
ギラギラハート
カルナヴァルの焔は燃え、私たちは踊っている。
音楽に乗って目眩がしても回り続け、陶酔し、多幸感につつまれている。
そのように架空のあなたを礼賛する。
愛するあなたに感謝し、あなたを創り出した人たちに感謝し、あなたがいる世界に感謝している。あなたは肉体を持たないけれど、私たちの現実に概念として偏在している。私たちの心のなかで生きている。命を捧げてあなたを愛している。あなたへの愛に満ちた私たちのハートは、眩く光り輝いている。
祝祭の日々は永遠に続く。
私たちはそう信じていた。
1 【キラキラ】
十九歳の夏、私はフリルが過剰についた黒い衣装を身に纏って、敵を撃ち墜とすことに命を賭けていた。胸の谷間を露出し、腰のラインが強調された姿で、世界を守るために魔法の力で闘っていた。
過剰な電子音と高い声が耳障りなアイドルソングが、店内では流れ続けている。その勤務先のバックヤードで、私はスマートフォンを横向きに両手で握りしめている。繋いだイヤホンから聞こえる音楽のリズムに乗って、親指を動かして画面を叩き続ける。愛するひとの歌声で、現実のノイズを遮断する。
バトルが終わって、画面に得点が表示されるのを待つ。今回のイベントを私はいちばんスコアが出る曲で周回し続けていて、この三分弱のバトルを何度、繰り返したか、あまり考えたくない。でも、彼の歌声を聴くのは快楽だからかまわない。忙しなく働いた半日の疲れも感じなくなる。
「みぃこ、夜の準備するから、もう帰れって店長が言ってるよ」
ひと息ついた私に、同じくクローズ後にまだ残っていたユナが声をかけた。視線をちらりと向けると、ユナは既に私服に着替えている。お嬢様っぽい白いブラウスに、編み上げのハイウエストのスカートをあわせた姿は、「小悪魔メイド」をコンセプトにした店の制服よりも、小柄で童顔の彼女には似合っている。
私は、制服のデザインがわりと気に入っていた。真っ黒い露出過多な服を着て、薄ピンク色にブリーチした髪に、悪魔の角のカチューシャをつけると、防御力が上がって強い存在になれる気がする。尖ったスタイルを貫いているため、キャストのなかでも客ウケは別に良くない。指名客もほとんどいないが、私は気にしていない。
「ねぇ、みぃこ、これからバー行かない、新しい推し紹介したい」
源氏名で私を呼ぶユナの声は、どことなく高揚している。話を聞いて欲しくて仕方がない、という顔だ。彼女は週四は店に出ているからシフトがかぶることが多いし、ほぼ同時期に入店しているからか妙に距離を詰めてこようとする。
「え、行かない、忙しいから話しかけないで」
「忙しいって、それゲームじゃん」
「ゲームが忙しいの!」
得点が表示されていた画面から、私は何度かアイコンを叩いて、再びバトルを開始する。スマートフォンの画面を必死でタップし始める。アップテンポの音楽に乗せて、画面上部から落ちてくる光るノーツ=攻めてくる敵を撃墜していく。集中が乱れていてミスが多い。画面の隅のポイントゲージを確認、ライフの残機が既にあとひとつだ。
「もう、みぃこ、可愛いのに超絶オタクだよね」
ユナにそう話しかけられたタイミングで派手にミスった。ライフがゼロ、コンティニューの有無を問う画面、続けない選択肢なんて無い、って、もう回復用の水晶が無い。軽く舌打ちして素早くアイテム購入画面に切り替えて「金結晶」に課金、一万円を突っ込んで千五百個を購入、決済が指紋認証されるのを待つ。
ユナは、ホストクラブが経営元のバーの店員に最近ハマっているらしかった。つい先日まで入れあげていた担当のホストと何かがあり急に冷めたらしく、金かかりすぎるしホスクラ通いはやめる、バーのほうが楽しい、とよく話している。私には何が違うのかよくわからない。ユナの推し変の頻度は高くて、高校生のときからもう二年近く同じひとを推している私とは生きる速度が違うのかもしれない。
私の推しは、このスマートフォン専用ソーシャルネットワークゲームの、画面のなかにいるキャラクターだ。名前は近江煌、十七歳、銀髪に金色の瞳のクールな見た目だが、性格は激情型で好戦的。所属するチームは「リュミエール」、世界を侵略する謎の敵「ヴォイド」と闘っている。
でも、ユナの推しが実在の人間だからって、私の推しの煌くんより上位存在だなんて思わない。
決済が完了し補充されたアイテムの「金結晶」を使い、ライフゲージを完全回復させる。結晶はこのゲーム『ムジカ・ムンディ』内での通貨のようなもので、金や銀や紫など色によって効果が違う。
ムジカは広い意味では「音ゲー」だ。ゲームオリジナルの楽曲にあわせ、落ちてくるノーツを叩き続けることが、ゲーム内ではバトルと呼ばれる。作中世界では、音楽の才能と敵を倒す能力に相関関係がある。キャラクターは皆なにかしらの音楽の素養があり、煌くんは元はバイオリンを習っていたが、今はチームでバンド活動をしている。
今回の大規模討伐イベントが始まってから一週間、睡眠も食事の時間も惜しんで、ムジカをプレイし続けていた。ずっと画面を見続けているので、視界がチカチカし目蓋の端が痙攣し始めている。報酬がハイレア星5の煌くんのカードだから、界隈は年に一度のお祭り状態だ。
当初の計算なら、今日の昼には最大枚数の五枚のカードが獲れて「完凸」している筈だった。店のキャストが突然ひとり飛んで、店長に頼み込まれて代打で呼ばれなければ。客の頼むドリンクに猫撫で声で魔法をかけているあいだも、気が焦って狂いそうだった。
雑居ビルのドアがぎいっと音を立てて開いて、店長がバックヤードを覗いた。半グレ崩れの店長はいつもキツい煙草の匂いを漂わせているので、顔をあげなくてもわかる。
「みぃこ、今日は急に呼んで悪かったな、そろそろ帰れよ? 夜の支度すっから」
「はあい、もうあとちょっとで帰ります」
この店は、夜の時間帯はガールズバーになる。そちらの方が時給は高いけれど、客への営業もマメにしなくてはいけないし、なんとなく、線を超えた向こう側だと思う。小悪魔メイドという特殊コンセプトがあっても「カフェ」のほうがまだ、地元のファミレスバイトの地続きにあった。
三分弱のバトルをまたこなして曲が終わり、得点画面でそろそろかと累計ポイント数を注視する。増えていく数字が、カード五枚目の獲得に必要なポイント数を超えた。報酬獲得という大きな文字と煌くんのイラストが、虹色の光のエフェクトつきで表示される。
完凸した。
イベント終了の夜七時まで一時間を切っていた。ギリギリすぎた。でも、星5完凸の煌くんを得た。最高だ。やりきった。
肩の力を抜いて息をはく。凝り固まった首を回すと骨がこきっといって身体が違和感を訴える。カラコンを入れている目は乾燥で痛んで涙が浮かんでくる。でも、煌くんへの愛が私の全身には満ちている。多幸感で心臓がぎゅんっと締めつけられる。嬉しい、嬉しい嬉しい。
「よし、帰ろっと」
爽快な気持ちで立ち上がった私に、まだ待っていたユナが「みぃこ、ゲーム終わったの?」と訊いてくる。ユナが手にしているスマートフォンの透明のケースには、金髪の優男とユナのツーショットのプリクラが挟まっている。
「そのプリ新しい推し?」
「そうだよお、昨日ふたりでゲーセン行ったんだ」
「距離つめるの早」
ユナの行動力に、驚きと尊敬と呆れを一緒くたに感じる。実在するユナの推しは、同じ街で働く一般人だから、すぐに近づくことが可能だ。ユナは若くて可愛いから、つながるのも難しくない。感覚がバグるだろうなと思う。
私が煌くんとツーショット写真を撮る機会はないだろう。でも、その二次元と三次元の絶対的距離があるから、私は安心して推せるのだ。彼に対してどんなに重い感情を抱いても、どんなに一方的に崇拝してもいい。暴力的に愛しても、彼は傷つかない。
プリクラのなかのユナと彼女の推しは、指を曲げた片手と片手を二人であわせてハートを作るポーズをしていた。私も客とのツーショットチェキを撮るときによく選びがちなポーズだ。愛情が無くても作れるハートの価値は、とても軽い。
素早く私服に着替えて店を出る。まだバーに誘ってくるユナを振り切って、家に帰ることにする。夜遊びに使っているお金は無い。生活も楽では無いのに、今回のイベントで七万円、違う、さっき一万円の追い課金をしたから、八万円使った。
私は、歌舞伎町の雑踏を足早に歩き出す。
街にぎちぎちにつめこまれた無数の店は、眩しく光る看板を飾り、客を引き寄せる為の爆音を流している。無秩序な喧噪のなか、押し寄せる人混みを縫うようにして、靖国通りのほうへ向かっていく。陽が落ちて空が薄藍色から漆黒に変わる。混沌が街を満たしていく。
この街に、私はずっと憧れていた。
どんな欲望を抱いていても、ここに来れば許される気がしていた。
色事も博打も食も娯楽も物も、享楽のすべてがこの街にはある。ひとびとは金銭を快楽という虚無に捧げている。架空のゲームキャラクターのために数万円を溶かすことが、ほかのなにかに劣るだろうか。彼よりも、私の心を満たし幸せにしてくれるものが存在するというのか。
この街では、なんでも簡単に売り飛ばせる。身体はもちろん、きっと心だって。でも、私には、ゆずらないものがある。
肩にさげている中古品のルイ・ヴィトンのショルダーバッグを、私は片手で撫でた。この中には煌くんのぬいぐるみを入れているし、バッグのストラップにはアクリルキーホルダーをつけている。彼の概念が宿っているグッズ類を持ち歩くことで、私は己を支えている。厚底のサンダルで歩くテンポにあわせ、キーホルダーはかちゃかちゃ音を立てる。
オーバーサイズの黒いパーカーは私のボディラインを隠す。服の背面には包帯がぐるぐる巻きになったクマの絵が描かれ、裾からはレザーのミニスカートがわずかにのぞく。顔立ちがキツめで派手だし、背もわりと高いので、辛めのコーディネイトは私に似合う。桃色や水色で全身を固めた、甘い量産型ファッションの女の子に憧れる気持ちもあるけれど。
メイクを盛り、髪を派手にし、爪を濃い色に塗るほど、私は強くなれる。外見で人は人をジャッジする。私が選んだこのスタイルは、私の武装だ。
そして、煌くんと一緒にいれば、私は無敵になれるのだ。
※
通勤電車は会社帰りの人々で満員だった。いつものことだが座れずに、私はドア付近のポールにもたれて振動に揺られていた。パンプスのなかの足が浮腫んでいて、全身が疲労感に満ち、ひどく眠たかった。まだ水曜日で明日も仕事だということに軽く絶望する。もっとも私はものすごい頻度で日々、絶望している。
でも、そんな絶望も吹き飛ぶほどのハッピーを、今日の私は手にしていた。
電車が駅に停車したタイミングで、私はスマートフォンを操作してSNSのアプリを開いた。
[星5煌くん無事に完凸]
シンプルな文章に、スクリーンショット画像を添えた投稿をアップする。私がこの数年狂ったようにプレイしているソシャゲ『ムジカ・ムンディ』の画面を撮ったものだ。最推しのキャラクター近江煌のイラストが虹色の光に包まれている画像は、私がゲーム内のイベントで、彼のカードを最大枚数獲得したことを示している。
