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幻の憧憬  #5


#創作大賞2022


 英昭には異性への関心と共にもう一つ心惹かれるものがあった。それも元々は無意識の裡に芽を出し始めた、淡い憧れから長じた、邪念を含めた煩悩に依って象られた趣味の一環のようなもので、好きでいて嫌い、嫌いでいて好きといった極めて抽象的で相反性のある厄介な事柄であった。
 でも異性同性を問わずその人間関係や世の成り立ちというものが、二極一対、表裏一体の理を表す事は往々にしてあり、一概には言えないまでも森羅万象この世に現存する万物に、全く関係のない事など無いとも思われる。
 ただ彼が惹かれるもの、抱く思想というものは何時も少々飛躍していて、自分とはかけ離れた位置に存在している場合が多かった。それは暗に理想の高さや無いもの強請りを示唆しているようにも思えるのだが、そうなる理由は生半可な、想定内の事などには動じない、動じたくないといった先天的ともいえる彼の無気力無関心な性質が災いする、不遜にも悲運な人間性に由来しているような気がしないでもない。
 バイト先の店主の貫禄も然る事ながら、英昭の地元には風格のある人物が結構居たのだった。年齢を問わず昔はそんな箔のついた人をよく目にしていたような気がする。
 その中には当然アウトローな者も多数存在していて、同級生の親御さんがヤクザの親分という事などはよく訊く話で、直接間接を問わずそんな人達と顔見知りになるケースも多かった。
 でも彼が真に興味をそそられたのはあくまでも貫禄のある人だけで、単なるヤンキーやチンピラなどには見向きもしなかったのだった。
 早くに夫と死別した英昭の母は、夫の兄と二人で自営業を営んでいて、当時はそこそこ繁盛していた為、息子達が店を手伝う事も多かった。
 そこにたまに現れる親分というのがこれまた貫禄十分な人物で、何時も二三人の屈強な体をした若い衆を連れていたのだった。
 パンチパーマの頭に、渋い皺を刻み込んだ、額に傷痕が残る厳つく際疾い(きわどい)形相に鋭い眼光、高そうなブランドものの衣服に大きな指輪などのアクセサリーといった如何にも本職と言わんばかりの形をして歩くその姿は周りを畏怖させるようなオーラを漂わせていた。
 こういった外見にも関心がない英昭ではあったが、外見と内心の関係性も莫迦には出来ないだろう。
 そして店に入った親分は母に対し軽く頷くだけでその後は何も言わずに席に坐り、注文などは全て若い衆達がする。ここでもまだサングラスを外す事なく不動明王のようにどっしりと構えている姿は、図らずも他の客達に無言の圧力を与え、是非はともかく店内の秩序を維持する役割を担ってくれていたような気もする。
 まだ現役であった為か、元々寡黙な性質(たち)なのか、堅気とは勿論、若い衆達とも殆ど会話をしないままに食事を済ませ、早々と退散して行く。
 だが店を出る時に、
「ご馳走さん、旨かったわ、ありがとう」
 という言葉だけは必ずといって良いほど口にする親分の粋な計らいには英昭は言うに及ばず、皆が感心する所でもあった。
 その親分と数える程度しか話をした事がなかった英昭は、決して気付かれてはいけないといった感じでさり気なくその様子を窺っていたのだった。その貫禄の源は何処にあるのかと。無論そんなものは傍から観察しているだけでは到底解らない。糸口すら掴めない。でも必要以上に近付こうとはしなかった。住んでいる世界の違いと己が分だけは弁えていたからである。
 ただ若い衆達はそこそこ喋る人で、
「兄貴はもっと喧嘩強くならんとあかんでな」
 などと皮肉を込めた冗談を、屈託のない様子で時々言い表すのだった。
 これには英昭も返す言葉がなかった。図星であったからである。一応喧嘩をした経験はあったもののそれも数える程度のもので、武闘派と呼ばれる者からすれば殆ど児戯に等しい、ままごとのようなものだろう。
