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日本が先行した租界と治外法権の撤廃

明治日本が獲得した租界と治外法権

 本稿は,下掲の拙稿【明治日本が獲得した租界と治外法権】の続きなので,ますはこちらを。

撤廃へ

端緒は汪兆銘政権の誕生

 戦後を待たず,日本・英米による中国での治外法権及び租界が撤廃されることになった契機の一つが,昭和15(1940)年3月30日,重慶にて蒋介石と袂を分かった汪兆銘による新国民政府(南京汪兆銘政府)の樹立であることは,否定することはできない。むしろ,最も大きな要因となった。
 それは,支配地域が重慶に限られる中華民国(重慶蒋介石政府)のに対し,中華民国(南京汪兆銘政府)は,日本軍が占領した北京,天津,青島,上海,南京,漢口(武漢),杭州,厦門,広東などを引き継ぎ,中国の北から南の主要な沿岸部都市を支配していたからである。

日華基本条約による合意

 英米開戦の1年前,未だ英米も仮想敵国だった頃。
 昭和15(1940)年11月30日,日本特命全権大使の阿部信行(元首相)と中華民国(南京国民政府)の汪兆銘との間で,日本国中華民国間基本関係に関する条約(日華基本条約)が締結された。
 この条約の主たる目的は,日本が中華民国(南京汪兆銘政府)を国家として承認することにある。
 日本は,汪兆銘政権樹立から国家承認までは慎重を期した結果だが,日華基本条約第7条によって,中華民国(南京汪兆銘政府)に対し,治外法権の撤廃と租界の還付を約束したのである(下掲)。
 ちなみに,中華民国(汪兆銘政権)を国家として承認したのは,日本のほか,満洲国,ドイツ,イタリア,スペイン,ハンガリー,ルーマニア,スロバキア,クロアチア,ブルガリア,そしてタイ,フランスなどで,現在の中華民国(台湾)の承認国(14)とほぼ同じである。
 この日本の動きに対し,英米が中華民国(蒋介石政権)に対して治外法権の撤廃と租界の還付を表明するのは,開戦から約1年が経過した昭和17(1942)年10月10日である(詳細は後述)。

【日華基本条約 第七条】
 本条約に基づく日華新関係の発展に照応し,日本国政府は中華民国に於いて日本国の有する治外法権を撤廃し及びその租界を還付すべく,中華民国政府は自国領域を日本国臣民の居住営業のため解放すべし。

英米との開戦

 汪兆銘政権樹立後,上海共同租界では,蒋介石が送り込む抗日テロが続発し,上海海軍特別陸戦隊がこれに対処していた。よく映画で描かれスパイが跋扈する上海は,正に開戦前夜のこの時期のものが多い。
 昭和16(1941)年12月8日,日本は英米と開戦。
 同日13時の大本営海軍部発表(下掲)には,マレー上陸作戦(対英)や真珠湾攻撃(対米)と同じ昭和16(1941)年12月8日未明に,海軍が上海の黄浦江上に碇泊する米砲艦ウェーキを拿捕,同じく英砲艦ペテレルに対し降伏勧告を行なったが同艦がこれを拒否したため,巡洋艦出雲がこれを撃沈した件も含まれている。なお,マレー半島にて上陸作戦中だった陸軍については,開戦当時の発表はない。
 上海海軍特別陸戦隊も,直ちに上海共同租界に進駐し,英米の権益の接収を行い,占領下に置いた。
 これに対し,フランスのみが有した上海における専管租界については,当のフランスが,昭和15(1940)年9月以降,ベトナムにおいて既に日本の準同盟国となっていたため,フランス専管租界に日本軍が進駐することはなく,現状維持された(後に日本とともに返還に応じることになる)。
 この上海における日本軍の緒戦の戦果が,後に中華民国(南京汪兆銘政府)に引き継がれ,租界と治外法権の撤廃に繋がることになる。

一、帝国海軍ハ本八日未明「ハワイ」方面ノ米国航空隊並ニ航空兵力ニ対シ決死的大空襲ヲ敢行セリ
二、帝国海軍ハ本八日未明上海ニ於テ英砲艦「ペトレル」ヲ撃沈セリ、米砲艦「ウエーキ」ハ同時刻我ニ降伏セリ
三、帝国海軍ハ本八日未明「シンガポール」ヲ爆撃シ大ナル戦果ヲ収メタリ四、帝国海軍ハ本八日早朝「ダパオ」「ウエーキ」「グアム」ノ敵軍事施設ヲ爆撃セリ