愛を誇示する、ささやかな行為だ。
今回はスタートダッシュに失敗して、走るペースが遅かった。それでもポイントランキングの千位以内には入っている筈だ。ムジカは世の数々の有名タイトルに比べると、アクティブユーザーの多いソシャゲではない。それに五枚カードが重なっているからといって、一枚だけ持っている状態とイラストが変わるわけではない。そもそもカードの絵柄はウェブ上で公開されているから誰でも観られる。
だけど、これはただの画像ではない。私の愛の証拠だ。
投稿にさっそく「いいね」のハートが飛んできた。誰が「いいね」のボタンを押してくれたか確かめると、末緒ちゃんのアカウントのアイコンが目に入る。
末緒ちゃんは、私がこうして煌くん絡みの画像や自作のイラストを投稿すると、いつも速攻で「いいね」を送ってくれる。彼女はムジカを始めてすぐに私をフォローして、妙に懐いてくれていた。大好きな相互フォロワーで、まだ十代の彼女を私は後輩のような気持ちで「ちゃん」付けで呼んでいる。
末緒ちゃんは自分のアカウントで、十九歳であることも、歌舞伎町で働いていることも、明け透けに書いている。ムジカ関連のイベントに行ったときは、参戦服姿の自撮りだってインターネットにアップしている。顔はスタンプで隠しているが、ピンク色のボブの髪型は特徴的だ。すらりと痩せていて、黒系で固めた服装はいつも格好いい。
一方の私は、もうすぐ三十歳になる世の中にありふれた派遣社員だ。週五日、たいてい無地のカーディガンにスカートという無難なコーディネイトで、律儀に電車に揺られて会社に通っている。唯一得意なのは絵を描くことだけだ。
でも、末緒ちゃんのような派手でお洒落な若い女の子が、私のイラストに「いいね」をくれることは、承認欲求を一瞬、満たしてくれる。
築二十年、私が小学生の時に父が購入した分譲マンションには、若干がたが来ている。重いドアを開けて「ただいま」を言いながらパンプスを脱ぎ、痛んだ足を解放する。リビングでテレビを観ている母が「梨香、遅くなるなら連絡入れてって言ってるでしょ」と文句を言ってくる。
「ごめんごめん、急にすこし残業になっちゃって」
嘘だ。定時の夕方五時に職場をあがったけれど、そのまま駆け込んだファーストフード店の隅で必死にゲームをプレイしていた。親は、私がオタクだとは知っているけれど、具体的にどんなコンテンツを愛好していて、どんな活動をしているかには、興味を持っていない。
「カレー作ってあるから適当に食べて」
うん、と答えながら、母と目を合わせないまま台所へ向かう。今回のムジカのイベントには、貯金を六万円ぐらいつぎこんだ。完凸のための課金額としては若干安いぐらいだが、私の手取りは十八万円、実家に住まわせて貰っている身としては、流石に後ろめたさがある。鍋のなかのカレーを温め直しながら、しばらくランチ代を安く押さえなくてはと考える。お弁当を持って行けばいいのかもしれないが、深夜までパソコンに向かってインターネットか絵を描く作業をしていると、朝はとても気力が出ない。
母の作るカレーは、大人になった私には甘すぎる。でも作って貰えるものには文句を言わず、黙ってスプーンを口に運ぶ。来月のクレジットカードの請求額を考えると、すこしお腹の底がひんやりする。今の会社で働き始めてそろそろ二年半、派遣期間が終わったらどうするのか、転職活動の準備も始めたほうが良い。でも、スキルアップの為に費やす時間など私には無い。かといって結婚する可能性もゼロだ。大学の同期たちが順調にキャリアを積み、ライフイベントをこなしていくのが、遠い国の話のようだ。
それでも、私にとっては日々は充実している。
私の人生には煌くんがいるからだ。
机に置いていたスマートフォンが振動し、メッセージアプリの受信通知が画面に現れた。リアルの人間との繋がりは、ムジカを通じて交流しているインターネットの向こうの人たちよりも、もはや希薄だった。カレーを食べ終えて、怠い気持ちでアプリを開く。高校のクラスメイトが結婚するという報せが舞い込んでいた。これで今年三人目か。この子とは同じ部活だったから、式に呼ばれるかもしれない。おめでとう、と文字を打ちながら、お祝いの気持ちよりも鬱陶しさが圧倒的に勝っているのを自覚する。仲が良かった同級生みんなでお祝いをしよう、という趣旨のチャットグループが早速作られ、私もメンバーに追加される。プレゼントを共同で買おうという提案がされ、メンバーが次々と賛同する。憂鬱が加速していく。昔の友人たちが挙げていくプレゼントの案を眺める。コーヒーミル、ティーカップセット、高級鍋……なんでもいいよと言いたいのを我慢する。
十年以上前の友情よりも、私にとってはオタク活動のほうが上にあるのだ。
結婚式、行きたくないな。
薄情だけど、それが本音だ。ご祝儀、ドレスのレンタル代、遠方の場合は交通費、決して負担は軽くない。お金が欲しい、と切実に思う。資本主義のこの世ではお金があることが力だ。
でも、いくらお金を得ても、私はそれを煌くんのために費やすのかもしれない。だって私の心は彼のものだからだ。他の誰にもわたさない。
私の心臓が欲しいなら、肉をくりぬいてみせてくれ(ただし一滴の血も流さずに)。
溜息をついてメッセージアプリを一旦閉じる。SNSアプリを立ち上げて、オタク活動用のアカウントを眺める。私は「七条梨香」から「リリカ」にモードを切り替える。
今回のイベントの感想や、報酬の煌くんのカードの獲得報告が次々と流れてくる。煌くん推しの界隈には、ストーリーはおおむね好評だった。彼と同じチーム「リュミエール」の灰音くんというキャラクターとの絡みが多かったこともポイントが高かったようだ。私もそのふたりの組み合わせは好きだけれど、二次創作をする多数派のクラスタのようにカップルとして見なしてはいない。リュミエールは四人のチームで、全員が一体となって闘っている、その絆が魅力だという信念を持っている。
画面をスクロールしていると、黒髪の女の子のイラストのアイコンが目についた。派手なマゼンタピンクを背景にしているから、すぐに誰だかわかる。ハンドルネームは「せいら@ムジカ」だ。投稿は、私と同じように煌くんのイラストのスクリーンショット画像、[イベ完走したよ!煌担のみんな乙でした~勝たんしか煌]とスラングを使ったテンションの高いコメント、そしてキラキラのついたハートの絵文字が文末に三つ並んでいる。
せいらは動画配信者だ。美容の話題と女子の本音トーク中心のありふれたタイプなのだが、巧みな話術と抜群の顔の可愛さで数字を稼ぎ、ちょっとしたネットアイドルのようなポジションで、配信チャンネルのフォロワーは数十万人いる。配信者としては中堅と言えるだろう。甘いファッションと猫系統の愛らしい顔立ち、年齢不詳だがおそらく二十代前半、若い世代には幅広く指示を集めている。
そんな彼女が、ムジカと煌くんに突然ハマったのは、半年ほど前だった。友人にすすめられて軽い気持ちでゲームを始めたらしいが、すぐに配信サービスにサブチャンネルを作り、ムジカの話題を投稿するようになった。今時の若い子は、私が十代だったときほどオタク文化に抵抗がない。
せいらは、グッズを集めて作った「祭壇」や、ゲーム内のガチャを回す様子、ぬいぐるみとのお出かけなど、推しアピールの動画を次々にアップし、最近はコスプレにも手を出し始めた。せいらの動画がきっかけでムジカを始める新規も現れてきた。
私は、せいらがムジカ用に持っているこのSNSアカウントを見ると、薄暗い靄が心に満ちていくのを感じる。苛立ち、嫉妬、羨望……澱みの名前はひとつに絞れない。でも、彼女をウォッチすることはやめられない。そもそも煌くん推しの界隈に居たら、こうしてすぐに彼女の投稿が流れてくるし。
もちろん、せいらを心良く思っていない人も多い。新参者のせいらが、煌くんのトップオタだと世の中に広く認識されている現状は、「古参」を自認している人間にとっては面白くないものだ。匿名のアカウントで彼女についての愚痴を延々と書いているひともいる。せいらのアンチと、逆に彼女を持ち上げる「囲い」と、どちらも彼女に執着している。私はそれらを眺めすぎないように適度に流す。私と煌くんは一対一の存在で、誰かの所為でこの純粋な気持ちを曇らせたくない。
そう思い悩んでいる時点で、私も既にせいらの存在に影響されているのだけれど。
せいらの先ほどの投稿には、既に数百個の「いいね」がついている。知らない誰かの愛と憎しみを背負ったせいらの人生は光り輝いている。
※
せいらちゃんの投稿にはすぐに気がつく。見失わないように、彼女のアカウントだけを入れたリストを作っているからだ。
歌舞伎町から一時間弱かけて中央線の端のほうにあるアパートまで帰った。ワンルームの隅のベッドに寝転がった「みぃこ」は「末緒」になって、インターネットを彷徨い出す。仲良しのリリカさんがSNSに煌くんのスクショをあげていたから、すぐに「いいね」をつけた。リリカさんは出版業界で働く大卒の会社員で、賢そうな言葉を使いシャープな線のイラストを描く。観る映画やちょっとした持ち物の選びかたも、都会的でセンスが良い。私とは遠い世界に住んでいる。でも、煌くんの存在が、私たちを結ぶ絆だ。
画面をリストに切り替えると、せいらちゃんもスクショを投稿していた。私はせいらちゃんの投稿には「いいね」をつけない。熱心に追っているのに、他のフォロワーには彼女のファンだと思われたくないという、複雑な心境の結果だ。
なれるなら、せいらちゃんみたいに、好きなことを貫いて、崇められるスペシャルな存在として成功したい。使い切れないほどのお金を推し活につぎこみたい。画面の向こうに居る彼女は、人生を謳歌しているように見える。
私は、せいらちゃんがルームツアー動画で紹介していた自宅を思い出していた。おそらく一等地にある広々したマンションの壁に、煌くんの等身大タペストリーがかかっている。部屋の中心にある、缶バッジを大量に積み上げた巨大な祭壇は、作るのに恐ろしい金額がかかったはずだ。動画のコメント欄には、マジすぎて痛いと言って叩くものから、憧れますという羨望まで、無名の視聴者たちの彼女への感情が渦巻いている。
動画のなかのせいらちゃんは、煌くんのぬいぐるみを抱いて無邪気に笑う。リボンとフリルが山ほどついた甘いテイストの服が華奢な体格にはよく似合う。黒髪はさらさらまっすぐで、色白の肌には赤いアイシャドウが映える。常に高いテンションで喋り、忙しなくオーバーな動きをして、全身で私たち視聴者を楽しませようとする。
私はそんな彼女のことを、この狭いアパートのベッドで身を丸め、小さなスマートフォンの画面でじっと眺める。部屋の床にはエナジードリンクの空き缶や水のペットボトルが転がり、コンビニ食の残骸が使わないシンクには積み上がっている。エアコンの効きは悪く、夜の空気は生ぬるい。蒸し暑いなかを歩いてきた身体は汗ばんでいるが、シャワーを浴びるのが億劫だ。
