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志の果てに  #2

 人生は旅だという言葉を訊いた事がある。確かにそうであろう。生まれたが最後、衆生は死ぬまで己が道を歩んで行くしかないのである。
 獅子は生まれたばかりの我が子を谷底に落とすという。普通に考えれば凄まじく厳しい話である。ライオンの生存率は如何ほどなのだろうか。亦、そこから這い上がって来た者が真の強者なのかとも疑ってみたくもなる。
 山崎修司。この三十になった男の考える事は何時も決まっていた。まずは疑う事から入ってしまう。世間では当たり前と言われるような事象に対しても素直に受け入れ、靡く事を嫌ってしまう。かといって猜疑心が強い訳でもない。特に対面で訊いた事などには笑われるほどの、幼子のような涼しい眼差しを以て、真剣な態度を示すのであった。
 実際に笑われた事も何度かあった。内心では何が可笑しいのかと思う。でもそこに他意は感じない。何故なら人という生命は生来正直者だと信じていたからであった。
 我が子を虐待する事件が後を絶たない。こればかりは如何に掘り下げて、親身になって考察しても到底理解出来ない。そしてこのような所業は獅子が子を谷底に突き落とす事とは全く異質なものである。子への情愛などは一切感じられない。ならば最初から産むなとも言いたくなる。
 ともあれ生命の連鎖とは正に神秘的な雰囲気を帯びており、それなくして有は生まれないとも思われる。
 修司の真の願いとは、その髄とは何なのか。美である。道中で様々な困難があろうとも最終的には美しくなければ何の価値もないのである。無論一言に美と言っても、ある程度の醜さも含まれてはいる。ただその醜さを己が体験して来た、想定内の事だけに収めたいという思考には稚拙さもあった。
 この蒸し暑い梅雨時分の鬱陶しさに比例するように、昨晩歩いた街の光景はむさ苦しく思えた。彼の目からはアウトローであれ、単なる会社員であれ、夜の街に繰り出して来る者の姿は有象無象の群れにしか見えなかった。
 それと比べると、この朝の清々しい陽気は幾分気を紛らわせてもくれる。かといって朝が好きな訳でもない。とにかく難しい性格なのである。
 要は真実を知りたいだけかもしれない。この世に真実など無くとも。
 神経質な割に昨晩食べた料理は覚えていない修司だった。どうせカップラーメンでもすすって、そのまま寝てしまったのだと思う。朝食に出された母の手料理は美味しかった。母の作ったものなら好き嫌いなく、何でも綺麗に平らげる修司であった。
 そんな息子の姿を無表情ながらも、僅かな目の笑いで見守る母。彼女は長男である修司に対してだけは特別愛情を注いでいたように見えた。だからこそ強く叱りもした。その事だけを取って見た場合、残る二人の兄弟からは引き潮の如く浅く緩やかな反動が感じられなくもなかったが、それを感じさせない兄弟の配慮にも気が揉まれる。
 修司本人としては、その兄弟の目も煩わしく思える。でも是か非だけで判断するとすれば、明らかに是なのである。そのような細かい事にまで執着していれば、生きて行く事さえ叶わない。
 何れにしても、井の中の蛙である。この年にして母に甘えていると思われれば、マザコンのレッテルをも貼られかねない。たとえ甘えていないとしても。
 そこで修司は考える。どうすれば、この母から真に自立出来るのかと。
 繊細な人間に限って、浅はかな思いを抱く事が往々にあるように思える。彼が思い浮かべたその浅はかな思慮とは、取りあえずは母以外の女性を愛する事としよう。今更言うまでもない事である。異性との経験どころか、接点すら無いに等しかった彼は、昨日プールで偶然逢った、咲樹の事を考えていた。昨日の今日だから連絡などある筈もない。ともすれば一生無いかもしれない。ならばこちらから連絡してみるか。自分の連絡先だけしか伝えていないこの状況ではどうしようもなかった。間が抜けている。