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中華民国の米英に対する宣戦布告

 英米との開戦から1年後,昭和18(1943)年1月9日,中華民国(南京汪兆銘政府)は,下記を内容とする「戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言」を日本とともに対外発表,アメリカとイギリスに対し宣戦布告するに至る。

 大日本帝国政府及び中華民国国民政府は,両国緊密に協力して米英両国に対する共同の戦争を完遂し,大東亜において道義に基づく新秩序を建設し,惹いて世界全般の公正なる新秩序の招来に貢献せんことを期し,左の通り宣言す。
 大日本帝国及び中華民国は,米国及び英国に対する共同の戦争を完遂するため不動の決意と信念とをもって軍事上,政治上及び経済上完全なる協力をなす。

 英米が支援する中華民国(重慶蒋介石政府)は,開戦翌日の昭和16(1941)年12月9日,既に日本に対して宣戦布告していた。他方で,日本は,終戦に至るまで中華民国(重慶蒋介石政府)に対し宣戦布告することはなかった。
 日本が占領した主要都市の殆どを引き継いだ中華民国(南京汪兆銘政府)は,日・独・伊側に立ちつつ,僅か重慶のみを版図として英米の支援で辛うじて存続している中華民国(重慶蒋介石政府)とは矛を交えず,蒋介石に和平を呼びかけ続けていた。
 その後の顛末は,幕末から明治の歴史を知見し,かつ昭和24(1949)年10月1日以降を含む「中華民国」の未来を知る後世の我々には,ただただ「勝てば官軍」という歴史の残酷な原理だけが思い起こされる。

租界返還及び治外法権撤廃に関する日中協定

 上記声明よりも重要なのは,同じ昭和18(1943)年1月9日,重光葵と汪兆銘との間で締結された租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定である。
 そのうち本稿に関するのは,以下の3項目で,前掲の日華基本条約第7条を具現化したもの。
・日本専管租界行政権の還付
・上海共同租界・厦門鼓浪嶼共同租界行政権回収の承認
・治外法権の撤廃
 このうち治外法権(領事裁判権)については,当該協定をもって完全に撤廃されたのである。明治29(1896)年7月21日に調印された日清通商航海条約で獲得した治外法権(領事裁判権)を,約50年後の昭和18(1943)年1月9日に撤廃されるに至ったのである。詳細は後述するが,これは英米による撤廃に先行することになった。
 これに対し,租界については,8箇所の専管租界の還付と,上海共同租界の回収について,返還する資産などの内容や実施日など細目の取極めの必要があった。

租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定】
 大日本帝国政府及び中華民国国民政府は,本日調印の戦争完遂に付ての協力に関する日華共同宣言の本旨に従い中華民国の主権尊重の趣旨に基づき左の通り協定せり。

第一章 専管租界
第一条
 日本国政府は現に日本国が中華民国において有する専管租界行政権を中華民国政府に還付すべし
第二条
 両国政府はそれぞれ同数の委員を任命し,前条の実施に関する細目を協議決定せしむべし。
第三条
 中華民国政府は前二条による租界還付実施後,当該地域における施政に当たり日本国臣民の居住,営業及び福祉等に関し尠くも従前の程度を維持すべし。

第二章 共同租界及び公使館区域
第四条
 日本国政府は別に協議決定せらるる所に従い中華民国政府がなるべく速かに上海共同租界行政権及び厦門鼓浪嶼共同租界行政権を回収することを承認すべし。
第五条
 日本国政府は,中華民国政府が北京公使館区域行政権を速かに回収することを承認すべし。

第三章 治外法権
第六条
 日本国政府は現に日本国が中華民国において有する治外法権を速かに撤廃することに決したるにより,両国政府は,右に関する具体案を審議作成せしむるの目的をもって,そのそれぞれ任命する同数の委員よりなる専門委員会を設置すべし。
第七条
 中華民国政府は日本国の治外法権の撤廃に伴い自国領域を日本国臣民の居住営業のため開放すべくかつ日本国臣民に対しては中華民国国民に比し不利益なる待遇を興なえざるものとす。
 前条の専門委員会は前項に関する具体案を併せて考究すべし。

