は一仏なりとかや薬師も弥陀も 釈迦弥勒もさながら大日とこそ聞け」

仏様と言うのは、いろいろいると言われているが、実は一つで、薬師如来も阿弥陀如来も釈迦如来も弥勒如来も大日如来のことなのだ

と言う歌が出てきます。

つまり、いろいろな仏様と言うのは、本当は大日如来様と同じものなのだと言うことです。

大日如来は、宇宙に普遍的に存在するとも全宇宙が大日如来から発しているとも言われています。

こうなってくると、世界を『天』、『神』、『仏』が造った、あるいは、『天』、『神』、『仏』から全世界が流出してるというなら、

その『天』、『神』、『仏』が人々を救うって誓いや約束をしたって言うけれども、

初めから、みんな幸せって設定にしておいてくれれば良かったじゃない?

なんで善人や悪人がいて、幸せな人と不幸な人がいるんだよ
って言いたくなってきませんか?

つまり、善人が不幸になって悪人が幸福になるのは『天』、『神』、『仏』がおかしいじゃないか

と言うより、
そもそも、世の中、なぜ、不幸な人がいるんだ、
何よりもなぜ他ならないこの『私』が不幸なのだ?

と言う問題…

そういう問題に対して、『天』、『神』、『仏』の側は、いや、それはそういう設定なんだから、造られた側、流出しちゃった側は、文句を言うな、

ただ、救ってやるって誓いや約束はしたんだぞと、これまた、かなり理不尽な理屈を並べているようにも…


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