見出し画像

斎藤環先生の「鬼滅の刃」論とパウル・アルトハウスの神学、そして居なくなったパウル・ツェラン



(『鬼滅の刃』のレヴューを含みますが、当方が視聴しているのはアニメ版第一期、及び劇場公開版のみである事を予めお断りしておきます。今回も有料設定していますのでおひねり頂きたいですが、無料で読めます。アマギフでのご支援も依然歓迎しております)


新年の挨拶


 せっかく新年を迎えた事だし、『べてるの家に相応しい正義について』で紹介したブルームハルトの説教の一部で始めよう。

私たちは時や季節から自由である。新年もどうということはない。私たちの人生は永遠の印を帯びており、御形にしたがって私たちを創造された永遠の神の印を帯びている。束の間のものに私たちが飲み込まれることを、神は望んでおられない。神は私たちを永遠のものに召しておられるのである。神は私たちを、永遠で満たされた、不死の、悠久の存在として下さるであろう。

 本来ならば投稿すべき、『キリスト教の男女観』の後篇が、折角だから踏まえようと思いフェミニズムや社会学の著作もお勉強してる内に遅れに遅れている現状、脇道に逸れている暇があったらそちらを急ぐべきなのだが、「鉄は熱い内に打て」の言葉通り反応するなら急いだほうが良さそうな動きがほかにあったので、先にそちらに取り掛かろうと思う。


斎藤環医師の『鬼滅の刃』論への批判2点



 作者の命名センスへの注目や、精神科医らしい主人公炭治郎のある意味異様な人間性の分析など、この主の評論になれた人らしく大いに冴えたところもある考察なのだが、私は斎藤環医師の鬼滅の刃論に、二点、違和感を覚える所がある。一つは読解としておかしい、という作品メッセージと彼の解釈との不一致と思われる点だ。もう一つは、作品読解としては正しいかもしれないが、それを我々も見習うべき規範視して良いのだろうか、という倫理的問題だ。最初の点も、斎藤医師は誤解(と私には思われる)に基づいて作品メッセージを規範的に肯定的に評価しているので、作品に即して理解すれば逆に規範的に否定的な評価を下さざるを得なくなるのではないか、と思う。

 私がおかしいと思う二点の内一つ。それは、不死にして永遠の時を生きる鬼に対する、煉獄杏樹郎による人間の可老性、可死性の積極的評価(※1)は、障害学やケアの倫理などでいう所の人間の脆弱性(しばしば依存性と共に語られる)の評価として見るのは相当に無理があるだろう、という事だ。

柱の一人、炎柱の煉獄杏寿郎は、猗窩座との戦いでその戦闘能力を絶賛され「鬼になれ」と勧誘される。鬼は傷を受けても瞬時に修復できるが、人間が受けた傷は簡単に治らない。回復力が圧倒的に違うため、同程度の戦闘能力では、人間は鬼に勝てないのだ。しかし杏寿郎はその誘いに動じない。人間は弱いが、その弱さこそが愛おしいと断言し、正面から猗窩座に挑んで落命する。
 ここで宣言されているのは「弱さも含めて人間」といった消極的認識ではない。むしろ「弱さこそ、脆弱性こそが、人間の条件」であるという、積極的な認識である。これが「鬼滅」の通奏低音となっている。マッチョな見かけは表層に過ぎない。


 しかし、斎藤が弱さの肯定の思想の表明を見出している場面で杏樹郎は、「弱者を見ると虫唾が走る」と炭治郎を蔑んだ猗窩座に対し、「老いる事も、死ぬことも、儚き人間の美しさだ」と不老不死の鬼になる誘いを断った後に、「この少年は弱くない。侮辱するな」と炭治郎を評するのだ。彼は、強敵猗窩座と激闘を繰り広げ後輩達を庇いきり致命傷を負った死の間際で、炭治郎達後輩に己の示した自己犠牲的な気高き精神性の引き継ぎを託して息絶える。