日本専管租界

八都市にあった専管租界

 まず専管租界について,当該協定第2条に基づき還付の日時や手続など細目について,昭和18(1943)年3月14日,在華日本専管租界還付に関する細目取極附属諒解事項が締結された。
 当時,日本は,杭州,蘇州,漢口,沙市,天津,福州,廈門及び重慶の合計8都市に専管租界を有していた。

専管租界の還付の期日などの細目

 8箇所の専管租界全ての中華民国への還付の実施日が,昭和18(1943)年3月30日に確定された(第1条)。さらに,専管租界内において日本が建設した道路等のインフラなどの資産も,無償で中華民国に移譲されること等が合意されたのである(第2条及び第3条)。

【在華日本専管租界還付に関する細目取極】
第一条
 杭州,蘇州,漢口,沙市,天津,福州,廈門及重慶における日本専管租界行政権還付実施は,昭和十八年(中華民国三十二年)三月三十日とす。
第二条
 専管租界内道路,橋梁,下水,溝渠及堤防等の諸施設は無償を以て中国側に移譲すべし。
第三条
 中華民国政府は,現状に基づき日本国政府及臣民が専管租界地域に於て有する不動産其他に関する権利利益を尊重確認し,右に必要なる措置を執るべし。

上海共同租界

上海共同租界回収実施措置要領

 専管租界に続いては,上海の共同租界についてである。
 ただし,共同租界については,日本だけでなく英米らが共同で管理する租界であるため,その行政権については,日本(単独)による「還付」ではなく,中華民国による「回収」という表現が使われる。
 昭和18(1943)年2月24日,まず大本営政府連絡会議が,上海共同租界回収実施措置要領において「回収」の具体的な内容に関する方針が取りまとめた(下掲)。

【上海共同租界回収実施措置要領】
第一、方針

 上海共同租界の行政権の支那側に依る回収実施は「租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定」の本旨に従い「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」の趣旨を具現する如く其の措置内容を定むるものとし,回収実施の時期は本年七月末を目処とす。

第二、要領
 措置要領は概ね左に準拠するものとす。
甲、措置内容概定
一、共同租界行政権
イ 共同租界行政権は,協定に基づき支那側に於いて回収することを承認せるに由り,上海共同租界土地章程及び同補則等に基づき従来工部局の行使し来れる一切の行政権(越界路管轄権を含む)は,支那側に於いて回収するものとすること。
ロ 右に伴い
1 旧共同租界租界工部局職員(敵性国人を除く)は協議の上必要なる範囲に於いて支那側に引継ぎ,主として旧租界(旧越界路地区を含む)に関係ある行政部門に活用するものとすること。
2 旧共同租界工部局に属したる一切の公共施設並びに資産負債は支那側に於いて継承するものとすること
3 旧共同租界工部局の文書類は支那側に於いて引継を受くるものとすること
二、不動産に関する権利
 旧共同租界内(旧越界路地区を含む)に於ける土地建物等不動産に帰する各国及び各国人の権利利益を確保するため所要の措置を講ずること(但し敵●処理に付いては規定方針に依ること)。外国人名義なるも,事実上支那人に属する土地建物等に付いては当該支那人の正当利益保護に遺憾なからしむること。
三、新上海市の管轄区域及び行政機構等
 共同租界行政権回収及び上海仏租界還付実施後の新上海市の管轄区域及び行政機構等については,支那側をして概ね左の如く措置せしむること。
イ 旧共同租界,旧越界路地区及び旧仏租界は新上海市に編入し,・・・(以下略)

上海共同租界回収の細目

 上記大本営政府連絡会議が定めた上海共同租界回収実施措置要領を踏まえ,昭和18(1943)年6月30日,日本と中華民国(南京汪兆銘政府)との間で,いよいよ上海共同租界行政権回収実施に関する取極上海共同租界行政権回収実施に関する了解事項が締結された。
 上海共同租界の行政権の中華民国による回収は,同年8月1日に行われることが合意され,実際に実施された。

第一条
 中華民国政府による上海共同租界土地章程及び同補足等に基づく租界行政権回収の実施は,昭和18(中華民国32/1943)年8月1日とす。
第ニ条
 上海共同租界工部局に属する一切の公共施設,資産並びに財産上の諸権利は,現状のまま無償をもって中華民国に移譲せらるべく,又は工部局に属する一切の負債は現状のまま中華民国に於いて継承せらるべし。