 致し方なく就活に臨む修司であった。彼は以前勤めていた会社を辞め、ここ数ヵ月は流浪の旅をしていたのだった。
 僅かに貯えていた金銭も何れは底を突く。その後にあるのは、また母の脛をかじる生活だけだ。それは流石に情けない。だが、情けないといってもそこまでの危惧は抱いていなかった。最悪の場合は死んでしまえば良いだからである。生きようとすればしんどくなるし、辛くなる。死んでしまえば楽になるとは言い切れないまでも。
 もし、この世の中が金だけで成り立っているのなら、それこそ彼はもっと早くに死んでいただろう。それが出来なかったのは情が通っていたからである。その情というのも単なる親兄弟、或は友、愛人の間にある情けではなく、与えられた、授けられた命を一花も咲かせる事なく終えた時に襲って来るであろう、天の怒り。それを理屈抜きに怖れる余り、死ぬに死ねないのである。閻魔様に舌を引っこ抜かれる。お伽噺などで訊いた事のあるフレーズは、よくよく考えてみると実に怖い話である。更に死して後、未来永劫亡者となって冥界を彷徨い続けるとなれば、それは想像もつかない未知の世界であって、一切の間隔を失いながらも苦しみ抜かねばならない死の穴にある拷問とは、謂わばたまに見る悪夢みたいなもので、醒めない悪夢を見続けさせられる事ほど末恐ろしいものもないのだはなかろうか。
 阿鼻叫喚の無間地獄。如何に想像を膨らませようとも、その実像は全く見えて来ない訳だが、いくら泣き叫んで許しを請うてみた所で、絶対に許されない事だけは理解出来てしまう。
 そうなれば、生まれ変わりすら無いとも思われるのだが、もし生まれ変わったとしても真人間としての命が授けられるとも思えない。
 このような事を考えている時点で、修司という男が根暗な性格であった可能性は否定出来ない。どのような物語からそんな暗い事ばかりを思考するようになったのかは分からない。でも彼に備わった先天性のある情感というものに触れた事象というものは、少なからず因果因縁で結ばれていた可能性もあり、そこに逃げる事なく立ち向かう姿勢だけは、我ながらあっぱれだと開き直る修司でもあった。
 何の学も経験もない彼が抱く真意とはここにこそあった。つまりは意識。現代社会では意識高い系などと、他者を揶揄する者もあるが、この意識というのはその高低、多寡だけだけではなく、有るか無いかが重要とも思えて来る。悲観的な思考であろうとも、とことんまで掘り下げて考察する彼の意識は決して低いとも言えないし、ゼロでない事も言うまでもないだろう。
 他方、今の生活に甘んじ、個人的な人生観だけに浸る者にそこまでの意識があるだろうか。無論一定数はある。でも意識が高いと人を貶しておきながら、何か有事の際にだけ真剣になる現代人の有様を見るに、やはり思慮が足りないとも感じてしまう。
 日頃は浮かれ調子で生活しておきながらも、例えば税金、保険、雇用、まして天災に見舞われるような、自分に直接的に関わりのある問題が生じた場合、人は顔色を変え真剣になり、政治が駄目なのだといったご都合主義的な暴言を吐いたりもする。
 ここにこそ現代日本人、いや、日本人としての憂わざるを得ない脆弱な精神性、その人種性が見え隠れする訳だが、歴史を紐解けば分かるように、元来の日本人とはそこまで惰弱な民族でもなかったようにも思える。
 然るに何処で変化したかという精密な話にもなり、済んだ過去を穿り返した所で結局はあとの祭りで、とても前向き思考と呼ぶ事は出来ないまでも、学校の勉強と同じである程度の復習は大切であろう。
 そんな感じで今彼が抱いている思いとはまだまだ漠然としている。こんな事を考え方を持つ者も一定数はあるだろう。だが、少なくとも修司の周りには余り居なかったのであった。
 取りあえず歩き出す修司は、歩くという行為の裡に何かを見出そうとしていた。静と動。静の時間は過ぎたのである。これからは動いていかなければならない。道を究めた禅僧や仙人、上人でもあるまいし、坐しているだけでは何も見えて来ない。