夢があって、北関東の奥のほうにある実家を出てきた。美大に入りたかったけれど、家にはお金がなく、妥協してイラスト系の専門学校に入学した。将来は絵で食べていきたい。漠然とそう考えていた。
雑然とした部屋の壁際に、大きなキャンバスが立てかけてある。専門学校の課題のアクリル画を描くためのものだった。去年の冬、新宿三丁目の世界堂から抱えて帰った。でもキャンバスは、鉛筆で下絵を軽く描いたところで、ほぼ白いまま放置されている。
学校に通うのは子どもの頃から苦手だった。リアルで人間関係を築くのがとにかく私は下手くそだ。それなのに接客業であるコンカフェで働いているのはけっこう笑える。時給が良いという一点で大抵のことを我慢している。
夏はボーナスシーズンだから、繁忙期だと業界では言う。指名客がろくにいない私も、その恩恵に預かってそこそこ稼いだ。でも、もうすぐ八月も終わる。
このまま私は、泥のような日々のなか、だんだん腐っていくのだろうか。
スマートフォンの画面をスクロールすると、せいらちゃんが煌くんのぬいぐるみと頬をあわせた自撮りが流れてきた。写真加工アプリを使って、ネオンライトのように発光したハートを周囲に大量に飛ばしている。王子様に溺愛されている選ばれた少女のように、彼女は悠然と微笑んでいる。
希死念慮に不意に襲われる。
衝動で[やば、軽く死にたみが来てキツい、完凸鬱かも]とアプリに文章を打ち込んだ。一瞬だけ迷うが、そのまま投稿してしまう。こんなネガティブな言葉は誰も幸せにしない。わかってる。でも、メッセージボトルを海に投げるみたいに、インターネットに流さずにはいられない。
私は無敵の筈なのに。なぜだか心に虚無感が満ちていき、涙が目の端から流れ落ちていく。
※
末緒ちゃんが落ち込んでいる。
お風呂からあがってパジャマに着替え、自室のノートパソコンでふたたびインターネットを開くと、暗い言葉が末緒ちゃんのアカウントにいくつか投稿されていた。バスタブのなかではイベントの感想をどう書こうかと浮かれて考えていたけれど、彼女の言葉にやや頭が冷える。画面のなかの文字列だけでは深刻さの度合いは測れないが、情緒が不安定な子なのは知っている。心配しつつ、十代だな、と冷静な目で見ている面も私にはある。
(完凸鬱、か)
達成のあとの虚脱は私にも理解できる。冷静に考えれば、十代の女の子がゲームのために数万円を捻出するのは大変なはずだ。でも、この投稿に「いいね」をつけるのも違うな。すこし迷ってから曖昧なエアリプを飛ばす。ただのひとりごとのような投稿を。あなたへ向けているメッセージだよと匂わせる程度に、傷つけないように距離を測りながら。
[人生キツいけど煌くんがいるから生きる]
[煌くんが存在する世界はキラキラしてる]
末緒ちゃんから「いいね」がつく。赤いハートがひとつ、画面のなかでぽん、と跳ねる。とどいている。ほっとする。ねえ、生きていようよ。夜空の向こうにいる彼女に向かって念じる。だって、この世界には煌くんが「いる」のだ。
私たちは人生を賭けて彼を愛している。病めるときも健やかなるときも。
二次元の存在の彼からは、愛はかえってこない。そのほうがいい。彼は私たちをまなざさない。
2 【クルクル】
[秋のフルーツパフェ祭はじまりました! みんな食べに来てね]
そこまで打ってから、文末につける絵文字を星とハートで迷った。私は絵文字を駆使するのが苦手だけれど、[みぃこ]のアカウントは営業用なのだから愛嬌を振りまかなくてはいけない。結局、ハートが回転しているような絵文字を選び、パフェを持ってほほえんでいる制服姿の私の写真と共にSNSにアップする。
「みぃこ、オーダー取りに行って」
店長に指示を出され、一旦スマートフォンを置き、オーダー用のボードを持ってレジカウンターから出る。まだ月曜日の夕方なのに店は混雑していた。九月の後半に入っても暑さはいまだに厳しく、冷たいドリンクがよく売れる。
注文を取りに向かったテーブルの客は、三十代なかばぐらいに見える男性二人組だった。片方の男は、何度か接客したことがある。自称ゲームクリエイターで、ラフな服装で昼から何人かでよく来店している。仕事場が近いのかもしれない。もうひとりには覚えがない。フレームが太い眼鏡をかけた、痩せ型の神経質そうな男だった。
「ご注文お決まりですか」
小悪魔メイドたちが働く魔法の国では、どのメニューにも原価の何倍もの値段がつき、子どもっぽい飾りがフードにはあしらわれている。ゲームクリエイターの男は、慣れた様子でメニュー表を指さしていくつかの品を頼む。いっぽう、眼鏡の男のほうは、私の顔を真顔でじっと見ていた。値踏みされているような視線に、笑顔がすこしだけ引きつる。
「……君、名前なんていうの」
「みぃこです!」
空元気を出して、高い声で答える。なんだかこのひと苦手かもしれない、と、第一印象で感じる。
「若そうだね」
「成人済みですよお」
「じゃあ酒、飲める? 一緒に飲もうよ」
別に楽しくもなさそうに、低い声で静かに彼は言う。この店にはお酒はそろっているが、キャバクラとはシステムが違うので、同じテーブルの席に座って接客することはない。どう説明したものか、と微笑みをキープしながら考える。
あ、このひと、パパに似てる。
淡々とした喋りかたと、感情の読めない目が似ている。そう思ったら、逃げ帰りたくなった。指先がすこし緊張で震える。
私の父親は、大手建設会社の社員だった。私の地元にある子会社に派遣されて来て、現場監督をしていた。ストレスの多い仕事だったのだろう。日々の鬱憤を彼は家族にぶつけていた。父の言うことは我が家では絶対で、殴られても罵られても、養ってやっているんだと言われると、どこにも逃げられない。
父に怒られて泣く母の声を、薄い壁越しに聞きながら、私は子ども部屋で静かに絵を描いていた。母はマンガ家になりたかったのを、二十歳そこそこで娘を産んで諦めた。叶わなかった夢を私に継いで欲しかったらしく、パソコンや画材を与え、マンガは好きなだけ買って貰えた。父はそれらを無駄遣いだとなじった。新作ゲームソフトの発売日には学校を休んで良かった。宿題より先にアニメを観ても母は怒らなかった。父は振るわない私の成績に失望していた。
すべてが無駄な投資にならないようにしないと。そう思って、私は絵にだけは一生懸命に取り組んだ。でも、あまり向いていないことに、うっすら気がつき始めていた。
私は眼鏡の男にぎこちなく、なんとか店のシステムを説明した。常連の男が時々補足してくれるのがありがたかったが、説明してから連れてきてくれよ、とも思った。
「ユナ、三卓の接客、代わって貰っていい?」
キッチンの隅で、私はこそこそとユナに囁いた。パンケーキの上に猫やウサギのかたちのクッキーを飾りつけていたユナが聞き返す。
「面倒なお客さん?」
「なんか雰囲気が苦手かも」
「みぃこ、あんまりワガママ言っちゃ駄目だよ」
私を諭すユナのカラコンで強調している瞳は冷たい。ユナは最近、すこし私に厳しくなった。ユナの推しの話をきちんと聞いてあげなかった所為かもしれない。店長が私のことを、気概があるとなぜか気に入っているのを、贔屓だと感じているのかもしれない。
「ごめんて、夕ご飯なにか奢るから」
「ほんと?」
財布の中身は厳しいけれど、それでも私はあの男の接客をしたくなかった。コンカフェに来る客は厄介な人間も多いが、大抵のことは仕事だと受け流せるのに、今日に限っては妙に抵抗感があった。
「じゃあ特別に今日だけ変わったげるよ、最近お金ないからありがたいし」
「お金ないの?」
「推しの店、ホストほどじゃないけど酒高いからさ」
そう苦笑しながら言ったユナは、私からオーダーのメモを受け取る。店長がキッチンから季節限定フルーツパフェを運んでくる。
「みぃこ、五卓にこれ出して」
私は、はい、と返事をしてふたたび客席に向かう。厚底靴で歩くと店の床は滑りやすく、赤い網タイツがすこし太腿を締めつける。
ユナはうまく、逃げた私の代わりに客と話してくれている。私はほっとして、残りの勤務に向けて気分を切り替えた。
「眼鏡のお客さんのほう、みぃこのこと気に入ってるみたいだったよ」
退勤して、ユナとふたりで店の近くのラーメン屋に行った。野菜がたっぷり入っていて、澄んだ醤油ベースのスープが特徴的な店だ。ここヘルシーだから、とユナが選んだ。だね、と私は敢えて反論しなかった。仕事帰りのサラリーマンと出勤前の夜職のひとびとが入り交じってカウンターに座っている。煮卵を頬張ると、仕事でくたびれていた身体が喜ぶ。
「私のなにがよかったのかな……とりあえず、ありがとね、このあとユナは推しのいるバー行くの?」
「悩む、行かないと不安になるけど、毎日はお金ないし……パパ活するかなあ」
ユナがあどけない顔で、あっさり言ったのにドキリとする。私の地元では噂がすぐに広まるから、パパ活という名前で包んでいても、ときに性行為を伴う商売を個人でしている子は少ないだろう。でも、この街でならいくらでも相手はネットで釣れる。
「パパ活かあ……」
ユナは平然とした顔で麺をすすっている。ぽってりした唇が脂で光る。
私だって、パパ活への興味がゼロではない。推しにかけるお金はいつだって足りない。でもパパ活で稼いだお金を煌くんに使うのは躊躇する。彼を真っ直ぐ見られなくなる、そんな気がする。
「みぃこ、やってたっけ」
「ううん、したことないよ、いや興味なくはないけど……なんか面倒っていうか、職場のほうが、色々、守られてるかなって」
私は首を横に振り、ユナを傷つけないように、気乗りがしない言い訳を探した。
「彼氏が嫌がるとかはある?」
ユナがさらりと探りを入れてくる。推しの話もだけれど、男絡みの恋愛話が彼女はとにかく好きなのだ。私はレンゲで葱とスープを思い切りすくって口に運びながら、なるべく軽く言う。
「それはないよ、彼氏いないし、なんかな、私はリアルの男はもういいや」
陳腐なセリフだ。
高校時代、同級生の彼氏がいた。今から思えば、彼氏がいるという経験値のためにつきあっただけのような気はする。つきあい始めの最初は優しかったけれど、だんだん私を束縛するようになった。高校三年生の夏休みのことだ。登校日の帰りの昼下がりだった。ふたりで、日射しを遮るものが無い閑散とした駅前の広場に座って、コンビニで買った水色のソーダアイスを囓っていた。「私、東京に行くつもりなんだ」そう教えたら、彼氏は「おれのために地元に残れ」と言い出した。いや、あんたより私の人生のほうが大切なんだけど。頬を叩かれて、唇の端が切れた。あの血の味を覚えている。ソーダ風味の甘味料と混ざりあって、ぬるく喉を落ちていった。陽光が肌を焼いていた。私は男を見る目が無いなと思った。母親に似て。
彼氏がいなくなり暇になった私は、なんとなく気になっていたソシャゲをスマートフォンにインストールした。そうして煌くんに出会ったのだ。
それまでも、二次元のキャラクターを好きになったことはあった。でも、そのときは特に、奇跡のようにタイミングがあった。画面のなかで懸命に歌う煌くんのムービーを観た途端、私の胸に雷が落ちた。狂おしく惹かれ、このひとのことが知りたいと思った。三次元で恋に落ちるのと、なにも違わないと思った。元彼に対して、そんな熱に浮かされたような気持ちになったことはなかった。