 「上海共同租界の撤収」は当時日本でもニュースになったようだ。
 下掲の日本ニュース第161号の中の「上海共同租界 還付調印成立」がそれ。ナレーションをテキスト化したものも引用する。

 上海共同租界こそは、米英の飽くなき野望の象徴であり、また彼らの東亜侵略の基地でもありました。100年の久しきにわたる中国民衆塗炭(とたん)の苦しみも今は昔。6月30日、南京において日華基本条約改訂に基づき、上海共同租界行政権回収に関する取り決め、および了解事項の調印式が、日本側谷中華大使、中国側チョ民誼外交部長との間にとり行われました。今回の上海共同租界の撤収は、真に中国解放を念願する帝国が、大東亜建設の道義性と実効性を余すところなく表したものとして、意義深いものがあります。

上海フランス専管租界

日本に協働し返還へ

 前述のように,上海には,唯一フランスが専管租界を有していた。ベージュ色が共同租界で,ワイン色がフランス専管租界である。イギリスが築いた外灘は共同租界にある。

フランス専管租界

 当時,ベトナムにおいて日本と準同盟国にあったフランスは,日本の租界還付及び治外法権撤廃の方針を受け,昭和18(1943)年2月23日,中華民国に有する租界(上海,天津,漢口及び広東)の返還と治外法権撤廃を発表する。
 前述のように,大本営政府連絡会議が上海共同租界回収実施措置要領を定めたのは同月24日であり,歩調を合わせた感がある。
 下記の写真は,これを報じる朝日新聞の記事。

フランス2月23日表明

 仏支友好的紐帯強化のため仏政府は今回在支治外法権を撤廃するに決定,同時に北京公使館区域,上海および鼓浪嶼共同租界における行政権および上海,天津,漢口ならびに広東の仏専管租界を返還する事に決定した,仏政府は右決定を事情の許す限り速やかに実行に移す所信である。

 変節前の朝日新聞は,先のリード文に続き「東亜解放史に新頁」との見出しで,両手をあげて礼賛している。

「東亜解放史に新頁」
 1月9日,国民政府の対米英宣戦を契機とする帝国政府の租界還付,治外法権撤廃等の劃期的英断に次ぎ,同月14日,イタリア政府が逸早く我に呼応して同様の措置に出て以来,中国における唯一の特殊権益保持国としてその動向が注目されていたフランス政府は,遂に23日,帝国とイタリア政府に次いで上海,天津,漢口,広東の四専管租界返還をはじめ,治外法権撤廃を敢行し,中国をして百年間の桎梏(しっこく)に呻吟(しんぎん)せしめた不平等条約はここに完全に払拭され,この日をもって中国は全くその本然の姿に立ち還ることとなった。
 仏国が欧洲において盟邦独伊と共に新秩序建設に協力しつつある今日,今回の仏国の自発的なる在中国権益返還により,ここに国民政府と積極的に協力する態度に出たことは,去る21日,皇軍が仏国の完全諒解の下に共同防衛の趣旨から広州湾租借地に進駐したことと相俟ち,欧洲と東亜において仏国の対枢軸協力を名実共に推進せしめる劃期的(画期的)意義を有し,帝国が切念する中国の自主独立とその政治力発揮のため寄与するところは絶大といわねばならない。
 今回還付された仏国の在支租界は,上海租界を英国が,1845年,現在の共同租界の前身として設定してより4年遅れて1849年設定,天津,広東両租界は英国と同年の1861年,漢口租界は1896年それぞれ設定(日本およびイタリアはいずれもこれより遅く天津と漢口に日本は1898年,イタリアは天津に1902年それぞれ設定)となっており,日清戦後における所謂在支権益獲得時代の花やかなりし頃,租界設立国は日,伊,独,墺,露,白,英,仏の8箇国,総数28箇所に達した時,仏国租界勢力は英と共にその優たるものであった。然して日露戦争,第一次世界大戦,中国の民俗的国権回収運動等の幾多曲折を経てもなおよくその地位を維持し今日に至った。
 然るに大東亜戦争の赫々たる戦果は,中国を半植民地化せしめた元兇米英を先ず●●し,更に帝国の日華提携の根本精神に則る国策とイタリアの自発的措置に次ぐ仏国今回の措置はひとり中国のみならず東亜解放史上新頁を開き,蒋政権の抗戦理由は全く喪失された。

