志の果てに #1
一章
池の水面を跳ねる鯉。空を飛び回る鳥。海を泳ぐ魚達。荒野を駆け巡る野生の動物。生い茂る草花に樹々。宇宙を彷徨う星々。そして人間。
それら全てが表す美醜、清濁併せ持つ自然の理(ことわり)というものを思索する時、自然社会と人間社会とに分けて考える事は二元論に類されるのだろうか。一つ一つを分けて、更に多角的、多面的に考察する事が多元論なのか。
高卒である修司にそんな哲学的な話は到底理解出来なかった。でも少なからず関心はあった。その最たる理由として挙げられるのは、彼自身の取るに足りない過少な人生経験の中にあった、他者に対し干渉や詮索を用いずに、肌感覚でその身にこびり付いていた不遜ながらも純粋な憐憫。その詳細を紐解くのは意外と困難で、箇条書きで並べ立てるとしても百は下らないと思われる。
ただその原資となるものは、あくまでも修司自身に備わった先天性のある気質と情感、そして自分なりの論理的思考から成るもので、概念的思考を徹底して嫌う彼は、その狭間で己が思想信条と葛藤を繰り返し、懊悩する日々に甘んじていた。
知性に乏しい割に記憶力に恵まれていた修司は三十歳になった今となっても保育園児の頃の出来事を度々思い出し、感傷に浸る事があった。彼が通っていた保育所の直ぐ近くにあった人家の庭にある池。そこで飼われていた約十匹の鯉は普段は大人しかったが、誰か人が立ち寄ると反射的に水面から飛び跳ね、その華麗にも勇ましい姿を披露するのだった。
時代背景もあってか、その人家の門扉は常に開け放たれていた。先生を含めた保育園児達十数人はその池を眺めながら、各々の感想を呟く。
「凄いな、カッコええな、強そうやな」
といった男児に対し、
「綺麗やなぁ~、美しいわ、雅やわ」
という女児。最後の雅は女先生が口にした言葉である。この男女の感想の差違はやはり男女の性質の違いに依るものだろうか。そうとるのが世間の一般論だろう。それ以上に深く掘り下げて考える必要もないような気がする。
しかしそこにまで異を唱えるのが修司であった。何故そう思ってしまったのかは解らない。でもそれこそが彼の持ち味ともいうべき異端な性格の為せる業でもあった。
そんな一風変わった性格を持していながらも、どちらかといえば無口な修司は、後先考えずに意を決して口を開く。
「お前ら、もっと気の利いた事言うたらんかいやって、何が凄いやねん、何が綺麗やねん、誰にでも言える言葉ばっかりやんけ」
保育園児の最年長六歳の子供が、このような言句を言い表せるのだろうか。勿論そこまで正確に言ったのではなかった。でも大凡は合っていた。
そう感じ取っていたのが先生で、彼女は騒いでいた皆を他所に、修司一人に囁く。
「あんた、ええ事言うやん、先生も同じ事思っとってんで、でも綺麗なもんは綺麗でええんちゃうか、あんまり深く考える必要はないと思うで」
敢えて自分と同じ考えを告げた先生の真意は理解出来ない修司。でも皮膚感覚で伝わる彼女の想いだけはしかと受け止めていたのだった。
「優しい......」
修司はその一言だけを呟いてその場から逃げだして行った。皆は呆気にとられていた。
年中咲いている雑草の生命力や如何に。
森羅万象、万物の祖とも言えるような気がする雑草。大自然の中にあって恐らくは一番小さく、そして一番大きな存在。その草が世に訴え掛ける想いは、肌感覚だけで捉える事は難しいだろう。その小さくも生への執着心を健気に表す頑なな心意気。踏まれても千切られても何れはまた芽を伸ばし、静寂の中に伊吹きを上げて来る芯の強さ。その志たるや、とてもじゃないが人間如きが真似出来るものではない。
カタバミ(片喰)。この草が表す真意とは何だろうか。草でも花を咲かせる事は言うに及ばず、常に緑を与えてくれている事が実に有り難く思える。そして花咲いた時に見せる満面の笑み。それは何一つ面白い訳でもなく、川水が流れ落ちて来るような当たり前の、理屈を介さない、可憐な純粋無垢な、真正な笑みであった。
真に感受性の強い者ならばとうの昔に感じ取っていた自然の美しさ。それを三十歳にもなって感じ始めた修司は、己が才覚を疑い、哀れんでいた。その疑いは留まる所を知らず、いつの間にか自分とは住んでいる世界の違う、遥か彼方に聳える雄大な山々に対しても抱いてしまう懐疑心であり、そこに挑む彼は雑念や邪念を含んだ憧れと自省を繰り返すうちに、疲れてもいたのだった。
まだ一応は若いと言われる彼が何故そこまでの拘りを持つに至ったのだろう。自分自身でもそう思うぐらいだった。単に高望みをしているだけなのか。自惚れているだけなのか。その可能性は否定出来ない。その上でも己が心情だけは、意思に反するようにして足早に前進して行くのである。何の勉強もしないままに。
雨が降った時の草は尚更強く見えた。美しさもあろうが強さが勝っていたように思えて仕方がない。命というよりは力。その力が命を育み、命が力の後ろ盾になっている。それは正に鶏と卵の論争にも似て、どちらが先に生まれたのかといった浅はかな考察で、無意味にも思えて来る。でも知りたいのが人の性であり、夢でもあるのではなかろうか。