 彼がその生き様死に様により示したは、強いものは弱いもののために尽くせ、という母から引き継いだノブリス・オブリージュやサーヴァント・リーダーシップであり、老いや死への肯定は、個々人としては有限な存在だからこそ、人生の有限な時間を無駄にしない努力の尊さ、個体を超えて継承されて行く気高い精神性(思い)、その様な思いのバトンを、先代から受け継ぎ次世代へと渡す、連綿と紡ぎあげる人生リレー的に捉えられた歴史(永遠に生きる存在はこれを紡げない)の意義の評価であると思われる。

 彼と猗窩座との「価値観の違い」とは、弱者を憎み弱者を蔑む不遜な悪しき強者と、弱者を護る為に力を振るう強者の違いであり、弱者が弱者のままで尊い、というような価値転換が行われている様には思えない。つまり脆弱性の肯定という事ではなかろう。弱きを助け強きを挫く義士への称賛など昔からある(がゆえに下らない、という事には勿論ならないが)のである。


(※1)そもそも、死すべき故に足掻いて生きる有限な生き物としての人間vsアンデッド(であるがゆえに、人間を基準としてみれば「大切な何か」が欠落しているものたち)という構図も大衆娯楽の中でそう珍しいものではなく、アンデッドにとってようやく訪れた死が、意図せぬ救済や解放や安らぎを与える、というのもお約束の域に近いのではなかろうか。


 もう一つの点は、治療と裁きとの関係についてである。


結論から先に言えば「人を慈しみつつ罪は裁く」ということだ。筆者の考えでは、これは近年の当事者研究の動向とも接続可能な、新しい倫理観である。
覚悟とは「もしこの一線を越えてしまったら、たとえ被害者であろうと裁く」という覚悟のことだ。ある種の罪は、許されてしまうことが地獄につながる。許さないこと、毅然として裁くことが時に救済となる可能性を、「鬼滅」はきわめて説得的に描く。
 加害者に転じた被害者をいかに処遇すべきか(※2:筆者注)。この問いに対して、「鬼滅」はぎりぎりの、しかしこのうえなく優しい解答を試みている。炭治郎は鬼の責任を追求することはしない。彼は知っているかのようだ。鬼は人間に戻った瞬間に、責任を自覚する。そして尊厳と責任の主体として死んでいく。それはあたかも「免責されることで引責可能な主体となる」(國分功一郎)過程にも似てみえる。
「治療か処罰か」ではなく、「治療し、しかる後に処罰を」という発想は、それほど荒唐無稽なものとは思わない。


 「治療」の中に「裁き」が雲散霧消されてはならない、と言う事なら、私もその点は同意見なのだが、彼自身が結びつけている当事者研究問題に寄せて批判するなら、彼の論調には、裁きとは、罪悪とは、正義とは何か?という哲学的な問いを放り投げて(この点は、『承認をめぐる病』や『心理学化する社会』の頃からあまり変わっていない様に思える)、既成の司法制度の追認的機能に治療を位置づけてしまう様な危うさがある。ハワード・ゼアの言うように「法律が裁く犯罪は、実際の犯罪ではなく法律上の犯罪に過ぎない」のだ。この、法律上の犯罪と実際の犯罪がズレが感じられるところでこそ、人は臨床心理士や精神科医にお世話になる形で悩みやすいのではなかろうか。これに関しては拙論、『キリスト教共同体としてのべてるの家に相応しい正義について』もご参照願いたい。

 (※2:筆者注)加害者が被る社会的冷遇故に被害者の立場に転じていき、被害者の立場に転じていくがゆえに再び加害に手を染めなければならない立場に追い詰められていくやりきれなさ。復讐心に駆り立てられ、加害者に転じしてしまう被害者の執念。そしてその両サイドについて、結局は愛により救われなければならない人間の脆弱さ、といったテーマを大々的に打ち出した作品として、実は既に『輪るピングドラム』がある。加害と被害の関係をアニメを通じて考察する際に、外してはならない作品だと思われる。確かに難解だし、出来が良いとも言い切れないのだが、その様な作品にこそ果断に挑んでいき、視聴者と作品を繋ぐためにこそ、批評家という職業の意義はあるのではなかろうか?幾原邦彦監督の前後の作品『少女革命ウテナ』『ユリ熊嵐』と共に、その冷遇ぶりで以て、日本の批評界の惰弱ぶりを突きつける作品であると私は見なしている。