 玄関を出て直ぐ感じた事は季節を問わずに可愛い声で鳴く、雀の優しい哀愁であった。

 就活ほど面倒臭いものがあるだろうか。自分で仕事を辞めておきながら勝手な言い分ではあるが、ハローワークなどでは至って在り来たりな、それも遠方の就職先が多く見られる。
 通勤時間だけで考えると片道1時間以上も掛かる所には行きたくない。実際、派遣社員などでは交通費もろくに出ない。とはいえ地元に仕事がないのは理解出来る。
 その中で必死になって見つけ出した会社でさえ、ハローワークの職員に紹介して頂く際、
「あ、惜しい、もう一人決まったらしいわ」
 などと皮肉めいた、機械的な言葉を告げられるのだった。
 はっきり言ってアホらしくなって来る。修司は思わずカマシを入れてしまった。
「それやったら最初からその求人削除しとったれや! 何十分も待たされてそれかいや、舐めとったらあかんでなおっさんよ!」
「そうですよね、いや、申し訳ない」
 八つ当たりでもあろうとも、ハローワーク側に全く非がない訳でもなかろう。見るからに生真面目そうな面持ちで仕事を探し、紹介を待っている人の誠実そうな姿にだけは、腹の中で頭を下げる修司だった。
 求人誌やネットで仕事を探しながら、ウォーキングや筋トレ、ストレッチなどを熟す日が続いていた。
 彼は数少ない友人から出不精や引き籠りと揶揄されていた。確かに外に出るのが年々億劫になって来た。その理由は人を煩わしく思う事よりも、寧ろ面倒臭さの方が勝っているように思える。
 仕事も私生活も全て要領良く済ませたいのである。特別な用事でもなければ、あらゆる事を一度に片付けてしまいたい。例えば買い物に行く事などが典型例で、買い物だけで一々家を出て行く事がアホらしいと思ってしまう。最低でも他に二三の用事がなければヤル気が出ない。
 それは遊びに行く時も同じで、遊ぶ事だけで出て行くのは嫌なのだった。もっと言えば、家の中に居る時も一つの用事だけで立ち上げるのが嫌で仕方ない。
 となれば家の中でも外でも、多くの用事を一気に済ませるべく、風の如き疾さが必要にるのは自明で、大仰ながらも風林火山の精神へと邁進してしまうのである。
 その友人が言う、
「出不精かと思えば、一日外出とう時もあるんやな、ほんま変わっとうな」
 この言こそ修司の性格や行いを示すもので、別に理解して欲しいとまでは思わずとも、個性だけは認めて欲しいと願う修司であった。
 街中の瘴気から飛び出すように海岸線を歩く。久しく来ていなかった海の情景。それは修司に対し爽快な自然美を与え、普段悩んでいる事がさも極小で、人類の存在価値をも侮ってしまうような、崇高な天の意思というものを漂わせていた。
 自分の性格や行動形態などは正にとるに足りない話であり、あくまでも万人の中の極僅かな存在が有する持論に過ぎない。
 灰色がかった雲の隙間から差し込む一筋の光。その光だけで地上は明るく照らし出され、無数の星を鏤めた煌めく海原に映る空の様子は、曇り空であっても晴れ渡って見える。
 平日であっても砂浜にはそこそこに人数が確かめられた。魚釣りをする者、家族で遊んでいる者、ウォーキングやジョギングに精を出す者、漁師や警戒船等の海の仕事に従事する者、そしてカップルと。
 女性と海へ来た経験は一二度しか無かった修司。彼はそんな光景を羨む訳でもなく、ただ絵になるといった風に覚られぬよう横目で、ぼんやりと眺めていた。
 有名人であろうが俳優であろうが一般人であろうが、砂浜に佇む男女の姿はどれも映画のワンシーンのように、堂に入っているように思われる。でもそれだけで物語は創られず、あくまでも一枚の画像であり、動画としては成り立たないとも。
 修司は俳優でもない癖に演技をするかのような、少し恰好を付けた歩き方をしていた。もし今、何か撮影でもしていたなら絶対に自分の姿が様になる筈だという自惚れた考え方で。
