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「求められること」と「自分がやりたいこと」はどちらが強いか

現在連載中の小説がいよいよ架橋に入る。

父の死だ。

正直書きたくない。詳細を思い出したくない。

誰に望まれたわけでもなく、勝手に書き始めて書きたくないとは情けない。

人生はそんなことの連続だ。

好きになったが別れてほしい。
望んで入社したがもう辞めたい。
なりたかったが、諦めたい。

「人は、求められることが一番好きな生き物である」

と結論付けてしまうと、世の中は実に分かりやすい。

昨今は様相が変わってきたが、一昔前の男のステータスは、間違いなく付き合った女性の数であった。時代錯誤を承知で言えば経験人数の多さ。そして間違いなく、数が多い男は容姿でも金でもなく、何度フラれても次々とアタックできる男であった。おそらく現代においても、求めるより求められた方が女性も応じやすいだろう。

いいねやフォロワー数を追い求めるSNS社会もこれで説明がつくし、頂点にいる芸能人が引退をほのめかすのもそうだ。求められなくなった自分を世間に見せる前に身を引きたいと考えるからだ。求められることの価値が高いからこそ、求められなくなることの寂しさは大きい。

では、「求められること」と、「自分がやりたいこと」はどちらが強いだろうか。

好きです

と言ってくれる人が10人いれば、その中から自分が好きな人を選べばいいが、好きです、と言ってくれたのが1人で、その人をあまり好きではなかったらどうするか。

若いときは、まだ人生が長いからその1人に固執はしないだろう。環境が変われば、もう少し時が経てば、1は5にも10にもなると思って生きていける若さがある。しかし、年齢を重ねると、求められることの有り難さと重要さを知るようになる。

私は精神科医ではないが、うつ病で家に引きこもってる人は、本当にそっとしておいてあげたほうがいいのだろうのか。それでも会いに行く、強引に連絡して呼び出すのは、荒療治だろうか。

お前を気にかけてる奴がここにいると、声を上げなければそいつはなにかを辞めてしまうのではないか。この連載も、小説も、わずかながら反応があるから続けてこれた。

自分がやりたいことだけをやれる人は少ない。やりたいことをやり続けるには気概も度量も運もいる。

求められたことをこなす方が、考える必要がないぶん楽ではあるが、それには当然、求められる自分が必要だ。

自分がやりたいことと、自分に求められるもののシーソーゲーム。「恋なんていわばエゴとエゴとのシーソーゲーム」とはよく言ったものだ。

8割の流儀・鷺谷政明


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