煌くんがリアルに隣にいたら、きっと好きにならない。彼の強気でときどき傲慢な態度は、ひたむきに敵と闘っている姿を知っているから格好よく見える。画面の向こうのCGイラストの煌くんは、心地良い距離の存在だった。私を殴ることだってない。
ラーメンの熱いスープをごくんと飲み込んだとき、今日の曜日を思い出す。
「あ、やばい待って」
誰にも急かされていないのに、反射でそう言っていた。既にラーメンを食べ終えて、お冷やをコップに注いでいたユナが、きょとんとした顔で私を見る。
ムジカの公式アカウントが定期的に新情報の告知をするタイミングだった。曜日感覚の無い仕事をしている所為で、うっかり忘れていた。私は行儀悪く食事を中断し、慌ててスマートフォンを手にしてSNSアプリを開く。
明後日からのガチャの報酬が発表されている。
「うわ嘘いま来る?」
驚愕してひとりごとを口走ってしまう。ユナの視線が痛いが、それどころではない。
ムジカでは、キャラクターのカードを得る方法が基本、二種類ある。ひとつはバトルイベントの報酬だ。もうひとつ、ガチャと呼ばれる、ランダムでカードを得られる仕組みがある。ガチャはどんなソシャゲでもメジャーな収益システムだ。もちろん、ガチャを回す度に、課金アイテムの水晶を消費する。レアリティが高いカードほど、ガチャからの排出確率は低くなる。
煌くんの新しいカードが、期間限定のガチャのピックアップカードの一枚だと発表されていた。震える手で、新規イラストを拡大して眺め回す。次のバトルの舞台はアジア風の地区らしく、中華風の衣装の柄や形には新鮮味がある。
先月のイベントからの連続の供給に歓喜する一方で、この煌くんを得るためにいくら使うことになるだろうかと怯える。ガチャを回さない選択肢は無い。推し始めたら、後には引けない。とりあえずイラストの作画は最高だった。憂いの漂うクールな表情に心臓をつらぬかれる。
「顔が良い……」
スマートフォンの画面を凝視して呟き、深くためいきをつく。私の様子を小首を傾げて見ていたユナが、理解不可能と悟ったのか、黙ってお冷やを飲む。パパ活はともかく、もっとシフト入れて稼がないと駄目だ、と、心に決める。
それにしても私の推しは、なんて美しいのだろう。リアルで削られていた気持ちが軽くなり、心がくるくる躍り始める。
※
さきほど発表された新規の煌くんのイラストは、いわゆる「控えめに言って最高」なものだった。シノワズリとでも言うのか、エキゾチックな衣装には新しさがあった。紺地に金糸で花や龍の刺繍が入ったデザインは、勝ち気だが根は繊細な煌くんのイメージを的確に表している。
「生むっつ、お待たせしました」
店員のぶっきらぼうな声に、現実に引き戻された。椅子から立ち上がった私は、運ばれてきた生ビールのグラスを素早くテーブルに配っていく。同僚たちが「青椒肉絲」「ピータン」「蟹と卵の炒め」などと、一皿四百円のメニューを口々に頼む。会社の近所のありふれた町中華にはロマンの欠片もない。まるで油が店中に充満しているように、空気は重い。
職場の出版社の懇親会だった。給料も出ないのに拘束されるのは気が進まなかった。でも、私が関わった大きなプロジェクトが一段落つき「七条さん今回はありがとう、今日はぜひ来て欲しいな」と名指しされて、断れなかった。
私を誘った当人の永嶺さんは、向かいの席でお通しの漬物をのんきに囓っている。下手をすると学生に見える、柔和な雰囲気の細身の青年だが、数年にいちどの新卒採用で会社に入ったエリート編集者だ。
彼の担当した新書が十万部を突破し、社を挙げて販売促進に力を入れることになった。私は広報課に所属する下っ端のデザイナー兼サポーターなのだが、施策のための販売台や書店ポップ、広告回りの手配などを一手に引き受けることになり、永嶺さんと打ち合わせをする機会も多かった。
「あ、どうも、七条さんは何か食べもの頼みました?」
私からビールを受け取りながら、永嶺さんはさりげなく訊いてくれる。推しの新規情報で胸がいっぱいなのでいいです、とも言えない。
「海老マヨありますか」「あります」「じゃあそれで」「すみません、あと海老マヨもお願いします、七条さん海老好きなんですか」「まあわりと……」
なんて内容の薄い会話だろう。
派遣社員の私も場に馴染めるように、永嶺さんが気を遣って話しかけてくれているのは、良くわかる。それでも私は、早く懇親会を抜け出して家に帰り、煌くんの新規絵のカードがガチャで得られるように祈願のイラストを描きたいな、などと考えていた。
隅の席でビールを飲みながら、話題に乗り遅れない程度に皆の会話を聞き流す。
「永嶺くんって、もう三十歳になるんだっけ」
「このあいだ入社してきたばかりな気がするけど、早いなあ、そりゃ俺も歳とるわ」
「まだ独身ですか?」
今日の主役の永嶺さんが、当然、会話の中心だ。私がかろうじて名字を覚えている程度の、普段は関わらない社員たちが、彼を質問責めにしている。私は黙って、にこにこの笑顔を顔に貼りつけている。
「独身ですけど、まわりは既に結婚ラッシュが終わってきましたね」
永嶺さんは、プライベートな話にも嫌な顔を見せずにさらりと答えている。私も今月で三十歳なんですよ、わかります、特に中高の友達は結婚するの早くて、といった合いの手を脳内で入れる。
「へえ、最近また世の中、早婚化してるのかな」
「若い子のほうが将来設計きちんとしてますよ」
「アラサーはもう若くないでしょ」
「わあやめて、突き刺さる」
盛り上がるテーブルの様子に、すこし引いている私を、永嶺さんがチラリと見た。
「七条さんも僕と同じくらいですか?」
「あ、そうですよ、ラッシュなのすごいわかります、みんな駆け込んでる感じで」
にこにこを、すこし崩して答えながら、会話に入りたくないなと内心では思っている。非社交的で性格が悪いことはわかっている。でも、この飲み会に四千円払っているのも思い出す。
「あ、海老マヨ来た、貰います」
会話を断ち切って、運ばれてきた料理に手をつける。あぶらっこい海老はそれなりに美味しい。せめて元を取る程度には飲み食いしたい。正社員より低く傾斜をつけて貰っていても、新人よりは参加費を払っている。私はもう若くないので。ビールが空になって、おかわりの紹興酒を頼みながら、今夜は絵を描く余裕はないと、諦める。
※
新宿の外れにあるバーは、推しのイメージを伝えると、それを元にカクテルを作ってくれることで有名だった。私が知っているような歌舞伎町の騒がしいバーとは違い、モダンな内装の店内は落ち着いていて、客層も大人びていた。
私なりの煌くんの解釈を紙に書いてバーテンダーに渡すと、薄青い色がついたカクテルが細いグラスに入って出てきた。三日月型にカットした檸檬がグラスの端に飾られている。ノンアルコールで頼んだが、美しい見た目だけでも酔えそうだ。一方、リリカさんが同じように、煌くんのイメージを伝えて出てきたのは、味の濃そうな琥珀色のカクテルで、丸っこいグラスに入っている。同じキャラクターなのに、とらえかたがそんなに違うのかと面白い。
「こちらの青いカクテルは、オーダーのイメージが、繊細で鋭い刃のようで、過去の悲しい思い出に囚われている、ということでしたので、辛めですっきりした味わい、見た目もクールに仕上げています。もう一方は、胸に秘めた強い信念や熱い想いを、普段は表には見せずに闘っている、というお話を元に、瓶に林檎がまるごと入っているカルヴァドスというお酒をベースにしています」
バーテンダーの流暢な説明を、神妙な顔で私たちは聞いた。
「すごい、ぜんぜん雰囲気が違いますね」
「煌くんのどこが好きなのか出てるっていうか、解釈ってやっぱ人ごとにあるね」
私は普段あまり使わない敬語で話していた。リリカさんとは、ムジカ関連の声優トークイベントなどで挨拶したことはあったけれど、こうして二人きりの場で話すのは初めてだ。
「リリカさんはお酒、強いんですか」
「まあまあ飲めるけど、普段より楽しい、職場の飲み会とはぜんぜん違うから」
年上だと知っていても、はにかむリリカさんを可愛らしいひとだと私は思った。ゆるくウエーブのかかったセミロングヘアに、爪もきれいなピンクベージュで、上品でやわらかい雰囲気の女性だ。私は深い臙脂色に爪を塗り、白シャツに黒いビスチェをあわせ、ダメージ加工のブラックジーンズを履いている。傍から見たらちぐはぐな二人組だ。
「末緒ちゃん、今日はありがとうね、興味あったけどひとりでは来にくいから……」
「ぜんぜんいいですよ、リリカさん、たしかもうすぐ誕生日だし、と思ったのもあって声かけて」
「え、覚えてたんだ、嬉しすぎる」
「去年もこの時期だったなって」
「もう歳とるのは別に嬉しくないけどね、でも、バースデー演出はめっちゃ楽しみ!」
リリカさんの声がワントーン高くなる。ムジカには、プレイヤーのバースデーを登録しておくと、その日にキャラクターがお祝いのメッセージを言ってくれる演出が実装されている。
「いいなあ、私は誕生日が年末なんで、まだしばらく見られないんですよ」
そう言いながら、私は銀色のマドラーでそっとカクテルをかきまぜた。
推しカクテルのバー行ってみたいな、というリリカさんの投稿にいち早く反応し、こうしてオフで話す機会を作ったのは私のほうからだった。実生活でムジカの話をできる相手が周囲にいないから、同じ煌くん推しのひと誰かと、思い切り喋ってみたかったのだ。
「そういえば、この間、せいら、ちゃんが……知ってるよね、せいら誕生祭とか言ってちょっと煌くんのバースデー演出のネタバレっていうか、匂わせ言ってたよね」
「あ、せいらちゃんのサブチャンネルの動画ですよね、観ました」
リリカさんは普段、せいらちゃんの投稿をスルーしている。あまり好感を持っていないのだろうとは察していた。
「セリフのニュアンスちょっとわかっちゃうし、さすがにどうかなって思ったな」
「そうですね、まだ観れてないひとも多いだろうから……」
せいらちゃんを貶さないようにしつつ、リリカさんの不満に寄り添うのは難しい。私はカクテルに軽く口をつける。せいらちゃんは最近ますます煌くん推しアピールを強くしていて、ムジカのファンの評判を落としていた。私はせいらちゃんには好感を持っているから、ひやひやしながら彼女の様子をインターネット越しに見守っていた。
「まあ、でも実際に観ると、また違うと思うしね」
リリカさんは曇り顔をやめて明るくそう言うと、カクテルに口をつけ、意外と甘い、と驚いた。私のカクテルはさっぱりした味わいですこし炭酸が辛い。私たちは、同じ煌くんを推しているけれど、彼の好きな側面は違うのだろう。私の愛は、私だけのものなのだろう。それでも、こうして愛するものについて語りあえることは、特別な幸せだった。リリカさんと延々と煌くんについて話していると、気持ちが高揚し、胸の鼓動が高鳴っていった。
