見出し画像

会津の山川健次郎

 昭和6(1931)の6月26日は,会津藩出身の山川健次郎が亡くなった日。

 山川健次郎は,幕末の会津に生まれ育ちながら,明治4(1871)年,17歳で国費留学生として米国に渡りイェール大学に留学する。明治8年に物理学の学位取得して帰国し,後に東京帝国大学,京都帝国大学,九州帝国大学の総長などを歴任する。 

 兄の山川浩(山川大蔵)は会津藩家老として,幕末ギリギリにフランスに留学,帰国後の会津戦争では日光口を守り,土佐の谷干城率いる西軍の侵攻を防いだ。妹は,同時期にアメリカに10年も留学し,帰国後に大山巌と結婚し「鹿鳴館の華」と讃えられた山川捨松。
 山川浩は,後に谷干城の勧めで陸軍に進み,西南戦争において薩摩軍の包囲を破って熊本城に立て籠る谷干城を救った。

 このような国際的な明治人を産み育てた母(唐衣,艶)と同じ,青山霊園の墓にねむっている。

 会津は,幕末にあっても山川大蔵の指示で藩校日新館でフランス語を教授するとともに,フランス軍制に倣い,年齢に応じて,朱雀隊(18歳から35歳),青龍隊(36歳から49歳),玄武隊(50歳以上),そして白虎隊(16歳から17歳)を編成。さらに,士族以外の農民や町人から兵を募り,敢死隊や力士隊などの徴兵軍を組成した。こういった動きは長州藩だけではなかった。

 戊辰戦争においては,会津側も,徳川幕府が家康の時代から「このような時のために」として,代々,江戸に人質としてとっていた”輪王寺宮”(孝明天皇の弟で,後の北白川宮)を建てており,いわば官軍。戊辰戦争は,どちらが”官軍”かの戦争で,「勝てば官軍,負ければ賊軍」というは,結果からくる厳しい現実だった。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。