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点と点 点から点



新型コロナウイルスの影響で、東京近郊に住む私は展示会場の盛岡には足を運ばず絵画作品のみを配送した。オンラインで確認しながらの搬入設営と入場予約制をとってギャラリーを開けていただいている。

トンネルの真っただ中にいたような4-5月は、しばらく展示はむずかしいと思っていた。さいわい6月を過ぎると移動規制も緩まり始め、まだ安心はできないものの、灯りをともしてトンネルをゆっくり歩けるようになってきた。

ついさっきまで自宅の制作部屋にあった絵画は、箱に包まれ、トラックで運ばれ、別な土地の建物の壁にとまる。その絵画を見た人のまなざしが通過すると、また日々の制作の場所へ戻り、通過した場所と混ざりながら、季節が巡るように画面は少しずつ姿を変えていく。絵画がまた新しい人へと出会わせてくれる。そういった絵画を介した移動と循環が、ありがたいことに今も続いているし、これからも続けていきたい。







これまでも搬入設営をお任せした遠隔での展示経験は何度かあったが、今回のコロナウイルスの影響下では、遠隔での展示に以前と違うことを感じていた。ある場所に自分自身も移動し、自宅とは別な土地空間で絵画と向き合えること。離れていてもあの場所がある、あの人がいると思えるような拠り所に、行こうと思えばいつでも行けること。しかし、そこにいつ行けるかわからない、半永久的に行けなくなるかもしれない。そういう状態を容易に想像できる4月~5月だった。
どんな場所に拠点を持っていても、遠く離れた場所での経験を持ち帰ることは何物にも代えがたいのだ。

(ものというのは一度手から離れれば、その先は自分の計り知れる領域ではなくなるし、展示を複数の場でやること、納品することは、それぞれの場所を信じて託すことが前提ではある。)







ここ最近は長年愛された店がやむを得ず閉業していくニュースを見かける。早春に咲いていた近所の梅の木々も突然伐採され、敷地に立ち入れないよう囲いがされていたことも同時期でショックを受けた。

世界各地には立入禁止区域が数多く存在するが、はじめから立ち入ることができない自然の山々や海の危険区域ではなく、かつてそこが人の拠り所としてあった場合、断絶と喪失は深く大きい。


この文章を書いているとき、ふと盛岡Cygの次回展覧会である大槌秀樹さんの「分断と祈り」という言葉を思い出した。
まさに今は分断と祈りの時代。嘆くだけではなく、祈りを制作に託すように、その絵画がとどまるいつかの場所を想像している。

大沼町の梅

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