彼は鬼舞辻に連なる鬼を決して許すことはないが、戦いに敗れて死にゆく鬼を侮辱することもしない(「侮辱」は本作の頻出ワードの一つだ)。鬼の所業を裁くと同時に、鬼の尊厳をも守ろうとするのだ。


 一体、既成の裁きは、これまで罪人の尊厳を顧みていなかったとでも言うのだろうか?(※3)そもそも、イマニュエル・カントのような今日的な「人間の尊厳」概念の立役者こそが、ベッカリーアの様な功利主義的な厳罰反対論者に猛抗議し、死刑も含む厳格な応報刑を擁護してきたのではなかっただろうか。それならば、治療は人間の尊厳を尊重するに、裁きに際して何を付け加えるのだろうか。

(※3)文芸批評家杉田俊介も、悲しく虚しい通常の鬼と生き汚い悪鬼の違いの考察は大変面白く説得力があるが、「裁きは下すが踏みつけにはしない」という態度を高く評価する点においては、斎藤とよく似た意見のようである。私は文学的な感受性に欠けるせいか、寧ろこんな風な↓意見に頷いてしまいそうになるのだが…。


パウル・アルトハウスの神学ーー死、裁き、サーヴァントリーダーシップ


 鬼滅の刃は10年に一度レベルかそれ以上の大ヒット作であり、作品に照らして斎藤の読解を吟味のできる人は少なくないだろうから、私がさほど熱を入れる意義も余りなかろうと思われる。なので、この辺りで少々向きを変えよう。

 斎藤の言う様な①人間の可死性の肯定的評価、②治療の中に解消されうべからざる裁きの肯定、③そして斎藤が言っているわけではないが彼もそれが杏樹郎というキャラクターに込められたテーマであった事は否定しないだろう、強きものが弱きもの助くべしという煉獄家の家訓的な高貴な精神性。この3つを一つの世界観に中に収めた思想家が実は既に居るので紹介したい。ナチスドイツの擁護者であったルター派神学者、パウル・アルトハウスである。

「神が歴史を通して死へと召し給う事、我々が相互のため、また民俗や祖国のために死ぬことを許されている事、またキリストの為に死ぬことを許されている事などは神の愛である。死に召される際、全く神の事を考えぬ人々も、この神の愛の息吹を感じ、祖国のための死を快しと云い得るものは、神の愛について知らなかったとしても神の愛の幾ばくかを、その人間的召命において味あうものである」

 通常のキリスト教神学においては、人間は元々永遠のいのちに与るべく造られたのだが、「堕罪」の帰結として死すべき定めに見舞われ、死すべきものとしての人類の「歴史」が始まる。そして最終的に、罪の報いとしての死を、無垢なる神の子イエス・キリストが受ける事で、人間は罪と死の定めから解放され、いわば古い人類の歴史に終止符が打たれ、新たな時代が始まったのだ、という理解がなされる。だが、アルトハウスは、死すべき人間の定めと人間が死すべきだからこそ紡ぎあげる歴史を、堕罪以前の創造の聖意に含まれる、呪いではなく神に嘉みされた人間の定めとして捉え直した。そうして、キリストの犠牲死も、罪の結果世界に及ぼされたマイナス要素を払拭するだけの消極的のものでなく、原罪の解消という意義を抜いてもそれ自体で尊い積極的な神への奉仕として高く評価する事が可能になった。「自己犠牲的な死の尊さ」を唱える神学者がナチスの支持に回るのはかなり自然な流れのように思えるのは、後代から評する者の気安さのせいばかりでもないだろう。