 やはり貫禄というものは先天的な性質と経験に依って培われるもので、その何れも持ち合わせていなかった、修羅場などというものは一度も経験した事のない英昭のような小心者には縁遠いものであってに相違ない。
 それを認識していながらも未だ冷めやらぬ気の逸りは、一体何処から来るものなのだろうか。思春期の男が抱きがちな、一時的な気の迷いから来る単なる憧れか。いくら住んでいる世界が違うとはいえ、所詮は同じ人間であると思い込みたい共生感か。男ならそれぐらいの風格を纏わなければならないといった、精神主義的な思考が齎す使命感のようなものか。
 何れにしてもそのような煩悩が未だ彼を苦しめている事は自明の事実で、仮に関心があったとしても見惚れていれば良いだけの話なのに、どうしても深く掘り下げ、感情移入し、傾倒してしまう。
 要するに物事を割り切って考えるという能力に乏しかったのである。しかし彼はその事を悲観はしなかった。割り切ってばかりいる事は惰性や妥協に繋がると思っていた為である。
 だがその憧れを憧れに留めず、自分のものとするには努力しなくてはならない。その努力を履違えた方向へと向けてしまえば、流石に愚か者の烙印を押される事になるだろう。

 元々洋画には余り関心がなかった英昭は邦画ばかりを好んで観ていた。邦画といっても色んなジャンルの映画がある訳で、ヒューマンタッチに描かれた感動ものや切ないラブストーリー、ホラーやコメディーにミステリー、時代劇、戦争もの、そしてヤクザ映画と。
 とにかく恋愛ものにだけは何故か無性に身体が拒否反応を示すのだった。特段嫌いという訳でもなく無論それ自体を否定するものでもない。ただスクリーンやテレビ画面を介して自分の身体に伝わって来る、物語の意図や出演者の感情表現というものに、自分の感覚的な意識というものがどうしても抗いを見せるのだった。
 でもその抗いというのは感情移入してしまう事に依って生じた、心的にして自然的なものではなく、人為的ながらももっと奥深い所から湧き立つ潜在意識というものが先んじて表れ鉄壁のバリアを張ってしまうといった、些か突発的で恣意的な作用を及ぼすという具合であった。
 それを素直で純粋な気持ちと受け取り、その通りに動く彼の性質や精神構造に欠点はあろうとも、自省にも及ばないと判断する意思に迷いがないとすれば、それはそれで是非にも及ばない、自分らしさの一環であるようにも思える。
 そこでアウトローの世界に興味を持ち出した彼はヤクザ映画を観始めるのだった。現代ヤクザ映画も面白かったが、昔の東映のヤクザ映画はそれこそ面白く、その映像は写実的で臨場感溢れる迫力の世界観を映し出していた。
 往年のアウトロー俳優の堂に入った精妙巧緻な、迫真に充ちた演技には、ただ鍛錬に依って培われた業だけではなく、その俳優が先天的に持ち合わせていたと思えるほどの、その道を極めたような、凄まじいまでの熱情が余すことなく発揮されていて、観る者の魂にまで席巻するような圧倒的な力が感じられる。
 ビデオを借りて来て自宅で観ていた英昭は、世間でよく言われている、
「昔の東映のヤクザ映画を観て映画館を出た時、思わず肩で風を斬って歩いてしまう」
 といった言葉の信憑性の高さを感じるのだった。
 無論そんな軽挙に出る英昭でもなかったが、そういう気持ちになっていたのは事実で、少なからず影響は受けていたのだろう。
 ただ一言に影響を受けるといっても、ヤクザ映画には多いと思われるドンパチのシーン。これにも余り関心はなかった。
 そういったバイオレンスなシーンが無ければ成立しないと思われがちなヤクザ映画でも実はその限りでもなく、他のジャンル同様に奥深い人間関係の中に生じる様々な事象。それは自他を問わない心の軋轢や葛藤、悲哀、愉悦といった謂わば至極当然な、一人間としての喜怒哀楽であり、それを極道社会という一般社会とは一線を画した裏社会に置き換えて演じているだけの話とも思える。
