1969年1月1日

私は元日生まれです。
生まれた時、当然ですがわたしの記憶はゼロですし、聞いたエピソードをもとに脚色しています。フィクションとしてお楽しみください。

「こんばんは〜もう生まれちゃったかな⁈元旦ベビーはいそうですか?」
面会時間には遅い19時だ。新聞記者がナースステーションに挨拶をしている。
昭和43年大晦日。ここは東京都新宿区慶應病院の産科。
12月30日16時から陣痛室にいる森西さんという女性がいて、朝日新聞のA記者は「元旦ベビー」として新年の明るい記事にするつもりで、これから待機させてもらうことになっていた。
大晦日から元日に日付が変わるとガラリとスタッフの顔ぶれが変わった。彼女をずっと担当していた田村医師は正月休み。中国系の李医師とベテランの磯山助産婦が待機していた。「あの方は微弱陣痛でまだ生まれそうにありません。長くかかりそうです。でも赤ちゃんの写真なら、後から産気づいた妊婦さんがもう生まれますよ」

新聞を飾ったのは、後から来たのに彼女を追い越して生まれた赤ちゃんの写真だった。

産婦人科病棟では朝からおせち料理が出たが、ミハルは昨夜からまともに食べることもできぬまま何度も襲ってくる陣痛に苦しんでいた。
初産のこともあり、どこまで痛くなれば出産になるのかわからない。昼も夜もご飯を食べている暇がない。とにかく痛みと恐怖と疲れが増してゆく。うつらうつらしながらもやってくる、水分すらまともに取れない陣痛の波は、もう30時間になろうとしていた。
子宮口最大となり人工的に破水させたのが18時40分。
それでもなかなか降りて来ず、最後は吸引分娩となった。
出血はそれほど多くなく母体に危険はなかった。
あまりの苦しさに「痛い〜!!」と弱音を吐くと婦長さんから「赤ちゃんだってね、今苦しいのよ、お母さんがへこたれちゃったら赤ちゃん頑張れないでしょ」と叱られる。そうだけどそれはわかるんだけど…こっちも痛いのは事実なんだけどなぁ…そう思いながら赤ちゃん会いたさにもう一踏ん張り、目を閉じると痛いことばかり考えるのでなるべく目を見開いて大きなお腹に視線をやった。
結局、産声が聞こえたのは1月1日夜19時24分だった。

陣痛が始まったのは30日。丸1日間隔を計りながら、ようやく入院という時に
「誕生日が4411なんてゾロ目でめでたいんだけどな、ちょっと早かったか。まぁ元気に産まれたらいつでもめでたいか」という夫の栄一に
「年末に産まれたら扶養手当で税金が一年分得するのよ!親孝行よ、この子は」
と母というより自営業の経営者らしいことを言って笑顔で入院したはずだった。
結局丸3日陣痛に耐えた。こんな長いお産も珍しいのではなかろうか。長くかかったものだ。

「結局、栄一さんの願い通り元日になるとはね…お腹の中で話を聞いていたのかしら。私の店、ロシア料理店カリンカがananに載ってどっと人が押し寄せた時、あれ以上キツイことは絶対ないと思っていたけど、あれより辛かったわね…上には上があるのね…もう出産なんて懲り懲り…」
そんなことを考えながら、とにかく辛い陣痛から解放されて、ミハルは
「3299g、元気な女の子ですよ」の声と真っ赤な赤子の顔を確認して、笑顔で眠りに落ちていったのだった。
続く

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