「刑法を社会的なテラピーや社会教育へと解消しようとする事は、すでに広範に行われているが、そうした試みは遂にその終焉を迎えたのだ。刑罰が再び懲罰として重要視される事になるのである。……新たな国家では、議会の厚顔無恥な無責任さは除去され、責任とは何を意味するのかを我らが再び理解できるようになったのである。新国家は腐敗を一掃するのである。文学及び演劇における腐敗、解体の傾向を押し留めるのである。我らの民俗を呼び起こし、教育し、共同体の向けての、新たな強力な意志を生み出し、強者が弱者の義務を担うという、『口先だけではない、実際の社会主義』を作り上げるのである」『第三帝国と宗教』p169
ロイトホイザー(筆者注:親ナチ神学者の一人)によれば、(略)ローマからは常に僧侶しか輩出しなかったのに対し、ドイツは「聖なる働き人」を生み出して来たのである。フリードリヒ大王が自らの事を国家に仕える第一の僕に譬えたことは、上に立とうとする者は他者に仕えなければならない、とういうイエスの戒めと対応している。143
ヒルシュ(筆者注:親ナチ神学者の中で最も過激なアジテーターの一人。キルケゴールの翻訳者でもあり、ドイツ敗戦前は「プロテスタント神学最後の大家」とまで謳われた大変な教養人でもあった)は、社会主義的な理念に代わる道を指し示す。つまり、目的の共同体として存在し、全ての市民の世話をする国民国家である。ただそのような国家のみが、国民全体を保護しつつ、個人に対する自由を許容するであろう。運命によって幸運な立場に置かれる人もいれば、不運な立場に置かれる人もいる。個人に対する自由は、イギリス帝国とドイツの製鉄工場を生み出した活力を鼓舞し続けるであろう。不平等は、ドストエフスキーが貧困の中で生み出した著作やトルストイが豊かさの中で生み出した作品と同様の豊かさをもたらし続けるだろう。道徳は、また「仕える人々の柔和さや忠実と、支配する人々の責任と高貴さ」によっても涵養されるだろう。p212




(この先生は大学教授だか助教だからしいが、不利益を被る恐れのない相手に対する憚ることのない、このように露骨に差別的な蔑みを浴びると、無力な立場に身を置くと良い勉強の機会に恵まれるものだと思わずにいられない)


 多くの日本人にとっては、「宗教保守」のイメージは、ナチスに抵抗したバルトやボンへッファーよりも、ナチスに協賛したアルトハウスやヒルシュに近いのではないだろうか。だが、世俗的な思想マップ上で保守や右翼に該当するからといって、神学者として保守的とは限らず、アルトハウスは特にヘルダーの民族主義、ヒルシュは特にフィヒテの国粋主義とキリスト教との無茶な接ぎ木を図った、神学的・教義学的には、前衛的・独創的・革新的な左派的と言っても良い様な思想家達でもあり、キリスト教の伝統教義学を素朴に信奉していたとか聖書以外の一切の根拠を退けていたとかいう意味での宗教保守派ではない(※2)。最も過激な親ナチ主義者であったヒルシュに至っては、キリストの復活含む基本教義を否定し、神学的にもう少し穏健だったアルトハウスから苦言を呈されたりまでしている。

例えばヒルシュは、四世紀におけるキリスト論や三位一体論をなおも信じている牧師や神学者を一人も知らないが、にも関わらず、それらが依然として教会の公式の教義になっていることに不平を漏らしている。ヒルシュは、啓蒙主義の科学的−歴史的な道具を完全に受け入れる。彼は、それによって新しい神学が必要とされると考えたのである。p287
(※2)世俗的な思想分類図上では保守派や右派に位置づけられる宗教グループが、意外な事に神学的基本教義を蔑ろにしてしまうーーそうした事例は実は最近でも起こっている。まさに男女のジェンダーロールに関してキリスト教徒達を二分する、教会内や家庭内における男性の責任を強調するコンプリメンタリアン(相補主義者)と呼ばれるグループと、共同責任や女性聖職者を認めるエガリタリアン(対等主義者)と呼ばれるグループの論争において、コンプリメンタリアンの方が三位一体論についての怪しげな神学的理解に自説を根拠付けて正当化し、信条研究者の権威的存在Lewis Ayresが「浅薄」と評するなどの騒ぎになり、最終的にコンプリメンタリアンはその三位一体理解を取り下げる、という運びになった事がある。以下の記事参照。余り興味のある人も少ないと思うが、日本語で、米国のコンプリメンタリアンvsエガリタリアンの論争の様子に触れられる唯一のサイト、コンプリメンタリアンのクリスチャン女性kinuko氏の開設するブログ『巡礼者の小道』は、資料豊富で大変参考になるのだが、この件に触れていないので注意されたし。


