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「台湾医学衛生の父」と称えられる磐城人

兒玉源太郎と後藤新平

医師としての後藤新平

 大正12(1923)年9月11日に関東大震災。
 その2日後に設立された帝都復興院,その総裁に就任し帝都東京復興にあたった後藤新平は,安政四(1857)年,仙台藩伊達家の支藩水沢藩(現在の岩手県奥州市水沢)の下級武士の家に生まれる。
 経歴から都市計画家として著名だが,もともとは,福島県須賀川にて開校まもない「須賀川医学校」に明治7年に入学,愛知県医学校長兼病院長となどを経て,明治15(1882)年,内務省衛生局に入った医師。

台湾総督と民政局長のコンビ

 明治35(1902)年,第4代台湾総督に就任した児玉源太郎は,後藤新平を台湾総督府の民政局長に抜擢する。日露戦争(明治37年〜)の直前であり,台湾どころか,日本がロシアの植民地なるかもしれないと日本国内が戦々恐々としていた頃である。
 児玉源太郎は,日露戦争が始まり満州軍総参謀長として満州の地で作戦指揮している間も,台湾総督の地位を離れなかった。児玉源太郎に代わって台湾の民政を取り仕切ったのが後藤新平。彼は,独裁することなく,有為な人材を登用し,台湾の実情に合わせた施策をとる方針を貫いた。台湾の農業(製糖業)発展のため,ニューヨークから新渡戸稲造を招聘したのは有名。
 そのなかでも民政局長としての後藤が一番力を入れたのは,衛生行政。当時の台湾の衛生状態は大陸と同レベルで,マラリアやペストが蔓延していた。後藤自身,明治25(1892)年,内務省衛生局長に昇進,明治27年(1894)に始まった日清戦争では陸軍検疫部事務官長を務めるなど,その道の専門家だった。後藤を台湾総督府民政局長に抜擢した児玉には,南国台湾における「衛生」の重要性への認識と,日清戦争時の後藤の働きが記憶にあり,その抜擢に至った。
 台湾総督児玉源太郎と民生局長後藤新平とのコンビは,現在の台湾でも評価されているようで,かつての台湾総督府博物館,現在の国立台湾博物館に両名の銅像が並んで展示されている。

国立台湾博物館(旧台湾総督府博物館)
国立台湾博物館3階に展示されている児玉源太郎(右)と後藤新平(左)の銅像

高木友枝その人 

「台湾医学衛生の父」

 その後藤新平が,さらなるスペシャリストとして抜擢したのが,現在の台湾でも「台湾医学衛生の父」と称賛されている高木友枝その人。

安政五年 磐城泉藩 生まれ

 高木友枝は,安政五年八月二日(1858年9月8日),磐城泉藩(現在の福島県いわき市泉の渡辺町松小屋,ちなみに今でもかなりの田舎…)の郷士の家に生まれる。当時の泉藩は,徳川四天王の一人である本多平八郎忠勝を祖とする本多平八郎家の領地。

北里柴三郎の一番弟子

 維新後,高木友枝は兄の高木直枝の援助を受けて医学の道に進み,明治18(1885)年に帝国大学医科学校(後の東京帝国大学医学部)を卒業する。
 明治26(1893)年,ドイツから帰国した北里柴三郎が福澤諭吉の資金援助を受けて新たに設立した「伝染病研究所」に入所,北里柴三郎とは帝国大学時代に親交もあって,その最初の助手となる。高木自身も明治30(1897)年から2年間ドイツに留学し,コッホ研究所で研究に従事。明治33(1900)年に帰国後,内務省衛生局防疫課長を兼務している。同じ時期に内務省衛生局長を務めていた後藤新平とは“狭い世界”での旧知だった。
 なお,高木がドイツ留学中の明治31(1898)年に北里の伝染病研究所に入所したのが,野口英世。