※
午前零時が訪れ、三十歳になってしまった。一瞬、その現実が私を押し潰しそうになる。
ベッドの上で寝返りを打ち、心にのしかかる重みを横にどけるように、軽く首を回す。溜まっている疲労の所為で、肉体的にも背中が張っている。近頃はかなり仕事が忙しく、ほんとうは早めに就寝したい。だけど今日このタイミングだけは起きていたかった。私はスマートフォンを手にして、ムジカにログインする。
虹色の光とともに[HAPPY BIRTHDAY]の文字が画面に現れる。ホーム画面に設定しているキャラクターが、プレイヤーにお祝いを言いに来てくれる。もちろん、煌くんが画面の中央に立っている。
『誕生日おめでとう。君が今日も生きていてくれる、それだけで僕は嬉しい』
煌くんの言葉が、静かな部屋に響く。煌くんの声優によるボイスつきだ。普段は誰に対しても手厳しく淡々とした態度の煌くんが、こんなに優しく、私のためだけにお祝いを言ってくれた。生きていることを祝福してくれた。
セリフがシンプルに良すぎる、震える。声優の演技の力があるとはいえ、ありふれた言葉が真っ直ぐに届いて、染みてくる。考えたひとの名前もわからない、ゲームのちょっとしたフレーバーテキストなのに、信じられないほど嬉しい。感極まって目に涙が浮かんでくる。
年齢を重ねることを、こんなに純粋に祝ってくれるのは、二次元の推しだけだ。現実で誰にも愛されていない私が、生きていることを、ただ優しく肯定してくれる。
ありがとう。私もあなたがいてくれるだけで嬉しい。あなたにずっと、いてほしい。その気持ちで思わずアイテムに課金してガチャを回す。
※
NEW[ユーザーの皆様への大切なお知らせ]
『ムジカ・ムンディ』は2024年3月31日の18時を持ちまして、サービスを終了させて頂きます。今までご愛顧頂きましたユーザーの皆様にお礼申し上げます。以下、終了までの注意事項とスケジュールをご確認ください……………………………………………
3 【ギザギザ】
ムジカのサービス終了が発表されて半月経つけれど、私は相変わらずの虚脱状態だった。油の切れかけたからくり人形のように、ぎこちなく日々を送っている。コンカフェの仕事をマニュアルどおりにこなすこともギリギリだった。接客していても、一ミリも笑えない、と幾度も思った。
しかも近頃、私が苦手だと思った眼鏡の客が、日を開けずに来店する。私を認識している数少ない固定客の出現を店長は喜んでくれたが、最低の精神状態なのに彼に向けて笑うのは苦痛だった。なにを考えているのか、いつも無表情な彼の前で、オムライスにケチャップでハートを描く。愛の魔法をかけちゃいますよ。ほんとうは、私の愛を欠片も売りたくない。煌くんのためというモチベーションだって失っているのに。
バックヤードでスマートフォンを手にして放心している私を見て、店長はユナに「みぃこは失恋でもしたのか?」と訊いた。気怠く「推しになにかあったっぽいですよお」と答えたユナは、最近メイクが一段と派手になった。多分、バー店員の好みなのだろう。私は装う元気がまったく出ず、ルーティンの同じようなメイクしかできなくなった。毎日ムジカを立ち上げては、ログイン画面からなかなか進めずに、表示されるキャラクター集合イラストをずっと見つめる。失恋よりもタチが悪い。世界から煌くんは消えるのだ。
「そう言ってもストーリーのログは残るし、今まで楽しかった思い出も残るし、アニメやマンガならいつか最終回が来るんだし」
金曜日の夜にリリカさんと、勤務先の近所のシーシャバーで落ち合った。ときどき通っているお店で、気持ちが落ち着くんです。そう言ってリリカさんを誘った。リリカさんは普段は歌舞伎町に足を踏み入れないらしく、映画館前での待ち合わせの時点からおどおどしていた。でも、ここはシーシャを出す店としては敷居が低い。白を基調にしたインテリアや、柔らかい照明と穏やかな音楽は、リリカさんが行くようなカフェとあまり変わらない筈だ。甘い煙と共に発されたリリカさんの言葉は、彼女自身を慰めようとしているように聞こえた。
「私は、まだそういう風には割り切れないです、毎日ムジカにログインして、煌くんに会って、バトルに出撃して、それはいちどだって同じじゃない、私はそれが永遠に続いて欲しかったし、続くって思ってました」
「……うん、わかるよ」
私のキツい言いかたに、リリカさんはうつむいてしまう。大人の女性を泣かせてしまいそうだ、と私はすこし焦る。気まずさを誤魔化すように、シーシャを深く吸ってはあっと煙を空中に吐くと、きつめのお香のような匂いが私を包む。
「サ終、突然すぎるし早すぎると思います、いや、三年、四年か、続いたんだからソシャゲのなかではまあまあですよね……でも納得行かないです、熱いファンだってちゃんと一定いるし、運営側も、ライブとか企画してこれから盛り上げて行きたい感じだったのに」
「コアなファン以外に広がらなかったのが、厳しかったのかな……システムもストーリーもちょっと難しいしね」
リリカさんは哀しげな顔で言うと、シーシャをふうっと吸い込んで、まだ慣れていない所為でコホコホとむせた。ゲームのリリース当初から、ずっと熱心なユーザーだったリリカさんは、私よりもっと傷ついているだろう。
「…………私の課金が足りなかったから、いけないのかな」
歪んだ思考だとわかっていても、そう思うのはとめられなかった。口に出してしまった言葉は、ねばねばした黒い油のような呪いになり、私の心に絡みついた。
「もう私、わからないです、いくらあればソシャゲってずっと続くんですか、何億、何十億円ですか? 今すぐ億万長者になりたい」
パイプを持つ両手を、ぎゅっと握りしめる。爪が手のひらに食い込むぐらいに。神さまに願うみたいに。
「サ終は誰かひとりの責任とかではないよ、でもさ、でも、私、おわかれしたくないなあ」
リリカさんはそう言って、すん、とすこし鼻を啜る。
「もう大人なのに、こんなことで傷ついてて、ばかみたいかもって思うけど、私は命懸けてたから」
「大人とか、そんなの、つらさには関係ないですよ」
私たちの痛みを理解できるかは年齢や職業で決まらない。架空の存在だろうと、なにかを心から愛したことがあるか、それだけだ。
「最近、ネットもあんまり見てないんだよね、誰がなに言ってても落ち込むから」
「荒れてますよね、あたりまえだけど」
サービス終了を受け入れられないファンの言葉をずっと浴びているだけでも、メンタルには悪影響だ。ムジカを本格SFバトルゲームと銘打って売り出したのに、女性ユーザーに媚びすぎた運営の末路だなどと揶揄する声も煩い。
「気にはなるけどね、なにか起きてるかなあって」
リリカさんは暗い顔でスマートフォンを手にした。私はまたシーシャを吸って煙を吐く。喉にかすかにざらりと引っかかるような感覚と、お香のなかに隠された果実のフレーバーを静かに味わう。
「あ、せいらちゃんが投稿してる」
「え、ムジカのアカウントですか、ずっと黙ってたのに」
せいらちゃんは、ムジカのことを発言せず、本来のメインである美容の仕事の案件動画を投稿したり、有名な動画配信者とコラボしたりしていた。私はその様子を追いながらも、せいらちゃんは平気なんだ、煌くんへの愛ってそんなものだったんだ、と、彼女への想いが冷めつつあった。
「うわヤバ」
ゆっくり落ち着いたトーンで喋っていたリリカさんが、吐き出すようにそう言った。スマートフォンの画面を見つめて驚愕している。私も自分のスマートフォンでSNSアプリを立ち上げ、せいらちゃんだけを入れているリストを見た。
せいらちゃんのムジカ専用アカウントに、写真が投稿されていた。せいらちゃんが大量のギフトカードを胸元に両手で広げて持っている。コンビニなどで買えてスマートフォン内でポイント利用できる、額面一万円のギフトカードだ。彼女の手にはそれが十枚以上は握られていた。写真はもう一枚あり、何十枚ものギフトカードが、雑然と山のように積み上げられていた。いったい総額でいくらになるのか、計算できないほどの量だった。
[煌くんのためにこれぜんぶ使います]
写真のなかの彼女の大きな瞳は、ぎらぎら、光り輝いていた。
狂ってる、と、最高だな、という感想を同時に抱いた。私は「え、すごすぎ」とつぶやき、顔をくしゃりと歪めて笑った。笑うしかできなかった。
投稿には既に何百個ものいいねのハートがつき、何十件ものコメントや共有がなされている。確実にとんでもなく荒れているコメント群を見る気はしない。ある程度は内容に想像はつくし。
「パフォーマンスだとしても、やりすぎじゃないかな……課金はクレカ決済でできるんだし、この絵を撮りたかっただけに見える、ムジカのことアピールしたいのかもだけど、イメージダウン、逆効果だよね」
私が想像するコメントの内容をリリカさんが穏便な言葉でまとめた。インターネット上の匿名のひとびとは、それを罵詈雑言に近いニュアンスで発しているだろう。せいらアンチのアカウントや匿名掲示板でも、きっと凄い勢いでこの行動は叩かれている。同じムジカのファンでもせいらちゃんが嫌いな人間は多いし、外野からもオモチャにされるだろう。
「せいらちゃん、ばかですね、こんな投稿したら叩かれるに決まってるのに」
そう言いながらも、私は彼女を愛おしく思った。愚かな行動に出られる彼女を尊敬した。ばかげているってことは、彼女だってわかっているだろう。私たちも同じだ。命懸けの熱量で、架空の煌くんを愛している。
「……なにも言わないわけにも、いかなかったんだろうね」
リリカさんも、非難するというよりは寂しそうに呟いた。リリカさんだって、胸のなかに熱い熱を抱いている。
「せいらちゃん、あそこまでムジカと煌くんを推して、それをある意味セルフプロデュースに使ってたら、後には引けないもんね」
そうだ。後には引けない。推し始めたら、突き進むしかない。その先に、なにも無いとしても。
「私も、なにかしたいです」
スマートフォン画面のなかで、愛の決意表明をしているせいらちゃんを見つめながら私はぽつりと言った。
「この気持ちに、きちんと決着つけたい」
「じゃあ全財産をムジカに課金する?」
「いや、それは……」
そんなことはできないのだ。私はこの現実で生きていかなくてはいけないから。
ほんとうは、どこか遠くに行ってしまいたい。
この世界ではないどこか遠くへ。
誰にもジャッジされない世界、無敵の私になれる世界、そこで闘っていたかった。あなたと闘っていたかったよ、煌くん。
気がつくと、私はほろほろ泣きはじめていた。
※
[傷心旅行に行きます]
本音だが自虐ジョークの気持ちも含んだひとことを、久々にSNSに投稿した。ギザギザに割れているハートの絵文字を文末につけた。軽薄さで痛みをごまかしたかった。
会社の昼休憩時間を、私は近所のチェーン系コーヒー店でぼんやり潰していた。ツナのサンドウィッチとコーヒーMサイズのいつもの取り合わせは、あっという間に食べ終わってしまった。普段はこの時間をムジカをプレイするために使っていたから、味よりもすぐ食べ終わることが最優先だった。一定時間が経過ごとに回復するライフポイントを消費して、ルーティンのバトルをこなすのが、昼休憩の際の大切な日課だった。そのルーティンも、もうすぐ無くなる。一時間の休憩をひとりでどう過ごせばいいのか、途方に暮れる。