 べてるの家やハワーワスやゼアに入れこんでいることからもわかると思うが、私はクリスチャン・コュニタリアンの思想家や活動を高く評価している。その一方で、本邦でリベラリズムに逆張りする程度が高々の共同体主義気取りの馬鹿者共を余りまともに受け取れない理由の一つは、この辺り↓の差を彼らが理解していると殆ど思えない事である。


ヒルシュの誤ちを防ぐもう一つの手段は、キリスト教の律法よりもキリスト教の愛や恩寵を強調することであろう。振り返れば、そうした神学者たちは、そうしなかった人びとよりは、ナチズムの魔力に惹きつけられる事は少なかった。294
アルトハウスが展開した神学は決して受け入れられえない要素を含んでいる訳ではないが、回顧的に見れば、その強調点の一つが極めてナチズムに親近性を有していた事は明らかである。「創造の秩序」の神学では、福音よりも律法に焦点が据えられている。それによって、道徳、秩序そして安定と言った側面が全面に押し出され、ヴァイマール共和国を、神が意図した秩序からの没落と認める事になったのである。ヴァイマール以前の社会秩序を神の意志と同一視することにより、新たなそしてより良い形態の社会を改めて作り出そうとした左翼の前進的並びに革命的イデオロギーに反対し、ナチズムの権威主義的、家父温情的な主張を是認するに至ったのである。p189


パウル・ツェランの詩情世界ーー塵と命、無と永遠の対話性


 では、宗教保守とはどういう事か、の解説しがてら、再び斎藤に戻ろう。「弱さこそ、脆弱性こそが、人間の条件」という考えを彼が披露するのは実はこれが最初ではない。私が知る限り、以前に同様の意見を述べた時引き合いに出したのは、20世紀後半最大の抒情詩人と評されるユダヤ人、パウル・ツェランだった。



「あの日」から私がもとめたのは、死者たちを「悼む」言葉ではない。 彼らと「ともにある」ための言葉だ。そこにツェランの言葉があった。 絶対的な脆弱、絶望的なまでの希望、そして戦慄的な優しさをはらむ言葉が。 ――斎藤環(精神科医)

 「私はユダヤ民族の悲劇を代表し、アグノンはイスラエルのユダヤ民族の将来を象徴する」と語った友人のネリー・ザクッスと立場的には似ていて、ツェランの詩には、ユダヤ教の聖典に記された記念碑的出来事の中でも、シオニズム運動を裏付けるような、出エジプト、シナイ山でのモーセ律法の授与、約束の地カナンへの入植、と言った希望に満ちた華々しい解放と勝利の歴史以前の、強制収容所の体験と相通じる様な、かつて契りを結んだ筈の引き離された創造主との再会の通路が開ける、歴史から抹消された無に等しき存在として異邦の地で労役を課せられた悲惨の極地の記憶への、更にはそこで亡くなって行った同胞たちへの、強い固執があるように思える。

かれらの内には土があった、そして
かれらは掘った。

かれらは掘った、また掘った、そして
かれらの昼は過ぎていき夜は過ぎていった。しかも彼らは神を讃えることがなかった、
これらすべてを望んだという神を、
これらすべてを知るという神を。

かれらは掘った、そしてもはや何の声も聞かなかったーー
かれらは賢明にはならなかった、何の歌も作り出さなかった、
かれらは掘った。

静けさが来た、嵐が来た、
海がこぞって押し寄せてきた。
ぼくが掘る、きみが掘る、そして土の中の虫が掘る、
するとかなたで歌っているものがいうのだーーかれらは掘っていると。

ああだれか、だれひとりでも、だれもないもの、きみよーー
どうなったのか、どうにもなりようはなかったのに、
ああきみが掘る、ぼくが掘る、ぼくは
きみのほうにむけてぼくみずからを掘る、
するとぼくたちの指に
指輪が覚めている。