 そのような様子を傍から見た者はどう思うだろう。莫迦なのかと言われるかもしれない。百歩譲って褒められたとしても、それは修司には伝わっては来ない。
 それでもそんな歩き方をする彼は、或る意味ではナルシストであったのかもしれない。自分の気持ちさえ充たされればそれで良いのである。他者の思惑などどうでも良いし、もし文をつけて来られようとも、万人が嘲笑し、認めなくても何ら動じるものではない。それよりもしたい事をしなかった時、自分を欺いた時に覚える悔恨の方がよっぽど怖い。
 これを主観的思考と一言に片付けられるのだろうか。自愛や自尊を主観と一括りに言ってしまえば、個性などは不要にもなるのではなかろうか。逆に客観的思考だけを取って閉塞してしまう事は愚かしくも思えて来る。
 つまりは主観と客観の関係性とは、自他を問わずに生じる思いの丈を如何に戦わせながらも決着をつける事に執着せず、理解し、認め合う事に依ってのみ融和される心の赴きではなかろうか。
 時には非難し、貶し合う事もあろう。血を流す事さえあろう。でも最終着地点が美しく、そこに皆が辿り着ければそれだけで良いような気もする。
 真の平等とはそういう事を指すのではなかろうか。ただ言うは易し行うは難しで、その道中に於ける様々な困難を克服しなければ辿り着けない最終地点。そこを目指して歩む人生の厳しさは言うに及ばず、不運にも道中で挫折を余儀なくなれた人には告げるべき言葉もない。
 何の因果かそんな堅苦しい事ばかり考えてしまう修司は、とにかく浜辺をひた歩いた。歩いてさえいれば気も晴れ、また新しい世界観を発見出来るかもしれない。
 余り息を切らせずジョギングしている者の律儀な快活さが目に入った。少し速めに歩いていても感じられるジョギングとのスピードの差異。自分との間合いの中で平面的に捉えると、そのスピードは恰もマラソン選手のような速さにも感じられる。汗の匂いまで伝わって来る。
 修司自身も汗をかいていた。走っている人の汗は光っていた。光を以て自然に感謝し、亦抗っているようにも見える。その抗いに不純な思惑は無かった。ただ純粋に発せられた正直な思いが、汗を媒介して内なる心を主張しているのだった。
 しかしその心は無なのである。無心になって動く己が身体に、野心などは有る筈もない。でもその無は確実に有へと進んでいるのである。
 修司の目からは走っている者の精神がゼロには見えなかった。少なくとも1には成っている。自分の精神はまだゼロのままである。ゼロの彼が1を感じたのか。それもおかしい。既に小数点ぐらいは付いているのでは。
 微かな鼓動の高鳴りが修司を躍動させる。恐らくは時速6キロぐらいのスピードで歩いていた彼は更に早く歩き始めた。身体に触る風が冷たい。周りの景色も足早に遠のいて行く。
 何時も目標にしていた折り返し地点に、いつの間にか着いてしまった。ここでUターンして帰るのが勿体なく思えて来る。
 さっき見たジョギングの人は何処へ行ってしまったのだろう。すれ違ってないという事はまだまだ先を目指して走っているのか。そんな事あえどうでも良くなって来た。問題は自分なのだ。自分さえ満足出来ればそれで良い。
 衝動に駆られてつい無理をしてしまう彼は、その先に進んで行く。
 一旦砂浜が途切れ、アスファルトで舗装された歩道が現れた。これまでもそんな道を歩んで来た訳だが、今度は砂浜が完全に無くなり、その歩道にあるガードレールから下は断崖絶壁で、ごつごつと尖った岩場がその茶褐色の肌を全方位に向けて顕現させていた。
 何時も間にこんな高い場所まで登って来たのだろうか。そこまでの距離を歩いた実感はなかった。人の遠近感、高低差を計る能力は意外と乏しく思われる。坂道を歩いていた感じはしていたものの、いざこの崖っぷちに立ってみると、まるで山登りをしていたような錯覚さえ覚えるのである。
 眼下に見下ろす海の情景は美しくも怖ろしい。ここから自殺を図っても即死するかは分からない。でも無事で済まない事ぐらいは容易に察しがつく。2時間ドラマでありがちな、情緒のある崖っぷちではない。はっきりいって絵に成らない。