専管租界返還の実施

 この昭和18(1943)年2月23日の発表を踏まえ,フランスは,同年7月22日,中華民国(南京汪兆銘政府)との間で,上海フランス専管租界の返還は,同年8月1日に実施されること等の調印がなされた。
 当然,昭和18(1943)年8月1日という実施日は,同年6月30日,前述のように日本が上海共同租界行政権回収実施に関する取極において中華民国(南京汪兆銘政府)と合意した実施日と同一である。
 以下は,これを報じる朝日新聞の記事。

8月1日上海フランス租界還付

「仏,上海租界を還付 今日調印,1日から実施」
 わが対華新施策の展開に伴う専管租界の還付,治外法権の撤廃にならって各国とも同様,租界の還付を声明し着々これが実施を見て中国の主権完成は名実ともに達成されつつあるが,仏政府はさきに還付した天津,漢口,広東の三専管租界についで残る唯一の仏租界たる上海仏専管租界の還付を決定し,22日午前11時より国府外交部寧遠樓において国民政府との間に,上海仏専管租界回収実施に関する取極めおよび諒解事項に署名,調印を了し,来る8月1日より実施されることとなった。
 この日,仏側よりボアセソン参事官,マゼリー上海総領事,サラド南京領事らが列席,中国側よりは呉凱聲,周隆庠,呉頌皋,夏奇峰,陸潤之の各租界接収委員らが列席の下に条文に厳粛な調印が行われたが,国府の外国租界回収は日本専管租界,北京公使館区域,鼓浪嶼共同租界,仏三租界,上海共同租界と着々と実現し今回の調印によって天津伊専管租界を除き,全外国租界が国府の治下に新発足を起こすこととなった。

 下掲は,フランスによる上海専管租界還付の実施について報じているのが,日本ニュース第165号の中の「上海仏租界の返還調印〈東亜不動の体制成る〉」。合わせてナレーションをテキスト化したものを引用する。

 先(さき)の天津、漢口、広東の各フランス租界の返還に相次ぎ、さらに7月22日、中国とフランス両国との間に、上海フランス租界返還の調印が行われ、これによって昭和18年8月1日(いちじつ)の上海共同租界返還実施とともに、新中国は名実ともに共栄圏内の独立国として、完全なる体制を勝ち得たのであります。この飛躍的発展が、敵米英、重慶政権に与える影響は大きい。かくて道義に基づくアジアの建設は、敵国の策謀と反抗を尻目に着々その巨歩を進めつつあります。

治外法権の撤廃

日本による撤廃

 前述のように,治外法権(領事裁判権)については,昭和18(1943)年1月9日,重光葵と汪兆銘との間で締結された租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定により撤廃された。英米に2日ではあるが先行した。

日本に対する撤廃

 偉そうに中華民国に対峙する日本も,幕末から明治初期にかけて欧米諸国との間で締結した条約において,欧米諸国に対し一方的な治外法権(領事裁判権)を認めさせられていた。この撤廃のために,明治の日本が塗炭の苦しみのもと富国強兵に努めたことは,日本史で勉強した。最初にこれが実現したのは,イギリスとの間で,明治27(1894)年7月16日に締結された日英通商航海条約による。実に日清戦争が始まる9日前だった。
 この治外法権撤廃のための条約改正については,その功があった柴五郎について記した下掲の拙稿をご参照あれ。

日本に遅れた英米による撤廃

後遺症

 次に述べるように,日本に続いて英米も治外法権の撤廃と租界の還付を中華民国(重慶蒋介石政府)と合意するに至る。
 とは言え,20世紀の半ばまで”中国”で「治外法権」が維持され,結局,革命などではなく”外圧”によってその撤廃が実現されたという歴史が,中華人民共和国の上から下まで「法治」の意識が欠如している現実に,少なくない影響を及ぼしていると思えてならない。

まずは表明

 アメリカは,日本との開戦後の昭和17(1942)年10月10日,中華民国(重慶蒋介石政府)に対し,治外法権の撤廃を表明するに至る。イギリスもこれに同調した。しかし,これらはアナウンスに止まった。実際,香港を抱えるイギリスとのその後の交渉は難航した。
 これに対し,日本は,表明に止まらず,昭和15(1940)年11月30日,中華民国(汪兆銘政権)との間で締結した日本国中華民国間基本関係に関する条約(日華基本条約)において明文をもって約していたことは,前に述べた。
 ちなみに,英米が租界返還等を表明した10月10日は,孫文による辛亥革命が始まった西暦1911年10月10日に因む,中華民国の建国記念日。10月10日は十が二つ並ぶことから「双十節」と呼ばれている。英米としては,昭和17(1942)年初頭に「連合国」の一員となった中華民国(重慶蒋介石政府)へのリップサービスとして,その建国記念日に合わせて「媚態」を晒したとするのが,下記の朝日新聞の記事。

