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幻の憧憬  #9


#創作大賞2022


 英昭がカッコを付ける訳でもなく、不憫にも淋しさというものを余り感じた事がなかった理由に、下町である地元の環境が大きく影響していたのは確かだろう。
 その界隈なら何処へ行っても知り合いがいて、親しくないまでも互いに顔見知りという事は往々にあり、そのまた知り合いまで含めれば極端な話、殆どの者が知り合いになってしまうという現実は或る意味では有難く思える。
 それは田舎町にありがちな、近所の者の事全てを知り尽くしたような煩わしい柵とは違い、当たり前とも言える他者を干渉しないといった、もう少しライトでソフトな構造を象っていた。
 そんなバランス感覚を幼い頃から肌で感じ取っていた彼が何故孤独を好んでいたかというと、言わずもがなその均衡が乱される、いや既に崩れて来ている事をそれこそ肌感覚で察知していたからであった。
 時代背景も然ることながら、特に1995年(平成7年)の阪神大震災の影響力は凄まじく大きなものだった。
 死者六千人を超える未曾有の大震災は人間生命だけではなく、下町文化そのものを奪い取り、抱懐させてしまったのだった。
 その文化の中には当然人の心という銭金では買う事が出来ない、何ものにも代えられない原理的にして神秘的な、穢れを嫌う素晴らしい情感が通っており、言うなれば宝といっても過言ではないと思える。
 それが如何に自然の力とはいえ一瞬にして剥奪されてしまったのである。
 底の見えない絶望、失望。暗澹たる気持ち。果てしない闇。成仏する事なく彷徨い続ける魂。
 それらに対し悲壮感だけを以て立ち向かう事など出来ようか。まず現実を受け止める事すら難しいのではあるまいか。身内を亡くし、倒壊し、燃え盛る炎に焼き尽くされて行く住まいを呆然自失とした表情で見つめる者、発狂するほど泣き叫ぶ者の悲痛な想いはとてもじゃないが他人事とは思えない。
 とはいえ何時までも悲嘆に暮れている訳にもいかず、刻々と進む時間の中には生活をしなければならないという現実もある。それを踏まえた上でも早急に立ち直れるほど人間の能力は器用で発達されたものとも思えなく、その必要もないような気もする。
 震災後急ピッチで復興作業が行われた為、街は見違えるほど新しく利便性に優れた都市へと進化しつつあった。他所の街の者はそれを素晴らしいを絶賛している。確かにその通りではある。無残に崩れ去った街並みをそのままにしておく事は生活にも支障を来し合理的とは言えない。
 ただ少なくとも地元の、それも英昭の知人の中にそれを手放しで喜ぶ者はいなかった。中には彼以上に反感を抱いていた者もいた。復興ではなく、復旧をしてくれと。
 神戸市も震災の有無に関わらず、以前から再開発計画を立てていたのも事実だ。
 そこに抵抗する者の意見としてはどうして下町の古き良き景観を潰してしまうのだ、という想いで一貫していた。
 対する市政は未来を考慮する上ではどうしても街の近代化を図る必要があるの一点張りだった。
 結局市民はその意向に屈服するしか道はなく、一部では抗っていた有志団体もいたが、その者達の心意気も次第に薄れて行った。
 結果的には真に思い描いていたような素晴らしい街になったのだろうか。本当に住みよい街になったのか。真実は解らないまでも、首を傾げる者は未だに多く居る。
 そして年月が過ぎ、今に至っている。
 二十代半ばになった英昭は鬱陶しい思いで工事現場だらけの街を歩き、完成された高層マンションが立ち並ぶ場所と、まだ工事が着工されていない既存の街並みとを比較するように眺めていた。
 新しく出来た場所には以前からあった商店もいつくかは確かめられたが、震災前の賑わいなどは無いに等しかった。店に入り、顔なじみの店主と話をしても、
「もうあかんやろな」
 などと後ろ向きな意見ばかり零している。
 店主もそのビルの1階にテナントとして入っている為、住まいであるマンション内でも知らぬ者ばかりが入居していて隣近所との付き合いなどは皆無だと言う。その結果自分がまるで余所者であるかのような被害妄想までしてしまうらしいのだ。
 これは実際に下町出身者にしか理解出来ない事かもしれない。でもその店主は何も贅沢な想いを抱いていたとは思えない。何故なら英昭自身も同じ考えで、他にもそういう話をしていた者が多かったからである。
 英昭は伯父に会った時に言われた事を思い出していた。
「お前な、今時下町の義理人情なんか言うとったら笑われるだけやで、恥かくだけやで」
 それを冗談として流す事は出来なかった。下町の良さを知らない世代に言われたのならまだしも、親以上に年の離れた伯父にまさかそこまで言われるとは、如何に神経質な英昭にも予想出来なかったからである。でも結局は一言も言い返せず、しかめっ面で溜め息をつくだけだった。
 つまりは年齢に関係なく、時代に左右される事だけしか取り柄がない、生きて行く術とはいえそれを美徳と捉えているような者に対する、彼の内なる反抗意識を示しただけの話だった。
 そんな彼の思想信条はダサい、古い、硬い、時代錯誤などと、揶揄されるような事なのだろうか。保守的な性格とはそこまで嫌われるものなのか。
 無論その辺の事を鑑みても自分を変えようとは思わない英昭だった。然るに彼自身の頑なな性格が災いし、他者に敬遠されるような事があろうとも、そんな事は是非にも及ばないと判断する純粋ながらも抵抗を試みようとする心情が、淋しさを感じないような精神構造を作り上げていたのだ。
 でもそれが真に素直で正直な想いであれば、悲観するにも及ばないと思う英昭であった。
 