 こんな所から自殺したとしても、ただただ哀しいだけだろう。その哀しさの中にも一切のドラマは生まれないのである。修司は思うのだった。どうせ死ぬのならもっと絵になるような場所で死にたいと。
 こう考えている時点で彼にはまだ余裕が感じられる。本当に死にたいのなら、そのような事自体どうでも良い筈だ。
 疲れた所為か怖くなった所為か、ここでUターンして帰ろうとする。一応確かめた携帯にはちょうど7000歩という数字が表示されていた。このまま家に帰ると14000歩。本来ならもっと歩数を稼ぎたかった修司も、素直に諦めるのであった。

 家に着いた彼は、今一度携帯を取り出し、歩数を確かめた。14000歩にはなっている。しかし着信があったのにはこれまで全く気付かなかった。何処であったのだろう。折り返し地点では無かった。すると帰り道しかない。
 特に音に敏感であった彼が着信音に気付かなかったのは珍しい。それだけ携帯電話なるものを徹底して嫌う、古風な性格の表れなのだろうか。何れにしてもその着信の相手が気になる。その相手は咲樹だった。彼女は何故こんな真昼間に連絡して来たのか。急用などある筈もなかろう。一々考え込む修司。すると考えているうちに咲樹の方からまた連絡が入る。
「もしもし、修司君?」 
「違いますけど」
「それは失礼しました、すいません、って、そんなしょーもない事言わんでええねん」
「そやな、で、どないしたん?」
 それから咲樹は一時喋らなかった。たかだか数秒とはいえ、電話でのその間は実に長く感じられる。
「あ、ごめん、ちょっと考え事しとったから」
 その声には何処となく元気がなかった。何かあったのか、或は悩み事か。相談事に乗るのに慣れていた修司は面倒臭がる事なく、至って冷静な口調で優しく語り掛けた。
「何かあったんやったら、なんぼでも相談乗るで」
 また少し間を置き、話し始める咲樹。
「あんたそういうとこは結構鋭いねんな、ちょっと見直したわ」
「ええから、言うてみって」
「今晩会われへん? そこで折り入って話したいねんけど」
「あ~、別にええで」
「じゃあ、今晩8時に、昔よう行ってたあの場所で待っとくわ」
 あの場所を瞬時に思い出せない修司だった。そこは海なのか山なのか。或は何処かの店か、単なる路上か。近所である事には違いないだろう。でもどれだけ考えても解らない。訊いて確かめるのも憚られる。
 何かを思い出そうとして思い出せない時の、気が収まらない人の心境とは不思議に思える。どうしても駄目ならいっそ諦めた方が早い。また後になって思い出す事も往々にある。
 でも是が非でも思い出そうと躍起になる修司は、押入れから昔の写真を洗い浚い放り出して、その中にあるであろう咲樹の映っている写真を探し始めた。
 なかなか出て来ない。出て来るのは定番の記念撮影みたいな写真ばかりである。修学旅行で一番端に映っている自分の顔は様になっていないと独り恥じる修司。何故他の者はこんなにも写真写りが良いのだろう。修司の顔つきはとにかくぎこちない。まるで何かに追われている盗人みたいだ。
 それこそが彼の悪い習性で、一歩どころか、二歩も三歩も自分を退いた状態にして物事にあたる事がその心に根差していたのだった。だがそれは決して自分を卑下する訳でもなく、謙虚に立ち回っているだけだと確信していた。ただそういう為人はあくまでも他者が判断するものであって、自分自身で恣意的に思い込むのは些か傲慢かとも思われる。
 やっと出てきた咲樹の写真。それは彼女らしくない、子供には珍しい憂愁感漂う一枚の画だった。
 修司は何故そう感じたのかというと、元気や覇気以前に咲樹の表情に迷いが確かめられたからであった。無論迷いの中身までは理解出来ない。恋の悩みか自身の生活環境が齎した悩みか、将又一大事でも起きたのか。