 ツェランの詩の最大のポイントは、この作品の中でも登場する「きみ、あなた、汝(Du)」であり、他の作品の中で繰り返し使われる用法からしても、それは近現代の一切の対話主義の父祖たる同じユダヤ人マルティン・ブーバーの対話的人格主義的に捉えられた「神」である。それは名付け得ぬもの、名前を持たぬもの、誰でもない者(※2)であり、誰でもないのは、その名を呼ぶのが畏れ多いという聖なるものへの憚りということもあろうが、それよりも三人称化した流通と共有の対象にならないからだと思われる。それゆえに、ツェランの世界は非常に密事的、秘教的である。もう一つは、無に等しいという自己理解ーーその自己理解を自ら選び取ったというより、無に等しい者としてしか扱われない境遇に追いやられて辿り着いたのだとしてもーーが、この、「きみ、あなた、汝(Du)」との接触経路を切り開く事である。無に等しき分際の弁えが、その無に等しき分際に存在を与えた、即ち創造した、無とは対極的なそもそもからして「在りて在る方」たる神と再会し、二人称的な親密な関係に立ち返る経路になっているのである。

誰でもないものが、再び僕らを土と粘土から捏ね上げる、
誰でもないものが、僕らの塵にまじないをかける。
誰でもないものが。

たたえられてあれ、誰でもないものよ。
あなたのために
ぼくらは花咲こうとねがう。
あなたに
向けて。

ひとつの無で
ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは
ありつづけるだろう、花咲きながらーー
無の、誰でもないものの
薔薇。

魂のあかるみを帯びた
花柱、
天の荒涼さを帯びた花粉、
棘のうえで、
おおその上でぼくらが歌った真紅の言葉のために赤い
花冠。

 人間は一握の塵から造られた。私は、否、私達は無に等しいゆえ、私達が存在するとしたら、その存在は、一切を根源的汝である他者(神)に負っている。「対話」は非常に良いことの様に、日本のメンタルヘルス界でもよく言われる。だが、無から成った、無に等しい者と、無に存在を与えた「在りて在るかた」との間の、切り離されれば自己の存在を喪失してしまうが故に、立ち返る必要のある関係、という対話の意義の存在論的裏付けを、日本の対話主義の場合欠いたまま、対話対話と騒がれてはいないだろうか。(中動態がどうたら言ってる研究者のスピノザの唯物主義的汎神論と、基本的に人格間の関係として成り立つ所の対話がどう折り合いがつくのかーという検討すら、十分になされていると言えるのだろうか?)

(※2)私には大した思想家とまるで思えないエマニュエル・レヴィナスが、彼の重要な哲学的概念が題に付けられた著作『固有名』の中で、ツェランを固有名=顔の尊重者の一人の様に語っているが、いくら何でも無理がある。レヴィナスがシモーヌ・ヴェイユに見せた不理解と同種のものが、そこにはある。ヴェイユもまた、ツェランに近い詩的感受性を垣間見せている人なのである。

 ヴェイユは、「懇願」という振る舞いの地位を引き下げ、膝に縋って命乞いをする相手を蔑んで当然という価値を広めたのは人工国家を拠点とする軍略集団ローマ人であり、ホメロスの叙事詩の中で多くの英雄たちが敗色濃厚とみるや敵の膝に縋り付いて命乞いをしている例を引き合いに出し、ギリシャ人の世界ではそうではなかった、と論じている。実証学問的には怪しい理解なのだろうが、ヴェイユは、近現代自立・自律・理性・個人主義が置き去りにしてしまった、不幸なもの、弱いもの、敗北した者、他者に依存しなければならない無力な者としての人間の尊厳を尊ぶ、ユダヤキリスト教的な人間観と通底するものを、ホメロスの世界に見出そうとしている訳だ。それはアラスデア・マッキンタイアが、アリストテレスと異なる聖トマスの特徴として、注目を促している徳論の内容と非常に良く似ている。