傷心旅行、言い得て妙だった。末緒ちゃんと地方都市に小旅行に行くことになっていた。ムジカのファンからは聖地と呼ばれる街だ。単に、ゲームの制作会社があるから、背景のモデルになっている場所が多いだけだが、ムジカの世界に擬似的に近づける土地だった。
どこかに遠くに行っちゃいたいです。ムジカが無くなる世界にいたくないです。
そう言って泣いていた末緒ちゃんを慰めたくて、思いついたことだったけれど、その予定は私の気持ちをすこし前向きにした。サービスが終了するまでの残り期間をせめて楽しもう。めいっぱい、ファンとしての活動をしよう。
末緒ちゃんが連れて行ってくれた歌舞伎町の店で、シーシャを吸いながら励ましあった。初めてふれた文化は非日常だったけれど、あの街で働く末緒ちゃんに近づけた気がして、なんだか嬉しかった。
十代の不安定なこころを抱えて、自分自身を他者に消費されるような仕事をしている末緒ちゃんに、あの街から出たほうがいいと言いたい気持ちはある。でも、そこは踏み込んではいけない領域だ。本名も知らないインターネット越しのつきあいには、適切な距離感がある。私は末緒ちゃんの人生に責任など持てない。彼女を支えたり救ったりはできない。
ただ、悲しさをわかちあうことはできる。
本名も知らないのに一緒に旅行に行くのは、かなりお互いに踏み込んだ行為の筈だが、これはファン活動の一環だと捉えると、なぜか奇妙に感じない。あくまで「リリカ」と「末緒」として行く旅行だからかもしれない。
休憩の時間が終わり、私は気持ちを「七条梨香」に切り替えて会社に戻る。
席に戻って新着メールを確認すると、申請していた有給休暇が上長に承認されていた。部署内に向けて事前連絡の同胞メールを出す。すこし考えて、永嶺さんが担当の新書販促チーム用のチャットグループにも、休暇の予定を報告した。部署を超えて関わっているプロジェクトだから、誰かが私に急な依頼をしないとも限らない。
「どうも、おつかれさまです」
通常業務に戻ろうとしたところで広報のフロアに声が響いた。入り口を見るとやってきたのは永嶺さんだった。
「七条さんは……あ、居てよかった、ちょっと相談があって」
私を見つけた永嶺さんが、無駄の無い動きですたすた歩いてくる。
「なんでしょうか、販促関連で?」
「そう、拡材をまた新しく作りたくて、制作とも相談なんだけど、七条さんが休み取るっていうの今見たから、とりあえず先に」
さすがに仕事ができるひとだけあり、状況確認も行動に移るのも素早い。感心していると、永嶺さんは私を心配そうな目で見た。
「……最近、七条さん調子悪いですか」
彼は声をひそめて私に訊いた。周囲のこともよく観察しているし、気に懸けているのだろう。だけど、若干の無遠慮さが私にはひっかかる。踏み込まれたくない。私の心の「リリカ」の部分には。
「いえ、大丈夫ですよ。お休みを頂くのも、旅行に行く予定で」
「ああ……それなら安心しました、いいですね、旅行、どちらへ」
スマートな会話運びだった。お互いの気持ちをほぐし、心理的距離を近づける細やかなコミュニケーションが、永嶺さんは上手だ。
でもそれは私には、重い。そういう人間もこの世にはいるのだ。
私は彼に旅行先について告げるのを躊躇った。行先を選んだ理由に話が及ぶのが嫌だった。ぶっきらぼうに地名だけを言って「おみやげ買ってきますね」と笑って世間話を断ち切り、仕事の話に強引に移る。旅行には恋人と行くとでも思ってくれればいい。いや、思わないかな。
永嶺さん、私のこと好きですか。
不意に訊いてみたくなる。私は彼を、好感が持てる他部署のエースぐらいにしか思っていないのに。その質問は、スマートさを欠く不適切なものだ。
私には好きなひとがいるんです。でも、もうすぐ逢えなくなってしまうんです。彼のことを想うために旅行に行きます。べつに、そこで彼が待ってはいないんですけど。でも、私にとっては、彼の存在を感じられる場所なんです。
切々と訴えたところで、私のこの悲しみ、痛み、つらさは、きっと彼には共感されない。
このひとを好きになってみたらどうかな、と試しに考えてみる。でも、恋愛とかいうジャンルに、私はまったく興味が無い。
※
傷心旅行、あるいは聖地巡礼は、すばらしい体験だった。
ムジカの世界のキャラクターたちが暮らす、基地の街の気配がその土地にはあった。ファンのあいだで情報共有されている、作中のモデルになっているスポットを歩いて巡る。高台から見晴らす海も、ゆるやかな坂道も、商店街のアーケードも、幾度となく見たことがある。
「ほんとうに会社の近所でロケハンしてるんだね、基地もある気がしてくる」
「そうですよね、いいなあ、ここに住みたい」
ただでさえ、修学旅行以来の遠出で私は浮かれていた。リリカさんは新幹線のチケットの手配から観光ルート決めまですべてを引き受けてくれたので、彼女についていくだけで良かった。
「すごい、基地の近くのカフェそのまま」
ひととおり観光を終えた私たちは、街の商店街の隅にあるちいさな喫茶店に落ち着いた。昭和っぽい、と私はゲームのなかのこの店を見るたびに思っていた。レトロな雰囲気の店は、各所に置かれたステンドグラスのランプや、蔦の這う煉瓦の壁が印象的だ。食事のあとに、煌くんの好物のソーダフロートを私たちは頼む。彼は、甘党で味覚が子どもっぽいという意外な面を持っているのだ。
「もうお腹に入らない気がするけど、ここまで来たらフロートだよね」
そう言って胸元を撫でているリリカさんは、シンプルな黒のワンピースを着ている。私はいつものようなオーバーサイズの、もふもふした素材の黒いパーカーに黒のパンツというスタイルだ。偶然のことで、オタクは黒い服を着がちといわれるけれど、それにしても喪に服しているみたいかもしれない。
「末緒ちゃん、ラストの感謝イベントどうする?」
運ばれてきた緑色のフロートを、銀の長いスプーンでかきまぜながら、リリカさんが私に訊ねた。ムジカ最後のファン感謝イベントの開催が、旅行に出る直前に発表されていた。ゲーム中で使われている楽曲のライブと、声優のトークの二部構成の豪華なイベントだ。お祭りの最後の花火みたいだった。
「チケット昼夜とも取りたいです、転売からは買いたくないですけど」
「私も行こうとは思ってるけど、正直、それまでに気持ちが追いついてるか心配」
「じゃあペアで申し込みましょうよ、私もリリカさんと一緒なら心強いし……とりあえずアプリのユーザー先行が来月頭ですよね」
「そうだよね、何日だっけ」
リリカさんがスマートフォンを手に取る。私はバニラアイスを口に放り込んだ。きいんと奥歯が冷える。バニラの香りがふわりと漂う。煌くんと、この冷たさや香りを共有できた気がする。
「え……」
スマートフォンを見たリリカさんが、当惑した様子で固まっている。私は軽くソーダを啜っていたストローから口を離す。
「何かありました?」
「トレンドが、ちょっと待って……嘘、え?」
動揺している彼女の説明を待つより早く、私もSNSを開いた。
不穏な単語がトレンド欄に並んでいる。ある程度はムジカのユーザーにカスタマイズされたキーワードが、この欄には流れてくる筈だ。[ムジカ][緊急搬送][配信者]……背筋に氷を投げ込まれたようだった。ひゅっと息を吸い、震える指で画面をタップしていく。
[せいら自殺未遂マジで][ムジカがサ終するからじゃない笑][せいらの生きがいだって言ってたもんね][せいらって誰][ほんと迷惑で人騒がせな女だな][ムジカクラスタの恥][ニュースだと緊急搬送だけだろ、事故とか持病かもよ][せいらって無名の頃にODしてたって噂あるよね、もともとメンヘラかまってちゃん][わたしも死にたくなってきた←]
リリカさんは黙ったまま、ひたすら画面を指先でスクロールしている。私の脳裏を、数々のインターネットでの誹謗中傷事件や、それがもたらした不幸なケースの記憶がよぎる。せいらちゃんがほんとうに、自分で命を絶とうとしたのだとしても、そこまで彼女を追い込んだものの正体を私が知る術はない。
希死念慮も鬱も虚無感も、実際には私を殺さなかった。テンションのアップダウンをめまぐるしく繰り返し続ける心のなかで、死にたさすら、いつしか日常になっていた。
いつも、全身で私たち視聴者を楽しませようとしてきたせいらちゃん。数字のために自宅も素顔もインターネットに晒している彼女の人生は、すべてがショウのようなものだ。この世界は舞台で、虚実の境目は失われ、彼女は「せいら」の死も、ショウにしようとしたのだろうか。最後の盛大な花火があがったら消える。煌くんと同じように。
「……せいらちゃん、死んでないですよね?」
怯えながら言葉をなんとか声に出すと、びっくりするほど喉がかすれていた。
「今のところ続報ないからたぶん……命懸けすぎるよ、なに、八百屋お七?」
「それ、どういう意味ですか?」
「恋愛のために、好きな相手に会うために江戸に火をつけて、死刑になった女の子」
「なるほど……」
リリカさんのたとえは的確かもしれない。これは、インターネットがめちゃくちゃに燃えるだろう。かつて見たことがないほどの炎上が巻き起こるだろう。せいらちゃんは、命を捧げてムジカを有名にしたわけだ。さすがに深読みしすぎだろうか。でも、彼女はそれくらい煌くんを愛している。
負けたくないな。愛で負けたくない。
でも、私は煌くんの為には死ねない。
「死んだら駄目だよね、駄目だよ、生きなくちゃ、だって大好きなものって、現実を生きるためにあるんだから」
リリカさんの言葉は、リリカさん自身にも私にもせいらちゃんにも向けられている。そんな気がした。
話しこんでいるうちに、バニラアイスは溶けてソーダと混ざり沈殿していく。グラスのそとを、水滴がゆっくりと伝って流れ落ちる。
4 【メラメラ】
カッターを片手に持って、刃をきりきりと押し出す。鋭利な刃物を見ると、一瞬だけ、破壊衝動のようなものが胸をよぎる。私はリストカットをしたことは無い。リストカットをすると落ち着くという子たちの感覚はよくわからない。その代わりに、ソシャゲのガチャを回していた気もする。瞬時にお金が溶けていく運任せの遊びは、スリリングなストレス発散だった。あの高揚は私が自傷に走ることを引き留めてくれていた。
左手に持っていた鉛筆をカッターの刃で削り始めた。ハイユニの6B鉛筆、木と芯の屑が机に敷いたティッシュの上にはらはら落ちていく。アパートの壁には白いキャンバスが立てかけられている。
仕事には、近頃あまり行ってない。
ムジカに課金するのを控えているので、以前ほどはお金が必要なくなった。苦手な客の相手をするのは、ダウナーな精神状態では苦痛だった。勤労意欲がアップする要因が見つからない。人生のステージが一段階ハードモードに突入した結果、店の制服によるステータス補正も効かなくなっていた。私の心を守ってくれる新しい装備が、闘うためには必要だった。