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 下記は,昭和17(1942)年10月10日の双十節に,蒋介石が重慶で行った演説を,イギリスが成都から報じたものを日本の情報機関が傍受して本国に報告したもの。

【双十節奉祝大会蒋介石演説】
 蒋介石は,十日午後,重慶記念塔における双十節奉祝民衆大会の民衆に,米国が治外法権撤回を申し出で重慶と新条約を結ぶ旨発表した。彼は,英国も同様の行為を速かにとると重慶政府に通告したと附言しつつ,大要次の如く語つた。 
 過去百年にわたり不平等条約によつて中国に深せられた制限は,かくして除去される。以後,全中国の民衆は真に独立せる自由国家の市民として恥づかしからぬやう努力すべきである。かくする事によつてのみ連合国の一翼に値する国家が建設されるのである 。
 最後に蒋は,三十一週年奉祝の民衆に米国費府(フィラデルフィア)のインデペンテンスホールの自由の鐘が,三十一回,米国民によつて鳴らされ,高等法院のウイリアム・ダグラスは重慶に挨拶の講演をする,と述べた。
 中国民衆にかような友情と誠実さに非常に感動させられた。
 蒋は更に次の如く語った。
 かかる事は米国の国際関係において未曾有の行為であり,中華民国共和国の歴史にとって実に●●なる一頁である。それ故,余は中国民衆を代表し,米政府に賛辞を呈したい。
 蒋介石の講演は民衆の拍手により屢々(しばしば)中断せられた。

ようやく条約の締結

 この表明を具体化する条約がイギリスと中華民国(蒋介石政権)との間で締結されるのは,昭和18(1943)年1月11日であった。
 これが,中国における治外法権の撤廃及び関連事項の取極めに関する条約であり,同条約は,同年5月20日に批准及び発効している。アメリカも同様の条約を締結している。

英米による撤廃の実効性

 日本が租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定を締結したのは,前述のとおり昭和18(1943)年1月9日であり,実に2日の差で日本が英米に先行した。
 しかし,先後関係よりも重要なのは「治外法権撤廃と租界還付」の実効性である。
 租界が存在する都市は殆どが東シナ海沿岸部と揚子江流域で,ほぼ日本が占領し,これを中華民国(南京汪兆銘政府)に引継いでいる。
 そのため,英米の「租界の還付」と言っても,それらは既に日本・南京汪兆銘政府の支配下にあった。「治外法権の撤廃」と言っても,意味があるのは,重慶蒋介石政府の支配下にある重慶周辺に居留する僅かの英米人に限られる。英米人の多くは,南京汪兆銘政府の支配下に居留しており,重慶蒋介石政府に表明しても意味はない。
 下記に引用するのは,内閣情報局が編集する週報第327号(昭和18年1月20日号)「支那の参戦と新しい日華関係」であるが,このあたりの機微を,客観的かつ冷静に指摘している。

 昨年(昭和17/1942)10月,米英両国は,重慶(蒋介石)との間に治外法権撤廃と租界還付に関する交渉を始めようとしていることを発表しましたが,実は一昨年末,大東亜戦争勃発と同時に,米英に関係ある租界は全部わが方の実力下に置かれ,また重慶側地域に在住する米英人といっても外交官その他極めて少数の特定の者に過ぎず,一般居留民の大部分は我が方の占拠地域内に居住していたのでありますから,当時この種の発表を行うことは全然無意味であり,単なるご機嫌とりに過ぎないことは多言を要しないのであります。
 しかし,この有名無実の約束でさえ,細目の打合せとなると,少しでも利害関係のあることは総て保留保留なので,さすがの重慶も餘りのことに期待外れですっかり落胆し,その実施については未だに行き悩みになっているのが実情であると聞いては呆れるの外はないのであります。
 今度わが国と国民政府との間に結ばれた協定は,これとは全く趣を異にし,我が国は天津,漢口,蘇州,杭州,沙市,厦門,福州及び重慶の八ヶ所に租界を有っており,内六ヶ所(沙市及び重慶以外)は現実に国民政府側の地域内に在るのであります。
 治外法権にしても,わが在支那邦人六十万は総て国民政府の治めている各地に居住しているのでありますから,その撤廃は米英の場合のように,蓋を開けて見たら外交官等の特権を有する者ばかりで,これなら撤廃してもしなくても同じことだった,というようなものとは同日の談ではないのであります。