台湾総督医学校校長に

マラリアで亡くなった北白川宮能久親王と泉藩

 後の北白川宮能久親王,幕末当時の輪王寺宮を乗せた「長鯨」は,慶応4年5月28日(1868年7月18日),北茨城の平潟港に上陸。その日は,磐城泉藩領の甘露寺村(現在の福島県いわき市泉玉露たまつゆ)にあった慈眼院に宿泊している。
 現在の福島県いわき市にあった3藩(磐城平藩,磐城湯長谷藩及び磐城泉藩)は,いずれも譜代藩であり慶応4年5月6日(1868年6月25日)に成立した奥羽越列藩同盟に加盟していた。
 慈眼院が宿泊先に選ばれたのは,かの天海大僧正に由来するらしい。天海大僧正は,会津生まれで,上野寛永寺を創建した家康・秀忠・家光の側近であり,かつ日光山に天皇から「輪王寺」の称号を勅許されるほど。その諡号が「慈眼大師」で,日光山にも天海大僧正を祀る「慈眼堂」がある。宿泊先とされたのはそのような縁起のためらしい。なお,慈眼院は,明治11(1878)年9月13日,大風雨のために崩壊したそうで,現在はこの地にない。
 磐城泉藩領で生まれ育った高木友枝11歳の頃である。輪王寺宮への何らかの想いがあっても不思議ではない。
 輪王寺宮こと北白川宮能久親王は,明治28(1985)年5月29日,日清戦争の勝利で清国から割譲された台湾に,台湾征討軍司令官として上陸する。しかし,南国特有のマラリアに罹患,同年10月28日,”征討”を見ることなく台南で死去してしまう。
 皇族までをも死に至らしめた日本人にとって未知なる疫病への対策を担った高木友枝が台湾に渡ったのは,それから僅か6年半後のことである。

北白川宮能久親王記念碑@台湾基隆

校長と教授を13年間

 明治32(1899)年4月1日,台湾総督府医学校(後の台北帝国大学医学部で現在の台湾大学医学部)が開校している。初代の校長は山口秀高。
 明治35(1902)年,台湾に渡った高木友枝は,同年4月1日,この台湾総督府医学校の第2代校長と附属病院の医院長に就任することになる。以来,大正4(1915)年3月31日に退任するまで実に13年間その職にあった。
 下の写真は,明治39(1906)年3月,既に台湾総督府医学校の校長などの要職を兼ねていた高木友枝が更に同校の「教授」を兼任することを内閣が承認したというもの。
 実際,教授としての高木友枝教授は,自らが生理衛生という講義を担当し,同時に倫理,修身についても講義した。高木友枝の教え子で台湾人で初めて医学博士となった杜聡明は,毎年の卒業式に,高木友枝は学生に対して必ず「医師になる前に人になれ」という訓辞を贈り,医者としてのモラルの向上を心がけていたと語っている。

台湾総督府研究所を設立

 明治42(1909)年4月1日,台湾総督府研究所が発足する。
 台湾に根ざした独自の研究所が必要と考えた高木友枝は,後藤新平を説得して台湾総督府研究所を設立させ,自らその初代所長に就いた。同研究所は,台湾の台湾総督の管理に属し,殖産および衛生上の研究調査及び試験に関する事項を掌った。 

台湾総督府研究所報告第一回
台湾総督府研究所報告第一回

その成果

 下掲「台湾医学衛生の父,高木友枝の伝染病対策」によると,高木友枝は,教え子が台湾で医師となるには時間を要するとの認識のもと,まず医学生の口を通じて,一般人に「マラリアと蚊」及び「ペストと鼠」の関係を知らしめることに努めたという。

高木は医学校の生徒を通じて、伝染病に対する知識の普及に努めようとした。時々通訳を伴って、講演会を開き、伝染病の怖さについて講義した。高木は、医学校があるため、生徒が卒業して医者にならなくても、流行病の怖さ、マラリアと蚊の関係、ペストと鼠の関係を一般人に知らせることができると認識していた。

下掲「台湾医学衛生の父,高木友枝の伝染病対策」より

 高木友枝の教え子の杜聡明が台湾人として初めての医学博士となるのは1922(大正11)年12月16日,更に同人が台北帝国大学医学部教授に就任するのは1937(昭和12)年を待たねばならなかった。
 それより前に,高木友枝の渡台前の明治34年(1901)には年間3,673人に及んでいた台湾におけるペストの死者が,明治43年(1910)には既に年間18人にまで減少したという。
 その他伝染病対策については下掲「台湾医学衛生の父,高木友枝の伝染病対策」に詳しい。

現在の台湾大学医学院医学人文博物館

 現在の国立台湾大学医学院。そのキャンパス内に「台湾大学医学人文博物館」がある。国立台湾大学医学院は,高木友枝が永く校長を務めた台湾総督府医学校がその萌芽であり,台北帝国大学医学部がその前身。

台湾大学医学人文博物館(南側)
台湾大学医学人文博物館(北側)

 台湾大学医学人文博物館は,1907年から1913年(明治40年から大正2年)にかけて建設された台湾総督府医学校の校舎の一部であり,正に高木友枝が同校校長の任にあった時代の建物。
 台湾大学医学人文博物館には,高木友枝の胸像も展示されている。彫刻家北村四海(しかい)の手による大理石の像。彼の経緯が物語るように,戦前から台北帝国大学医学部時代に展示されていたものである。

台湾大学医学人文博物館内に展示されている高木友枝の胸像

 また,台湾大学医学人文博物館には高木友枝を紹介するポップなパネルも展示されている。初代校長の山口秀高が「医学校的創建者」と事実紹介に留まるのに対し,第二代校長の高木友枝については「人格崇高見識高超的学者」と,日本語での表現が難しいほどの賛辞を送っている。