 こんな咲樹の顔を見たのは、この写真が初めてかもしれない。でも決して暗鬱ではない。綺麗な彼女の顔は常に明るく、少々の悩みや暗さなどはそのまま跳ね返すほどの力を持っていたように思われる。
 実に嫌な予感がする。どうしてもマイナス思考で臨んでしまう修司だった。でも考え過ぎは良くない。
 咲樹の表情一つで場所は思い出せた。後は時間との勝負である。仕事をしていない今の修司は時間の経過が遅く感じられて仕方がない。本当に時間は進んでいるのかと疑ってみたくなる。時計の針は少しづつ進んでいた。当たり前である。
 秒針に対して分針、時針の歩みの遅い事よ。正に亀と兎、鈍行と快速列車である。
 イラチ(せっかち)ではない修司も、この時間の経過を平然と眺める事は出来なかった。何をした時間を潰すのだ。ゲームか、読書か、携帯弄りか。最後の手段はまたウォーキングか。それもしんどい。
 試行錯誤する時に限って良い案は生まれない。最終手段として挙げられるのは昼酒だった。朝酒や昼酒など正月以外にした事もない。俗に言われる公園族。彼等が真昼間から公の場で酒を喰らっている光景は頂けない。あんな風になってしまえば、それこそ人生終わりだ。だが、今の修司の状況はそんな将来を微かに暗示しているようにも思えてしまう。
 今行動しなければならない。そうしなければ取り返しがつかなくなる可能性は大である。
 三十にして今更気付く悔恨。これまでの彼は世の中を舐め腐っていたのだろうか。自業自得とはいえ失われた十年である。
 結局は惰性的に昼酒に興じる修司だった。そうしたのには、言い訳がましいもう一つの理由もあった。この前咲樹と会った時は素面とはいえ忙しいプールだったので、他者の目もあり、そこまで緊張する事なく普通に話が出来ていた。それが改めて待ち合わせなどをしてみると、無性に緊張感が込み上げて来る。異性と会うというのもあろうし、久しぶりという事も。でも彼が抱いていた緊張感はそのような単純なものでもなかった。理屈は自分でも解らない。自分の無意識の意識というものを介して襲い掛かって来る、自分でも発見出来ていないもう一人の自分とでも言おうか。
 それは多重人格とかいう意味とは違い、元来の自分の中にある分身、いや違う、対極に憧れる自分、それも違う。とにかくもう一人の自分が本体である自分に執拗に諍いを見せるのであった。
 酒でも飲めばそんな蟠りなど一掃出来よう。アルコールの魔性の力は語るまでもない。酔いはしないまでも口に入れ体内に深く浸透して行くに連れ、恰も自分が自分ではない心地になって来る。気が落ち着く。今考えていた事がアホらしくさえ思えて来る。でも意識はしっかりしている。
 それはつまり、程よく気持ちが和らいだだけであって、決して自我というものは消失されていない事を意味するのではなかろうか。これが覚せい剤やヘロインともなれば、完全に自分を見失てしまうだろう。酒、アルコールはその点では優れていると思える。
 逆に酒を飲む事に依って自我を一層強く発揮する者も居よう。隠されていた内なる真意を自然と精妙に表せる事も往々にあるように思える。
 元々酒が苦手であった修司は、今にして酒の有難さを噛み締めていた。咲樹は今どうしているのだろう。また甥っ子をプールに通わせているのだろうか。仕事か、家事か。
 そんな詮索は修司に馴染まなかった。どうでも良い。今夜会ればそれで良いのだ。
 たとえそこで想定外の悲惨な出来事を告げられようとも。実際に合って、面と向かって話をすれば、多少なりとも力になってあげられる気がする。深入りし過ぎて被害を被っても良いとまで考えてしまう。
 修司は咲樹に恋している自分に気付く。幼い頃の児戯に等しい恋物語が彼を抒情的にさせる。
 少しだけ赤くなっていた顔を洗い、余所行きの服装に身を包んで外に出る。まだ曇ってはいたが、雨は降っていない。空はその優しい力で黄昏色へと街を染行くのであった。






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