 或る土曜日、英昭は仕事帰りに会社の先輩に誘われて飲みに行っていた。その先輩も大して好きではなかったが、同僚の田村が付き合ってくれるというので快く承諾したのだった。
 酒の席で細かい話をする事はナンセンスだと思い、上辺だけでも話を合わせ、先輩の機嫌を損なわないように振る舞う英昭と田村。
 田村はそのふくよかな体型もあって、出された料理を好き嫌いなく次々に食べていた。そんな様子を見る先輩も上機嫌だった。
 他方英昭はというと、相変わらず何か含みを持った雰囲気で少しづつ、ちびちびと料理に手をつけて行く。
 先輩は言う。
「おい向井よ、お前もっと食わんかいや、何遠慮しとんねん、今日は俺の奢りやねんから気にする事ないんやって」
 元々小食であった英昭は無理をしてまで食べようとした。でも自分のペースというものがどうしても邪魔をする。
 隣で見ていた田村が気を遣ってくれる。
「先輩、向井さんには向井さんのペースがあると思いますよ、彼も感謝はしてる筈やし」
 この言葉が先輩を激怒させるのだった。
「何やお前ら、ヤマ返すんかい!? 俺かってその辺の事は分かった上で言うとんねん、何も急かしとう訳でもないやろ?」
 英昭と田村は謝った。
「すいませんでした、決してそういうつもりで言ったんではありません」
「分かってくれたらええねん」
 そう答えた先輩だったが、この時点で既に空気が入っていた事は言うまでもなかった。
 その後三人は殆ど口も利かないままに食事をして、残った酒を飲み干すと早々に店を出る。
「ご馳走様でした、有り難う御座いました」
 礼は述べたものの、後味の悪さは英昭の心を浮足立たせる。やはり酒だけは気心が知れた者同士でなくては付き合えない。もっと言えば一人酒が一番良いとまで思うほどであった。
 時刻は午後九時過ぎ。英昭は家に帰るつもりだった。しかしそこそこ酒がすきな田村はこれから飲み直しをしようと提案する。二人きりならと付き合う英昭。歩き始めて間もなく、田村は思いがけない事を口にする。
「さっきはごめんな」
 その口調は相変わらず丁寧で英昭は逆に恐縮するほどだった。
「何も謝る事ないやん、寧ろこっちが礼せんとあかんぐらいやわ」
 田村はニコっと愛想の良い笑みを浮かべていた。
 夜になっても復旧工事は続いており街は結構煩い。バリケードに長く付けられた点滅する灯りが、まるで歓楽街にあるネオンサインのように派手な光を放っている。
 英昭同様、どちらかと言えば口数の少ない田村は道中でも殆ど口を開かない。たとえ僅かでも口数の多い英昭が間を持て余し先に喋り始める。
「この工事何時まで続くんやろな」
 田村は前を向いたまま、その体型にも似合わずか細い声で答える。
「そうやな~、まだまだ掛かるやろうけど、終わったら綺麗な街になるやろな~」
 この言葉も英昭には虚しく聞こえる。彼も酒の影響で少し気が大きくなっていたのか、移り行く街並みに対する正直な想いを告げる。すると田村は、
「う~ん、う~ん、そうやな~、そういう気持ちもあるわな~」
 と、ただ話を合わせるような相槌を打ち続けるのだった。
 これは彼が優しいからなのか。確かにそれはそれで気を悪くするものではない。ただ本当にそう思っているのか、本心はどうなんだという僅かな疑いも残る。
 でもそれを一々確かめようとは思わなかった。別に物怖じする訳でもないが、田村のその体格と、堂々とした雰囲気が自分の狭量さを教えてくれているように感じる英昭であった。

