FacebookやTwitterのタイムラインは「景色」みたいなもの。
<脱稿:80%ぐらい(1119W)>
そう思った、何か思い当たる節はないかと思い返してみると、、、小学生の頃かな?(30年以上昔ww)
宇治市の実家の近所に祖父が営んでいたお茶屋(小売)があった。お店はちょうど国道に面しており、店の中から外の様子をずっと眺めるのが好きだった。ループしない自動車の列、往来する近所の人々、お客さんが入ってくると、愛想良く笑ってるだけの時間。
人に注視するのではなく、情報の景色が流れている。ラジオやTVなどの情報も流れている。
僕のことを見て、対話をするようなこともなく、不特定多数を対象者として発信している。もうその時点で「コミュニケーション」って言って良いのか?って少し疑問なんだけど、実際に僕もこのメディアを使ってるし、PR(public relations)に関わる仕事が多いこともあるので、その「景色」はとても気になっている。
先日、KADOKAWA・DWANGO代表取締役の川上量生会長が「ツイッター、フェイスブックより優れてる」って発言されたという記事を読んだんだけど、
「ツイッター、フェイスブックより優れてる」
http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/321/321474/
実際は、それぞれが異なる特徴があるので優劣って付け難いんだけど、僕にとって道具として使い易いかと考えてみると、Twitterの方が「好き」というのはハッキリしている。
2009年4月にTwitterを始めると、それまでの生活空間に無かった「情報」が堰を切ったかのように溢れてきた。久しぶりに世の中の広さを垣間見た出来事だったし、とても興奮してTwitterに没頭したのを覚えている。
その情報はすべて受けきれる量でもなく、また自分に向けて発せられている内容でもないことで、すぐに「流す」という行為が自然に身に付いて行った。
情報が流れている。
それまではGoogleリーダーを使って、得たい情報を集めているつもりが、そのほとんどの「未読」という状態になっていた。情報が流れるという認識によって、未読という概念がまったく無意味なものになったのだ。
その数年後、Facebookを始めたんだけど、mixiでは陳腐化したようなインターネットを用いた「つながり」を求めていた気がするし、意識して異なる使い方を目指したこともあって、Twitterはどんどん「つながり」が希薄になっていった。
自分の部屋の壁のように何の驚きもなく、当たり前であることもあれば、滅多に出会うことのない美しい情景が、目の前に突然現れることもある。そんな景色のような情報と過ごす生活は、僕にとって、もうひとつのリアルなんだ。そのことで開放された気になっている。
( ↑病んでる? ww)
僕のnoteは自分自身の備忘録としての側面が強いですが、もしも誰かの役にたって、そのアクションの一つとしてサポートがあるなら、ただただ感謝です。