 ちなみに上海と鼓浪嶼島の共同租界については,下記のように「中華民国による回収」の意味を,日本国民向けに説明している。

 上海と厦門(鼓浪嶼島/コロンス島)に在る各国の共同租界及び北京の公使館区域においても,現在,中国の行政権は行われておらないのでありますが,これは日本だけの関係ではないので,わが方だけで還すというわけにはゆかず,わが方は,国民政府がこれらの地域に対する行政権を関係各国から回収することを承認し,かつこれに努力することを明らかにした次第であります。

上海共同租界還付に関する東條内閣総理大臣談

 最後に,時の内閣総理大臣東條英機の昭和18(1943)年6月30日付の談話を引用する。
 もちろん,前述の同日付で日華両政府間にて締結された上海共同租界行政権回収実施に関する取極上海共同租界行政権回収実施に関する了解事項を踏まえたものである。
 これは当時の日本国民向けの談話。(当時の)国民皆知の日本国の方針として,令和に生きる我々も,一読ぐらいはしておくべきかと思う。

 帝国政府は,本年(昭和18/1943)1月9日,日華間に締結せられたる「租界還付及び治外法権撤廃等に関する日本国中華民国間協定」において,中華民国国民政府がなるべく速かに上海共同租界を回収すべきことを承認したのである。爾来,帝国政府においては右公約の実行を期し諸般の準備を整えてきたのであるが,最近に至り在華帝国大使と中華民国国民政府外交部部長との間に種々打合せを遂げたる結果,完全に意見の一致を見,本日ここに上海共同租界回収実施に関する取極及び了解事項の署名調印を見るに至ったのである。
 惟うに支那における租界,特に上海共同租界は,今を去ること百年前の阿片戦争にその端を発するものであって,爾来,米英は政治上,経済上並びに文化上,これを中国制覇の牢固たる拠点として,尨大(ぼうだい)なる権益をこの地に集積し,執拗にその存在を擁護し来たものである。したがって共同租界の存在こそは正に中国復興の一大障碍をなし,大東亜建設の癌とも云うべきものなのであって,今やこの積年の禍根が日華の協力により払拭せられんとすることは,大東亜戦争完遂途上における日華新関係の展開,並びに大東亜建設の性格を明らかならしむるものにして,その意義,洵(まこと)に大なるものあると言わねばならぬ。
 抑々(そもそも)今次大東亜戦争の目的は究極において米英の東亜制覇の野望を破砕して,東亜攪乱の禍根を芟除(さんじょ)し,大東亜の各民族を米英積年の桎梏(しっこく)より解放し,もって大東亜の諸国家諸民族が,各々その本然の特性に応じて人類の福祉と公正なる世界平和に寄与しうるの態勢を確立するに存するものである。大東亜戦争勃発以来既に一年有半を経過するに至ったのであるが,この間帝国は未曾有の大戦果により戦略的に必勝不敗の基礎的態勢を確立するに至ったのである。しかして国民政府(南京汪兆銘政府)ならびに泰国(タイ)政府は既に帝国と一体共同の戦争に従事しており,満州国またその国力を挙げて戦争に協力しているのであるが,帝国は更に緬甸(ビルマ)及び比律賓(フィリピン)の独立をも公約し,信義をもって之が実現に向かいつつあり,今や大東亜の諸民族は一致団結不動の結束をもって戦争目的の完遂に邁進しつつあるのである。かの米英がその利己的舊(旧)秩序を東亜に再び復活せんとする如き非望は,将に人類正義の公敵であり,敗者の悲しむべき錯覚と云わねばならぬ。
 回収後の上海共同租界は名実共に中華民国の中樞(中枢)大上海市の一部として,東亜的性格の下に面目を一新して発足すべく,今後同地の占むる重要性を稽(かんが)うる時,之により国民政府の強化,中国の復興は期して待つべく,帝国政府は,国民政府が不退転の決意をもって之が再建育成の重責を全うすべきことを確信するものである。


東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。