削り終わって鋭く芯が尖った鉛筆を眺める。絵に向かいあいたい、きちんと一枚描きたい。そう思った。専門学校に戻りたい、というだけではなく。泥沼の日々から抜け出すために掴むロープを求めていた。向いていないかもしれなくても、今の私には絵しか無い。好きなことを貫いて成功する、スペシャルな何者かになれないなら、できることをやっていくしかない。
キャンバスに向かおうとしたタイミングで、スマートフォンが振動した。間が悪い。手に取ると、勤務先のコンカフェの店長からの着信だった。
億劫だけどスマートフォンを手にとる。暖房代をけちっているので、アパートの部屋は薄寒い。羽織ったニットカーディガンの胸元を閉め直す。もしもし、と店長の煙草で枯れた声が聞こえてくる。
「みぃこ、来週以降のシフトぜんぜん入れてないけど、どうした」
「すみません、体調あんまり良くなくて」
「話あるなら聞くから、辞めたいならきちんと言ってくれよ、いきなり飛ぶのだけはやめろな?」
はい、と神妙な声を出しながら、私はどうしたいのだろうかと自問する。この世界からどこか遠くへは行けない。ここで生きなくちゃいけない。煌くんのために死ぬのではなく、煌くんがいたから生き延びる。それが私にとっては、誰かに愛で負けないということだ。
「……調子よくなったら、また行けると思います」
「ならよかったわ、みぃこに相談あってさ、誕生日、月末だろ」
「あ、そうですね」
もうそんな時期か、今年も終わりだ。私の誕生日は学校の冬休みとかぶってしまうので、ひとから祝われた思い出が少ない。
「みぃこのバースデーイベントやろうかと思って」
「私ほとんど固定客いないですけど」
「そう言うなよ、おれもちょっとでも店、盛り上げて行きたいからさ」
「バーイベかあ……」
どうせ、リアルで祝ってくれるひとはいないとはいえ、誕生日という特別な日を出勤にあてるのは気乗りがしない。
「店長、じゃあ、バーイベやったら辞めてもいいですか」
「え?」
ムジカのバースデー演出を楽しみにしていたリリカさんのことを思い出す。誕生日が来たら、私も煌くんからのお祝いのメッセージを聞ける。煌くんは来年にはもういない。私は歳を取りながら生きていってしまう。
「区切りとしてはいいかなって、思って」
そう言いながら、私は白いキャンバスを見つめている。
ムジカが終わるなら、あの欲望の街で「私」を売り続ける必要も無い。
サービス終了は刻一刻と近づいているが、せいらちゃんについての続報は無い。所属事務所が簡単な活動休止のお知らせを出したきり、配信チャンネルは沈黙している。もちろんムジカのアカウントも動いていない。街中で倒れての緊急搬送で、オーバードーズ、いわゆる薬物乱用の所為だと噂されているが、真偽はわからない。とにかく、あの一件では世の中がよく燃えた。私は、批判も擁護もできなかった。ただ、彼女の「せいら」としての人生がここで終わってしまうなら、寂しいことだと思っていた。私たちはどこまでも別々の人間だけど、ひとりのひとを推している仲間でありライバルだった。私たちの心は、煌くんの存在でつながっていた。
※
ウエディングケーキに新郎新婦が入刀するのにあわせて、盛大な拍手が式場内に響く。その儀式に、私はレンタル費一万二千円のドレスを着て立ち会っていた。感動したり憧れる気持ちは特に湧き上がらず、あのケーキナイフを持つ側には一生行かないとただ思う。
高校時代の同級生の結婚式は、式場のスケジュールの都合で師走に開催された。新婦と私は美術部に所属していた。高校の友人で構成されたテーブルにいるメンバーは、部活仲間だった子が多い。かつてはマンガを貸し借りしたり、一緒のアニメに熱をあげて毎週感想を語り合ったりしていた彼らは、順当に歳を重ねていた。
ケーキのお裾分けが各テーブルに配られていく。談笑の時間が始まるが、中には十年以上会っていない相手もいる。結婚式に参列するのは何度目かにはなるが、いつもながら、適切な話題の見当がつかない。目の前の皿に上品に飾られたカルパッチョをフォークで取って口に入れるが、味はよくわからない。
「梨香ちゃん久しぶりだよね、なんだかきれいになったね」
会話に混ざりきれない私に話題を振ってくれたのは、左隣の席の子だった。美術部の部長だった彼女は気さくな上に、サブカル全般に詳しくて、私ともオタクトークをよくしてくれた。
「十年経てば変わるよ」
私はうまく笑えているだろうか。化粧もせず健康的に太っていた高校時代に比べたら、もちろん変わっただろう。まして、今日は式の参列にあたってヘアメイクもしてドレスアップしている。
昔よりきれいになったとしたら、それは素直に嬉しい。誰のためでもなく、推しに恥じない自分になりたい。煌くんの若いファンは皆お洒落で可愛いし、煌くん担当として恥ずかしくないルックスになりたいと思う。煌くんのファンって素敵だねと、ファン以外にも思われたい。
「最近どうしてた?」
賑やかな場の空気に、少しは浮かれていたのだろう。質問の趣旨をよく汲めず、高校時代のノリのまま私は答えた。
「今はソシャゲにハマってるよ、すごい好きなキャラがいて」
そう話し始めた私を、質問してきた元部長は、当惑のまなざしを向けて言った。
「梨香ちゃん、まだそんなこと言ってるの?」
突っ込みとして受けとめるには、あまりに冷徹な声だった。彼女の言葉は心臓に突き刺さった。私は完全に間違った。もう十七歳の無邪気な少女たちはここにはいない。
「う、うん、相変わらず二次元が好きかな」
卑屈な笑みを浮かべて、シャンパングラスを手にする。周囲で交わされる同級生たちの悲喜こもごもの現状の噂話が、耳をすり抜けていく。会話に入れない間を誤魔化すために飲むシャンパンは、辛くて炭酸がきつい。
疎外されている。
足元からずぶずぶと身体が沈んでいくように錯覚する。きっと靴がきつくて、つま先が痛い所為だ。借り物のパンプスには、大きなビジューの飾りがたくさんついている。でも、偽物の宝石の輝きでは、私のライフゲージは回復しない。
煌くんのことを想って、彼がいるから大丈夫だと、心を落ち着かせようとする。
だって何度、考えても、近況でムジカのこと以上に語るべき話は無い。私の生活の中心なのだから。「そんなこと」という言葉が突き刺さって、胸の奥がずきずき痛い。
でも、恥じてはいけないと思った。誰に馬鹿げていると軽んじられても、好きでいるのはやめない。それが、つらぬくということだ。愛を、信念を、私が選んだ生きざまを。
※
ホイップクリームで作られたピンクの薔薇が、ホールケーキを縁取っている。真ん中には、私の笑顔が印刷されたハート型のアイシングクッキーが飾られている。蝋燭ではなく、ぱちぱちと火花を散らす花火が何本か突き刺さっている。薄暗く照明を落とした店内にはハッピーバースデーの唄が流れている。
「今日はみぃこちゃんのバースデー兼、卒業イベントということで、スペシャルケーキを用意しました! みぃこちゃんから、ひとことお願いしまぁす」
ユナが大きな声で私にコメントを振る。客のまばらな拍手が私を包む。
「はい、みぃこです、今日はありがとうございます! こんな風にたくさんのかたに誕生日をお祝いして貰うのははじめてです、本当にとっても、嬉しいです」
装飾過多なバースデーケーキを前にして、いつもの小悪魔メイド姿の私は、右手と左手の親指と人差し指をあわせてハート型を作る。にっこりとほほえんで、店内をくるりと見渡す。たまたま今日、居合わせただけのひとも多いが、幾人かは私を気に入ってくれている、顔に覚えがある客だった。隅の席にいつもの眼鏡の客も座っている。無表情で拍手をしながら、じっと私を見ている。
「ぜひお祝いお願いしますね」
ユナがきゃぴきゃぴした声で続け、両手を胸元であわせたお願いのポーズを取る。誕生日のキャストのために高い酒を注文してくれ、という要求を愛くるしくコーティングしている。
「私は、今月いっぱいで卒業しますが、このお店とお客さんには感謝しています、これからは自分の夢に向かって頑張っていきます」
この店は、たしかに私の居場所ではあったし、客が落としたお金で私は生きてきた。そう思うと、特別に愛していなかった筈の場所でも感傷的になる。ケーキに刺さった花火の火花がゆっくり消えていく。
頃合いを見計らっていた店長が、照明を元の明るさに戻した。キャストたちがオーダーを取りにフロアを回り始める。
「ほんとうに辞めるの?」
眼鏡の客の席に来て、水を出し、注文を訊こうとしたところ、淡々とした口調で彼が私に訊ねた。
「はい、今までありがとうございました」
私はぺこりと頭を下げる。彼が数日おきに来店してくれていたことは、私の負担だったが、どこか支えでもあった。互換可能なキャストではなく「みぃこ」を必要としているひとがいるのだと。
「みぃこは、僕が今まで、ここでいくら払ったかわかってる?」
「え……」
彼が過去に注文したものなど、いちいち覚えていない。金払いは良かったが、ぽんぽんと高いものを頼むタイプではなかった、ぐらいだ。
「覚えてないよな、君にとっては僕はたくさんいる客のひとりにすぎないから」
それは真実だが、肯定もできずに私は固まって立ち尽くす。眼鏡越しに私を見つめる彼の視線はとても真摯で、私はこのひとと目を合わせたことがあっただろうか、と不意に思う。
「辞めるなら、返してくれ」
「……お金を、ですか?」
代金の対価としては、フードやドリンク、それから接客サービスを提供している。ひととき愛の魔法をかけている。店を出た途端に解けて霧散するけれど。それが水商売というものだ。彼の要求は理不尽だ。わかっているけれど、怖くて反論できなかった。足が震えた。
「金じゃない、君に費やした、僕の気持ちを返してくれ」
苦しみを吐き出すように彼はそう言うと、うつむいて拳を握りしめた。殴られる、と反射的に思ってしまい、身体がこわばる。
そのとき、不意に煙草の匂いがした。いつの間にか、店長が私の隣に立っていた。私は縋るように店長を見た。
「お客様、ご注文は」
低くドスを効かせた声で店長が訊ねると、彼はそっと顔をあげた。眼鏡のしたの目が涙で潤んでいた。
「……スペシャルパフェで」
私はすこしがたつく指で、オーダーのボードに省略記号でSPと書いて横にカウントの棒を一本引く。殴られなかった。ほっとして全身から力が抜ける。
店長が来なくても、彼は私を殴らなかったかもしれない。フロアをゆっくりと歩いてキッチンに向かいながら、どうかな、と考えてみる。
費やした気持ちを返してくれ、か。
不思議な発想だと思った。愛することに、見返りって求めて良いんだ。知らなかった。気づいていなかっただけかもしれない。
だって、煌くんは何も返してくれない。
いくら彼のためにお金をつぎこんでも、この命を懸けて愛しても、煌くんは私の存在を一切関知しない。
でも、それでよかった。それがよかった。
『誕生日おめでとう。君が今日も生きていてくれる、それだけで僕は嬉しい』
