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ミケランジェロのダビデ像の傷だらけの人生by鶴田浩二(?)

古い時代が終わり、やがて新しい時代が始まる……。

しかし時代が変わるのは、
「古い」時代を生きた人間が、
精一杯にその時代を駆け抜けてくれたからでございましょう。

その古い人間が精一杯に、
その時代の「新しさ」で生ききってくれたからこそ、

時代はそれを出し切って新たなスペースが生まれ、

そうして新しい人間が、
新しい時代を始める事ができるんでございますよ。

もしも古い人間が、
その時代の表現をし尽くさずに、ぐずぐずと泥濘を歩き続けてきたとしたら、

時代はいつまでたってもぐずぐずと変わりきることができずに、
私らみんな、とっくに茹で蛙かもしれません。
そう考えると、古い古いと鼻つまみにしたくなるような全てにも、感謝しかないんじゃあございませんか。

時代は常に変わるもの。

駆け抜けてくれてありがとう。

おかげで、時代が変わります。

ミケランジェロのダビデ像が、芸術の頂点、美の象徴と言う揺るぎない権威を纏ってきて、いやそろそろ西洋一辺倒の価値基準を見直しましょうよと、批判的な視点からの象徴の的へと、視線の注がれ方が移行してきてもいる現在、それはそうだなと納得する一方、なんともダビデ像は、上げられたり下げられたりと、そのスパイラルから永遠に抜けられないのだなと、同情を禁じ得ません。

考えてみますと、ダビデ像はそもそも制作に着手された当初から、まだダビデではなく巨大な大理石の塊だった当初から、時の権力者の権威、カネ、一転して失脚、等々に翻弄されてきたのでしたね。

権威の象徴として置かれたかと思えば、その後の反メディチ騒乱では腕をへし折られ、このままではいけないと美術館に匿われた後も、90年代に入ってからはなんと観客にも足を砕かれ、しかもその手負いの破片は研究調査に活用され、事件は良かったのか悪かったのか……。そうかと思うと洗浄方法を巡っては担当者の辞任騒動まであり、波瀾万丈以外の何ものでもありません。

それで、ダビデ像の本当の価値は、一体何処にあるのでしょうか、ないのでしょうか。

そんなダビデ像がなんだか愛おしく感ぜられてきてしまいます。

たとえこの先も、権威権力に散々利用されようが、崇められようが批判されようが、美術館に匿われてもなお狙われて、経年劣化を避けるためにもうお天道様を拝めません。
それでも巨人ゴリアテを討たんと、冴え冴えと睨み続ける手負いのダビデ。これじゃ権威や美の象徴どころか、スネに傷持つ日陰の身、みたいじゃあないですか…。

そう考えるとている、ふと昭和の名曲、鶴田浩二『傷だらけの人生』が頭をよぎり、妙にしっくりとしてくるのでございます。
鶴田浩二『傷だらけの人生』(UTA-net)

“古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど……”


時代を駆け抜けてきた全ての人たちに感謝ですが、忘れてはならないのは、どんなに新しいものも、やがて古くなる道理。それが時代というもの。
ですからそういう比較としての “新しさ” を見極めながらも、どこかで「古い⇄新しい」という視点から抜け出た、「瑞々しさ」とでもいいますか、そういうものを何にでも見出していきたいものです。

ともあれ感謝です。

感謝ではありますが、

体の何処にどんな傷が入っていようとなかろうと、ダビデのプライバシーじゃあございませんか。せめて、せめて腰布のひとつも、あててやってほしいものでございます。こんなことを思う自分は古い人間でしょうか、古い奴ほど新しいものを……

……馬鹿馬鹿しい内容で本当にすみません 笑。

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