 そんな思想自体が世間の一般論からすれば笑われるような事かもしれないが、同じ人間という観点から考えれば然程おかしいとも思えない。
 問題はその気持ちの持って行き方で、感じ取ったものを自分らしさに変換する事が出来れば言う事はないだろう。
 しかし哀しいかな今の彼にそのような能力は無かったのだった。でも面白いものは面白い。ヤクザ映画としてだけではなく、一つの物語、映像、描写として。

 蝉の鳴き声が煩さかった。燦然と輝く真夏の強烈な陽射しは蝉の勇ましさを煽るようにして、容赦なく地上を照り付けて来る。
 額に汗しながら街を行き交う人々の様子は疲れているように見える。でも子供だけはそんな暑さを物ともせず、寧ろ喜ぶような調子で蝉と同じように意気揚々と逞しく遊び回っている。
 まだ十代である英昭もそんな子供達の元気な様子を羨むような目で眺めていた。体力的には自分の方があるに違いない。それなのに自分には元気や覇気といったものが他者と比べて著しく欠けているような気がする。それを傍から見た場合にどう映るかは別としても、自信が持てない以上は堂々とする事も出来ない。見せかけの自信などは直ぐ鍍金が剥がれ、たとえそれを外見だけで無理矢理繕っても忽ちにして露顕してしまう。つまりは自分自身が惨めな思いをしなければいけないという、自己欺瞞が齎す自業自得という憂き目に遭ってしまうのである。
 子供達の何に惹かれるかといえばその決して後先を顧みない、悪意を伴わない根拠のない自信で、若い者が抱きがちなそれを幸か不幸か未だ身に付ける事が出来ない、小難しい性格の自分を悲観視するものだった。
 思った事をストレートに行動に表す事が愚かしいと判断してしまうのである。後先を考え慎重に行動しているといえば聞こえは良いが、それも半端でどうしても答えが見つからない時は結局衝動に任せて動いてしまう。
 とはいえ成るようにしか成らないといった割り切る能力にも乏しい彼はどうすれば良いというのか。もっともっと思考を尽くし、悩み藻掻いて生きて行くしか道はないのか。それも如何にも辛い気がする。
 でも可憐な子供達の健気な様子を眺めていれば英昭のような者でも少しは気は晴れ、これ以上逡巡と戯れる事が嫌になり、そこから抜け出すべく足早にその一歩を踏み出すのだった。
 綺麗好きでシンプル好きで風呂好きな彼は自宅の風呂には滅多に入らず、銭湯に行く事が多かった。
 弟と行く事もあれば親友とも呼べる和義と行く事も。夏休みでバイトも休みだった彼は和義と一緒に行こうとしたのだが、あいにく彼には用事があったみたいで、自分一人で何時もの銭湯に行く事にした。
 まだ午後三時という早い時刻の銭湯には客も少なく、清らかな雰囲気が漂っていた。大袈裟な話聖域とも呼べるような時間帯、その空間の中には穢れを知らない新鮮な厳かな空気が流れていて、来る者の気持ちを優しく浄化してくれる。
 客は年配者が殆どで、これだけが楽しみであるかのような喜びを、落ち着いた雰囲気の中に表現しながらゆっくりと湯舟に浸かっている。
 知り合いの翁(おきな)に軽く挨拶をして真っ先にスチームサウナに向かう英昭。若年者がサウナに入り必要以上に代謝を高める事は危険ともされているが、これも癖になっていた彼はなかなか堪える事が出来なかった。
 サウナの中は正に濃い霧に覆われていたが、怪しい人の気配が強いオーラを放ちながら坐っているのに気付く。
 その者は腰を上げるとサウナの中で腕立て伏せを始めるのだった。その真剣な表情に思わず笑みを零す英昭。だがよくよく目を凝らして見てみると、まるで生きているような大きな絵が、その身体と共に烈しくとも静かに躍動している姿が確かめられた。
 執拗に見過ぎれば怪しまれると感じた英昭も、男性が下を向いている今しかチャンスはないと言わんばかりにその絵を凝視するのだった。
 刀を携えたその人物は侍、武士なのだろうか。誰かなどは到底解らない。恐らくは架空の人物だろう。 