 さて、『鬼滅の刃』には、その様な意味での弱者や脆弱者の尊重が、あっただろうか?「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」という、土下座して妹の命乞いをする炭治郎に対する富岡義勇の叱責のシーンはファンの間で有名であり、寧ろ、ヴェイユの言うローマ人と一緒になって、その様な甘い願望を徹底的に粉砕する事から、主人公炭治郎の剣士としての物語は始まっていくのではなかっただろうか。また、死に際の杏樹郎の訓戒「歯を食い縛って前を向け。君が足を止めてうずくまっても、時間の流れは止まってはくれない。共に寄り添って、悲しんではくれない」は、聖トマスから「承認された依存の徳」を導き出したマッキンタイアより、彼が距離を取るアリストテレスの輝かしい古代異教的力徳の表明に近くないだろうか?「それが現実なんだし、仕方ないじゃないか。大体我々、神とか信じていないんだし…」それならそれで良い。それならそれで良いのだが、それを人間の条件としての脆弱さの肯定として語るのはやはり無理があるように思える。そこにあるのは、精々「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」という、フィリップ・マーロウ的ハードボイルドマチズムーーなんとなく、ジョーダン・ピーターソンの自己啓発も、こういう感じの優しさを忘れないマチズムの魅力でもって、人気を得ている様に思えるのだがーー程度のものだ。それはそれで、他人に冷淡に私利私欲のみを追求するエゴイズムや、冷淡を越えて他人を貪る悪逆非道よりは尊いものだが、一般的な世俗常識・世俗道徳の中の理想に十分収まり、そこまで画期的かと言われるとそうではなく、当事者研究の源流をべてるの家に一応見出すとした場合、保守化や退行の誹りは免れないのではなかろうか。

去勢と割礼

 最後に、書きかけの『キリスト教の男女観・後編』に繋げる為に、ツェランの詩情世界の特徴をもう一つあげよう。それは、根源的な「あなた、君、汝Du」により無から創造された自己の成り立ちへの遡行(ヴェイユの言う遡創造)が、衒いのない性器性愛的な睦み合いとしても表明される事である。

ぼくの目は愛するひとの性器へくだるーー
ぼくらは暗いことを言いあう、
ぼくらは愛しあう、罌粟と記憶のように、
ぼくらは眠る、貝の中の葡萄酒のように、
月の血潮の光線を浴びた海のように


 多くの神学者や聖職者が「堕罪」を、自己の被造性の忘却、自己創造者として創造主から離反する傲慢な振る舞いとして解釈している。そしてその離反の最初の徴候は、性器を恥じる事、即ち、男と女に創造された筈の男女間の関係に生じた「罅」なのである。なのであれば、無に等しき自己の分際の弁えを通じた非堕落の創造の秩序の回復は、性器を恥あう前の性器性愛的関係の回復でもあるだろう。思うに、D・H・ロレンスの様な下層労働者階級出身の身分と質朴な性愛賛美が結びついた、一見宗教家が眉を顰めそうな文人に対して、早い段階で聖職者が擁護的な論陣を張ったりする(という例をアイザイア・バーリンは紹介している)という奇妙な事態の理由はこの辺りにある。フェミニストであるヌスバウムが、肯定的に評価できるモノ化の例としてロレンスを挙げているのも、この性器性愛関係が、ラカンなら「去勢」を受けたというような「家父長主義的な」或いは「女性支配的な」ファロセントリズム(その担い手は『チャタレイ婦人』ではコニーの夫、不能の貴族クリフォードであろう。作品を読んでみれば彼がかなりリベラルな教養人でもあるのがわかるが、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフが、粗野で直情的なドミトリィより開明派のインテリのイワンの方があからさまに家父長的なフョードルに似ている、と評するのと同様の意味で家父長的なのだ)の発露ではなく、そうなる以前の、無に等しい男性と、その片割れとしての女性との関係回復だからではないだろうか。その象徴的な意味において「去勢」と「割礼」は全く逆なのだ。去勢とは、先の拙論でいう所の、成長発達人間観の物語の中での原風景からの離反、即ち父の介入による母子癒着からの子の引き離しだが、割礼とは、創造と堕落人間観の物語の中での原風景たる罅のなき性器性愛的関係への遡行の徴なのである。(ラカンの言う去勢も、物理的に生殖器を切り取ることではないのだから、ここで割礼も、物理的な意味で包皮を切り落とす事に限らない象徴的な意味で私は使っている)