台湾大学医学人文博物で高木友枝を紹介するパネル

 また,高木友枝に関しては,台中市の彰化高級中学(=高校)に「高木友枝典藏故事館(記念館)」がある。
 ただし,東京にある台北駐日経済文化代表処(事実上の台湾駐日大使館)を通じて確認したところ,一般には公開していないようだ。

台湾電力株式会社初代社長

第七代台湾総督明石元二郎の要請

 大正8(1919)年1月24日,第七代台湾総督明石元二郎が台湾島内での発電・送電を行う主体として「台湾電力株式会社」の必要性のもと,当時の原敬内閣に対し,「台湾株式会社令」の裁可を求めた。
 結果,同令が公布・施行され,同年7月31日,台湾電力株式会社が設立された。
 台湾総督明石元二郎に請われてその初代社長に就任したのが,高木友枝である。

 高木友枝は,大正8(1919)7月31日の開業及び就任から昭和4(1929)年7月9日に退任するまで約10年間,台湾電力株式会社の社長を務めた。この実績から「台湾電力の父」とも称えられている。
 下の写真は,台北市に現存する高木友枝も暮らしたであろう台湾電力株式会社設立当時からの同社社長邸。

旧台湾電力株式会社社長邸

明石元二郎の鳥居

 台北市の繁華街にある「林森公園」。ここに日本式の鳥居が2基あり,不思議な空間を作り出している。
 ここは日本統治時代の「三橋町日本人墓地」で,第七代台湾総督の明石元二郎の墓があった。鳥居はその墓前にあったもので,公園整備中に一時移転されたが,公園完成後にわざわざ公園に設置されたもの。
 前述の児玉源太郎と後藤新平の銅像や高木友枝の胸像と同様,戦後教育を受けた者からすると,わざわざ保管して再び設置する理由は,自分で勉強し直さないと理解できない。

明石元二郎の鳥居@林森公園

在台湾27年 帰国

 昭和4(1929)年7月9日,台湾電力株式会社の社長を退任し,27年に及ぶ台湾での活動を終えて帰国する。妻は留学中に知り合ったドイツ人で,世田谷の北沢に洋館を建て暮らしていたという。

郷里にて

大沢隧道@福島県いわき市

 福島県いわき市渡辺町松小屋字大沢に「大沢隧道(ずいどう)」というトンネルがある。遊園地のアトラクションのようであるが,車も通れる現役の隧道(トンネル)である。梅雨時に通ると異常に湿気を感じる。

大沢隧道
大沢隧道

高木友枝の筆による記念碑

 この大沢隧道の大沢村側の入り口に,昭和14(1939)年に建立された記念碑がある。
 昭和建立にも関わらず朽廃著しく解読が難しいが,この記念碑は「従三位勲二等医学博士高木友枝閣下筆」と刻んだ後,「本隧道の開鑿(かいさく)は明治十九年故高木直枝翁が自費を投じて山頂に道を開きたるに始まる」という一行から始まる。

大沢隧道記念碑

 高木直枝は高木友枝の実兄。高木友枝が医学の道に歩む支援を行った人物。
 現在の福島県いわき市渡辺町松小屋字大沢は,高木友枝の生家があるところ。地元の郷士であった高木家の長男,高木直枝が明治19(1886)年に私財を投じて掘削工事を始めた大沢隧道が,昭和14(1939)年にようやく開通。記念碑の建立にあたり,地元の人々は,台湾から帰国して東京に暮らしていた”地元の名士”高木友枝に揮毫を依頼した。
 当の高木友枝は,終戦をまたずに昭和18(1943)年12月23日に亡くなる。

大沢隧道記念碑 拡大

ベトナムにおけるパスツール

 ところで,フランスの細菌学者パスツール(Pasteur)が設立したパスツール研究所は,かつて植民地としていたベトナムのサイゴン(現在のホー・チ・ミン市)にも1891(明治24)年に設立されている。
 植民地時代の通りの名称はフランス軍人などフランス流であったが,昭和20(1945)年9月2日のベトナム独立宣言以降,ベトナム流に変えられていった。しかし,かつてのサイゴン,現在のホー・チ・ミン市で市の中心部からパスツール研究所に通じる通りの名称には,現在でも「パスツール(Pasteur)」の名が冠されている。
 このあたり,例え植民地支配という二心はあったとしても,マラリア,デング熱,狂犬病又はペスト,南方に住む人々を苦しめた感染症に対し,防疫・衛生という知見をもって南地の現地人に齎した恩恵を後世にも語り継ぐべきとの想いは,ベトナムも台湾も共通のものがあったのだろう。

ホー・チ・ミン市のPasteur通り





東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。