 結構な距離を歩いた感じがする。何処に行くとも言わずただ歩き続けていた二人。目的のない彷徨と言えば滑稽にも思えるが、田村は意識して歩き続けていたのだろうか。無論英昭には目的など無い。
 そして辿り着いた場所は少し明るい雰囲気が漂う夜の街だった。さっき居た居酒屋がある場所とは大違いだ。こういう所に来た経験が殆どなかった英昭は俄かに自分のぎこちなさを感じ始める。だが田村は依然として堂々とした態度を崩さない。その眼差しは微動だにせず真正面だけを見据えている。やはり頼もしい。その風格も先天的なものなのだろうか。 
 彼は何も言わないままにその店のドアを開いた。何か華やかな空気が一面に充満している。カウンターの中には数人の女性店員が立ち並んでいる。みんな綺麗な顔立ちをしている。客は少なかったが、その艶やかな情景は英昭を怖気づかせるに十分だった。
 このスナックなる店に初めて来た英昭はどうして良いものか分からず、取り合えずは田村に誘われるように隣同士席に坐り、無言のままじっとしているしか術はなかった。
「いらっしゃいませ、あ、田村ちゃんやん、土曜日やし、また飲み歩いとんの?」
 その馴れ馴れしい話し方に違和感を覚える英昭。
「あ、カッコええ人連れて来てくれてんな~、紹介してよ」
「向井さん、ちゃんと相手したってよ」
 どっかと坐り込み、表情を変えずに紹介してくれる田村だった。
「英昭です、宜しく」
 一応自己紹介をする英昭。
「英君やな、私沙希、宜しくね」
 次の言葉が出て来ず、黙ったまま愛想笑いで誤魔化す英昭だった。
 客が少なかった所為か、羽目を外して大騒ぎしている者もおらず、静かな落ち着いた環境は好都合に思えた。これならそこまで気を遣う事もない。皆で他愛もない話などをして時を過ごす英昭。
 すると先に居た客が帰り、新しい女の子が英昭達の前に現れた。その女性は少し細身ながらもきりっとした、凛とした良い姿勢を保ち、澄んだ目で二人を見つめる。
 彼女の姿を真正面で見た英昭は驚愕するのだった。
「俊子か?」
 彼女も愕いていた。
「え! 英昭!?」
 他の女の子もママも田村も皆が愕き、目を丸くし唖然とした表情でこちらを見入っていた。
 何故こんな所に俊子が居るのだ。何も知らない英昭は今自分が置かれている状況を把握する事に窮した。
「何? 知り合い? 俊子ちゃん、そうなん? ひょっとして彼氏?」
 今まで話をしていた女の子は特に舞い上がっている。 
 何時もより厚化粧をしていた俊子だがその顔は若干赤く染まっていた。英昭も同じく。田村も流石に愕いてはいたが、悠然とした態度だけは未だ崩さず、ニヤっとした笑みだけを浮かべていた。
 多少なりとも水商売風の装いをした俊子の容姿もなかなかのものだった。そういう事に余り関心がなかった英昭も、相手が交際している人なら話は別で、普段よりも数倍の気の逸りを感じる。
 それにしても何故今まで気づかなかったのだろう。そんな大きな店でもないのに、いくら他の客の相手をしていたとはいえ声だけでも気付きそうなものだ。もしかすると俊子は先に気付いていたのではなかろうか。彼女は愕いたふりをしていただけではないのか。
 でもそんな事はどうでも良かった。今の空間を意識するなら是非にも及ばぬ事。要はこの時を楽しめば良いのだ。そう自分に言い聞かせる英昭は気を利かせて、
「昔一時付き合っとってん、な、俊子?」
 と柄にもない言葉を告げるのだった。
「そういう風には見えんかったけど、ま~ええわ、何か歌でも唄ったら?」
 その女の子に促されるようにして、英昭と俊子はデュエットをして唄い始めるのだった。
 デュエット曲というものはラブソングしかないのだろうか。そんな事はない。でもこの状況でラブソング以外の曲を唄うのは如何にもナンセンスに思える。致し方なく二人は在り来たりながらもロンリーチャップリンを唄う。
 この曲ほど唄い易く、良い雰囲気を醸し出す曲もなく、プラトニックながらもまるで胸を焦がすような、ドラマチックな熱い恋心が無意識の裡に両者の心に火を付ける。
 英昭は慣れない所為か、何処に目線を置いて良いものか分からず、モニターばかりを真剣に見ながら間違えないよう唄い続けていた。俊子はたまに英昭に視線を送っていた。それに釣られるように、英昭もたまに俊子の顔を流すように眺める。
 そうして唄い終わると皆が拍手と口笛を歓声を送ってくれた。
「ヒュー! やっぱり嘘やな、付き合っとうねんな、そっかぁ~、俊子も隅に置けんなぁ~」
 その言葉は間接的に英昭に羞恥を与える。だがこの何とも言えない羞恥心は、理屈抜きに英昭を昂揚させ、酔わす。
 そんな気持ちで飲む酒は美味しかった。その後も皆は楽しく酔いしれ、充実した時を過ごす。
 楽しい時ほど時間の経過は早く感じるものだ。既に午後11時半。この2時間ほどが1時間足らずのように感じる。
 店は何時までやっているのか分からなかったが、英昭と田村はそろそろお暇するべく会計を頼む。
「ありがとう、また来てね」 
 女の子とママが店先まで出て来て愛想の良い声を掛けてくれた。俊子は店の中に居たが席を立った時、軽くウィンクをしているのが見えた。
 タクシーを拾うべく近くの公道まで歩く二人。英昭はこの数分の間にも考えていた。
 俊子に会えた喜びと、田村に対する感謝。そして自分と田村、俊子の真意はどういうものかという事を。








 





 

 
 










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