『チャタレイ夫人の恋人』では、主人公コニーとオリバーは互いに、たんなる肉体に、さらには性器そのものにまで還元され表現される9)が、それが道具化を離れ、心理的に健康で道徳的に健全な関係(対称的でほぼ平等な関係)の内部で行なわれている限り問題がない。

’ロレンスは一種の性的モノ化を提示している――ある種の性行為における自律の放棄が、自己を全体的で完全なものにするために使われるエネルギーを解放しうることを示している。’



おいで、愛するひと。
ぼくらがここによこたわっていること、それが
そのまま隔壁なのだーー、彼は
それをみてわれとわが身にうんざりするだろう、二度までも。

彼にはかまうな、彼は半身と
また半身のものとして、
われとわが身にうんざりすればいい。


だれ、
だれだったのか、あの、
性器は、あの殺戮された、あの
空に黒く立った陰茎と睾丸はーー?

(陽根。
アブラハムの陽根。エッサイの陽根。誰でもないものの
陽根ーーおお
ぼくらの)

 去勢された「半身」の民に、割礼を受けた性器性愛の民が殺戮されたーーツェランはそんな風に事態を捉えているのかもしれない。ところが、日本のフェミニストは、ファロセントリズムとかいう杜撰なくくりで、この2つを、つまり民族の祭典に湧くドイツ人の異性愛規範と強制収容所で酷使される無に等しきユダヤ人の異性愛規範を、同じものと見なして糾弾する訳である。彼女たちの概念体系の中で、「異性愛規範」と男性支配にして女性隷属体制としての「家父長制」とはほとんど同義に使われている。わたしに言わせればこの事態は、歯と虫歯の区別がつかず、歯の痛みを治療するために歯を抜いてしまおうとする歯医者を見るのに似ている。その様な歯医者を尊敬できない、と言ったのは偉大な反キリスト主義者、ニーチェであるのだが。彼女たちにとっては、クリフォードもメラーズも、フョードルもアリョーシャも、異性愛者だから同じになってしまうのだ。いやそれどころか、更に悪いことに、後者の平等主義者を前者の慈悲的性差別者として糾弾し、前者の性差別者を後者の平等主義者様に歓迎する様な、欺瞞的で倒錯的な事態まで起こっている様に思われる。日本人でジェンダー論やらセクシュアリティ論をやる人たちは、ほぼ例外なくユダヤキリスト教の素養がないので、まるで理解していない(※1)ようであるが……。


(※1)上野千鶴子や森岡正博のような人たちは、私に言わせればユダヤキリスト教的な男女観に近いものを模索提示しながら、ユダヤキリスト教に則るという発想がなく独自思想で賄おうとして巧く行っていないように見える事が多々ある。片や、いわゆる「弱者男性論者」という意味では森岡に似た、引用した杉田俊介氏は妙なアニミズム的世界観を開拓したりしているのだが…。日本の左派的な思想家的哲学者や文芸批評家が、伝統宗教への帰依を避けつつ、根拠曖昧な近似的宗教の教祖化していく事態は興味深いといえば興味深い。彼らの著作からの引用は、『キリスト教の男女観』の説明に役立ちそうなのでそちらに回してここでは控える。
無に根こそぎにされて
すべての
祈りからもときはなたれて、
さきだって書かれていく定めの文字のままに
しなやかに、
追い越すこともかなわぬまま、

ぼくはきみをだきとめる、
すべての
安息のかわりに。

 勿論、ヴェイユ、ツェラン、ロレンスに問題がないわけではない。ヴェイユは餓死同然の夭折を遂げてしまうし、ツェランは入水自殺を予兆する様に、君du以外の言葉の意味が崩壊していき、世界からの居場所を無くしていく様に思える。そして夭折という点では彼らと同様のロレンスも、『チャタレイ婦人』では「不倫」としてしかヌスバウムの言う「ワンダフルなモノ化」を描けていない。なぜそうなるのか。それにはそれぞれ読み解くべき点があるだろうが、私の手に余る。彼らに関しては、次の『キリスト教の男女観』の参考程度に考えて頂ければ幸いである。



ここから先は

0字

¥ 399

日々怯えています。支援してください。