今日、煌くんが贈ってくれたバースデーメッセージを噛み締める。偏在する煌くんは何万人ものユーザーに向けて同じことを言っている。だけど、彼の言葉によって胸に滾っている勇気は、焔のように燃える闘志は、生きていこうという決意は、私だけのものだと思う。
心のなかに住んでいる架空の存在を愛しているとき、私は幸せだった。絶対に幸せだった。誰にも否定させない。それは揺るがない真実だ。
※
日曜日の新宿三丁目は、お昼前から既にとんでもなく混んでいた。三十分近く待って案内されたカラオケの部屋は、そこしか空いていないのか妙に広かった。天井に吊られた銀のミラーボールを、久々にこういうところに来たなと思いながら見上げる。ジンジャーエールをふたつオーダーし、私たちはマイクは手に取らず、横並びに座って話し始める。
「末緒ちゃん、仕事辞めたんだよね?」
私は正直ほっとしていた。絵の専門学校に復学するつもりだという彼女の選択を喜んでいた。私のイラストは独学の趣味だけど、それでも絵を描く人生は豊かなものだと思っているから。
「そうなんですよ、コンカフェは去年末で辞めました」
すこし名残惜しそうに、今となってはけっこう楽しかったんですけど、と彼女は続ける。
「バイトはしないと駄目なんで、次はもう少し落ち着いた仕事探そうと思ってます、もう二十歳だし」
「まだ二十歳だよ」
幼さを残す面影でそう言う彼女の言葉に、ほほえましい気持ちになる。もし、十年後の私が私を見たら、きっと「まだ三十歳だよ」と言うのだろう。
壁に設置されているカラオケ用のモニタには、若手アイドルや声優の出演しているコマーシャルが次々と流れてくる。私には末緒ちゃんは、彼らと遜色なく可愛らしく見える。ピンク色だったボブの髪はすこし短くなり、黒と金のインナーカラーに染め変わっていた。真冬だというのに元気にミニスカートを履いている。
「リリカさんは仕事どうなんですか、最近あんまりネットにいなくて、忙しそうだなって」
「そうだね、大きい山は越えたのかな……前より任される範囲が増えて、忙しいけどちょっと嬉しい気もしてる」
永嶺さんの作った新書は、最終的に三十万部ほど売れて、まだ書店では良い位置に陳列されている。販売促進プロジェクトは一旦落ち着いたものの、私はデザインなどもできることを買われ、他の商品の施策にも混ぜて貰ったりしていた。社員登用の話が出るかどうかはわからないが、転職するにしても前よりは状況はマシだ。永嶺さんとの関係性は特に変わらないが、社内ですれ違うときは、チャンスを作ってくれたことに密かに感謝している。
店員がジンジャーエールを運んで来たタイミングで、私たちはスマートフォンを各々取り出した。
「もうすぐですね、更新」
今日の正午に、ムジカの最後のシナリオが更新されることになっていた。メインストーリーの終わりなので、バトルのポイントを積まなくても読めるよう、特別にすべて無料開放される。そのときが私たちにとっての、煌くんの物語の終焉だった。
「震える、ひとりだったら耐えられなかった」
「読まない可能性すらありますね」
「でも、もう覚悟したから」
私と末緒ちゃんは、ひとりで結末を見届けるのが耐えられないとお互いに言って、こうしてふたりでラストのストーリーを読むことにした。スマートフォンを見つめるのは孤独な時間だけれど、一緒に向き合い、すぐに語りあえるのは救いだ。
「どうします、公式と壮絶な解釈違い起こしたら」
「その場合、末緒ちゃんと意見が割れるのがいちばん怖い」
「受け入れられるんですかね」
緊張を紛らわすように軽い口調で言い合い、味の薄いジンジャーエールを飲みながら、その時を待つ。
「でもライブもありますしね、なるべくリリカさんとは穏便な関係性でありたいです」
「そうだね、当たるといいね」
「……いい思い出で終わりたいなって」
末緒ちゃんの言葉に触発されて、ムジカに出会ってからの記憶が脳裏をめぐる。体感では、私の人生はそこで紀元前と紀元後ぐらいに切り替わっている。シナリオやイラストに一喜一憂し、イベントに出向き日夜インターネットを彷徨い、その日々は果たして、いい思い出なのだろうか。
「いま記憶が走馬灯みたいになった」
思わず口をついた言葉に「まだ生きててください」と末緒ちゃんが苦笑する。
「でも自分で言ってなんですけど、思い出になっちゃうのは悲しいですね」
心のなかで煌くんは生きていく、というのは簡単だ。でも、もう新しい供給は無い。彼の情報が増えることも記憶が更新されることも無い。いずれ何年も、何十年も経ったら、私のなかの彼は褪色していくだろう。現実で出会ったひとだって、離れていけば同じだけれど。
正午が訪れる。私たちはムジカにログインする。何千回と繰り返してきたように、ゲームスタートの画面をタップする。
主要キャラクターをすべて登場させているため、シナリオはかつてなく長大だった。私たちは無言でテキストを読み続けた。ゲーム内の音楽だけが部屋にうっすらと響く。空になったグラスのなかの氷が溶けても、追加のドリンクをオーダーすることもなく、神妙な顔でスマートフォンの画面に向き合い続けた。これを読み切ったら、終わってしまう。だけど見届けないこともできなかった。
「読み終わりました」
私の手が止まったのを見計らって、末緒ちゃんが言った。
「うん、私も読み終わった」
テーマソングと共に流れていったスタッフロールを眺め終えても、まだ受けとめきれてはいない。
すこしの沈黙が私たちのあいだを漂った。なんと言い出すか、距離を測るように。先に口を開いたのは末緒ちゃんだった。
「大団円、なんですかね」
「でも、これは、おれたちの戦いはこれからだエンドだよね……」
「まあそれは想定内です」
「そうだね、うん、ベストなのかはわからないけど、いい終わりだったと思うし、受け入れたい」
ソシャゲのサービス終了は、基本的に誰も望まないしタイミングが読めないものの筈で、何年も広げたストーリーを完結させるのはきっと相当難しい。今までにいったい幾多のゲームが、完璧なエンディングにたどり着けず、クリエイターたちの無念を背負って消えていったのだろうか。
「ありがとう、って言いたいな」
私の人生に寄り添って、共に生きてくれてありがとうと、煌くんだけでなく、このゲームそのものに言いたいと思った。完全でなくても、こうして愛するものの終わりまでを見届けられたのは、ひとつの奇跡だ。
「そうですね、ただただ今までに感謝ですよね……リリカさん、あの、思ったんですけど、あまり良い言いかたじゃないかもしれないですけど」
「うん」
「これでムジカは、ずっと美しいままになったんですよね」
「劣化も炎上もしないってこと?」
「そうです、終わったら、永遠だから」
二十歳の末緒ちゃんの言う、永遠は、きっと儚くてもろいだろう。限りある私たちの人生から、記憶は失われていくだろう。涙が目ににじんでくる。
「そうだね」
永遠なんて虚構だ。わかっている。それでも私は末緒ちゃんの言葉を肯定した。だって虚構こそが、私たちをいつも生かしているのだから。
※
焔が燃えていた。橙と赤のアクリル絵の具を塗り込めたキャンバスの上で。これは私の心のなかで燃えあがる火だ。
絵を一気に完成させたくて、徹夜してしまった。眠気で重い目蓋をこする。アパートの窓から白い朝日が差し込んでいる。雑然と荒れた狭い部屋のすべてを、光は照らす。ぺたりと座り込んだ足元が冷える。静寂に包まれて、私の心はとても穏やかだ。
燃える焔の絵の中央に、女性がひとり立っている。誰かと踊っているように、右手を軽く胸元にあげて。静止画では表現しきれないけれど、私のイメージでは、そこには音楽が流れていて、彼女はくるくるとステップを踏みながら踊っている。燃えているのは地獄の業火ではなく、祝祭の焚き火だ。踊っている女は私であり、私の出会ったひとたちであり、インターネット越しにしか知らないせいらちゃんのような存在でもあり、そして想像の誰かだった。この世界で生きているすべての私たちだった。
エピローグ
ラストのファン感謝イベントの会場は、喧噪と熱気に満ちていた。この日のためにとびきり気合いを入れてお洒落をした、たくさんのムジカのファンが詰めかけていた。キャラクター声優に寄せたイベントなので女性客が大半だけど、ちらほら男性ユーザーの姿も見える。
私たちは煌くんのイメージカラーである銀色のものを身につけて、イベントに「参戦」していた。銀のアイテムってアクセサリー以外に見つけにくいんだよねと言って笑い合った。
まだ開演まで三十分ほどあった。指定の席に着かず、フロアの前方に立ってステージをじっと見つめている女性がいる。彼女の存在に、私たちはどちかからともなく気がついた。華奢で小さな身体に、銀色をベースにした繊細なレースあしらいのワンピースを着ている。艶やかな黒髪には銀色のリボンによるヘアメイクが施され、白いしなやかな腕には銀のバングルが嵌まっている。よく見ると靴まで銀色だった。肩から提げたクリア素材の鞄には、煌くんのぬいぐるみが収まっている。それを見なくても煌くんのファンであることは一目瞭然だ。同担だと気づいた次の瞬間、あの子だ、と思った。
私たちは無言で見つめあった。ここで踏み出さなければ、二度と彼女に会う機会はない気がした。そっと近づいて、その可愛らしい横顔をたしかめる。動画の中でいつも幸せいっぱいというように笑っていた、煌くんのことを熱く語っていた、彼女がそこにいる。
「せいらちゃん、ですか」「ごめんなさい、声をかけてしまって」「あの、心配してました」
私たちはおそるおそる、しかし焦りがちに口々に彼女に話しかける。振り向いた彼女は私たちを見て、相好を崩す。
「あ、おふたりも煌くん担なんですね!」
彼女は、同じキャラクターを推している人間の存在を、心から喜んでいるように見える。
「心配かけててごめんなさい、今はちょっとネットおやすみ中なんですけど、今日はどうしても外せないって思って来ちゃいました」
無邪気な彼女の言葉に、私たちの中にどろどろと渦巻いていた複雑な感情は、瞬時に単純な親しみに変わる。彼女が生きていてよかった。今日この場に来れてよかった。私たちは同じものを愛していることを実感する。
私たちは、煌くんを好きになってよかった。
「応援してます」「楽しんでください」と小声で言う私たちに向かって、「ありがとうございます、全力で楽しみましょうね」と彼女は笑う。
やっぱり、せいらちゃんって、かわいいね。オーラがあるよね。あの服装でかなり目立つけどね。会えて、よかったね。指定席に並んで座った私たちは、ひそひそと語り合う。
私たちはきっと、また新しいなにかを見つけて好きになる。新しいものに命を賭けると言い出す。でもいまこのとき、私たちの心はたしかに彼への愛に満ちていて、ぎらぎら、美しく輝いている。
開演のブザーが鳴り響き、客席の照明が落とされる。ゲームのログイン画面で何千回も耳にしたテーマソングが、大音量で流れ出す。
そして、ステージから放たれる眩い光が、私たちを包みこむ。