 三十回ほどの腕立て伏せを終えた男性はサウナを出て水風呂に浸かっていた。そのあと英昭は真似るようにして腕立て伏せをし始める。でもどうしてもその入れ墨が気になって仕方なかった。何処かで見覚えのある絵だった。
 すると水風呂から上がった男性がもう一度サウナに入って来て、英昭の腕立て伏せをする姿を見て言うのだった。
「おい兄貴よ、お前そんなやり方ではあかんて、ええか、ここに足を置いてすんねん、こうしたら効果倍増やねん、ほら、やってみオラ!」
 健気にも言われるままに段の上に足を置き、腕立て伏せをする英昭。その体勢ですると結構堪える。確かに効果はあるかもしれない。
 そうして腕立て伏せを終えた彼は今一度その中年の男性に向かい合い、一礼をして、
「これはキツいですね、でもこれからは頑張ってやって行こうと思います」
 などと心にもない事を口にするのだった。
 一応満足したような顔をする男性は少し笑いながら答える。
「お前、昔よう見よった子やろ? 大きなったの、高校生ぐらいか?」
 それでもなかなか思い出せない英昭だったが惚ける訳にもいかず、知ったかぶりをして返事をする。
「あ、あぁ~、親っさんですか、お久しぶりです、はい、高校一年生です」
 男性は厳つい表情ながらも優しい笑みを浮かべたまま、
「おう、学校頑張れよ」 
 とだけ激励を送ってくれるのだった。
 会話はたったそれだけで終わってしまった。だがここでまた英昭の悪習とも言うべき憧れが自然と姿を現すのだった。サウナで汗をかく事に依って、そして僅かとはいえ会話をした事に依って昂揚した彼は、その衝動に促されるままに自分でも思いもしない愕くべき言葉を発するのだった。
「親っさん、自分を子分にして頂けませんか、御願いします!」
 男性も一瞬は愕いたのか、目を丸くさせて英昭の顔をじっと見つめていた。だがその刹那、身の毛がよだつような、川水が逆流するような、凄まじいまでの怒声を浴びせて来る。
「今何言うたんやオラ? 子分て何どいや? われヤクザに成りたいんかい? おちょくっとんかいゴラァァァーーー!」
 英昭は一言を言い返せないまま、極力身を縮めて、その場に固まるように佇んでいた。
「おい、お前如きに何が出来るねん? ヘタレ丸出しのわれなんかに? え? 何かシノギ出来るんかい? 親はおるんかい? 舐めとったらいてまうどゴラ、今度そんな事言うたらマジでただで済ませへんからな、神戸から追い出したんどゴラ! 分かったな!」
 恐れおののく英昭は流石に言葉を失い、すいませんでしたという言葉すら告げられないままに項垂れた様子でサウナから出て行く。
 怒られる事ぐらいは覚悟していた。でもまさかここまでとは。口の悪い、柄の悪い者はいくらでも居る。ただ同じような文言でも言う人に依ってその真実味や重み、迫力は千差万別で、自分の親に言われた時と比べると天地の差に感じられる。
 そして尤もらしい言い方とはいえ、男性の言にも一理はあった。寧ろ全て図星であったぐらいに思える。でも今の英昭にはそれを振り返り教訓にする事さえ叶わなかった。全くといって良いほど余裕を無くしたこの現状では何も手に付かないぐらいだ。
 大人しく身体を洗っていると、恐らくは先程の男性の若い衆なのか、その人がそっと英昭の肩に手を触れ囁くのだった。
「兄やんよ、あんまり変な事考えんなよ、じゃーな」
 彼の表情は優しかった。
 穴があれば入りたいとはこの事か。嘗て味わった事がないほどの羞恥が英昭を襲う。自分は何故あんな事を言ってしまったのだろうか。本心だったのか。もしそうならばそれこそ何故。
 以前のように湯気に依って霧がかかっていない、ありのままの姿を現す風呂場の光景は、そんな英昭の惨めな姿を隠してはくれなかった。
 























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