とすればそれを見つけ出す事こそが自分に課せられた使命にも思える。とにかく小難しい性格の修司であった。目にした事物、事象全てに情感で挑んでしまうのである。無論干渉を伴わずに。それに疲れたと言ってしまえば本末転倒にして一貫性の欠片も無い事になる。だからこそ自分を見出したいのである。是が非でも自分という存在の価値を、意義を。
小学生の頃から水泳と空手を習っていた彼は、その練習の中で無意識裡に一つ思う事があった。他の練習生達はどういう思いで練習に励んでいるのかと。
普通に考えれば強くなりたい、巧くなりたいというだけだろう。或は心身共に発展を願わんと。
それにさえ疑いを持ってしまう修司という男は、或る意味発達障害者であるのか。いや、そこまでは言うまい。この年でそんなレッテルは貼られたくない。でもその可能性を薄々とも感じていた彼は、いっそ死んでしまおうかとも考えていたのだった。たとえ親不孝の烙印を押されようとも。
或る日曜日、嘗て世話になった誠仁会館という空手の道場に立ち寄った修司。親子の年の差がある館長は、相変わらずの精悍な為人を以て指南をしていた。
「オラ、もっと突いて来いオラー! セイ、セイ、セイ!」
二十人程の弟子達の中で、一際音を立てて空を斬る館長の正拳突き。もしそこに何か物でもあれば忽ちにして薙ぎ倒され、打ち砕かれているだろう。余りにも大きな声量は彼の魂の叫びともいうべく、天地に轟いていた。身心練磨の荒波を乗り越えて来た猛者だからこそ発揮出来る業なのか。この一瞬だけで戦慄が走ってしまう修司だった。
練習生達は何れも顔見知りの後輩であった。
「押忍! 押忍!」
挨拶だけでも勇気づけられる。礼節を重んじる館長の仕込みの賜物か。今組手をすればどうなるだろう。負けるに決まっている。こう思った時点で修司は既に負けているのだった。彼はそのまま傍で練習光景を眺めていた。見せかけだけの熱い視線を送りながら。
すると既に修司の姿に気付いていたであろう館長が、タイミングを計ったように声を掛けて来る。
「何やお前、そんなとこにおったんかいや、一緒にしたらええのに、何やビビっとんか?」
看過出来ぬ言葉ではあった。修司とて別に静観するつもりはなかった。ただ練習光景を眺め、そこにある何かを掴んで帰りたかったのである。それ即ち守りに入っていると言われても仕方ない。全てを踏まえた上で彼は言うのだった。
「押忍! 館長、お久しぶりです、ところで館長、最近どうですか?」
余りにも唐突で、漠然とした質問であった。流石の館長も即答は出来なかった。少し間を置いたあと、何かに閃いたように答える。
「お前も大人になったんやな、その話はまた後日しようや、俺も久しぶりにお前と酒でも酌み交わしながら、じっくりと話したいしな」
刹那的に眦に涙を浮かべる修司だった。何故涙腺が緩んだのかも自分では解らない。でも感覚的意識というものが、無意識に働いたのである。憧れ、いや違う。羨み、それも違う。懐かしさでもない。とにかく感じたのだ。館長の、そして自分の内なる想いを。
それでも酒の約束などはどうせ無かった事にされると思いながら道場を後にする修司。それにしても彼等の練習光景だけは一見の価値があったように思われる。
外の風景は晴れ渡っていた。修司の憂いなどは杞憂に過ぎないと言わんばかりに、燦然と、泰然と、誰に憚る事もなくただ澄んだ表情を浮かべながら。
歩くという行為は実に簡単に見えて、難しいものでもある。特に歩く姿勢は十人十色で、背を屈めて歩く者、肩で風を斬りながら歩く者、至って普通に歩く者。歩く姿にこそその者の性格が表れているような気もする。
自分で言うのも烏滸がましいが、修司は自身を気優しい人物だと思い込んでいた。その根拠となるものは、それこそ彼自身に内在されていた、先天的な弱さであって、その弱さ=優しいなどと履き違える事はなくとも、真の優しさでない事だけは認識していたのだった。
線が細い彼は歩く姿勢をよく注意されていた。意気がっている、肩で風を斬っている、喧嘩腰だ。そのような言いぶりは正に讒言であり、己が性格とは真逆な性質を意味していた。何故そんな事をしないといけないのか。そんなつもりなど毛頭無い。180smの背丈の割に横幅がない彼の歩き方は自然と顎を引かない、上向き加減な顔の位置を定着させ、手をブラブラと少し大き目に振ってしまうのであった。如何にも余裕綽々な感じで、大袈裟にいえば上から目線で、民衆を見下ろすように、世の趨勢を見透かしているような少し大きな態度にも見える。だから他者から見れば肩で風を斬っているように見えるのかもしれない。そんな気など全く無いとしても。
中学、高校生時分はそれが災いして喧嘩を売られた経験も多々あった。素直に買った事もある。でも四分六で負けていた。空手をかじっておきながら情けない話である。ただ彼が通っていた中学が地元では武闘派で知られたそこそこ有名な学校であった為、ケツを拭いてくれる同級生達は少なくなかった。そういう意味では温室で育てられたようなものでもある。彼は外界を知らないのである。外に向かって羽搏く事を怖れてもいた。
そんな事は社会人となった今では言い訳にもならない。同級生の中には既に結婚し、所帯を持つ者も結構居る。離婚した者も。そこに頓着せずとも、先を越されたと思わないまでも、何故か気が急くのだった。その理由も解らない。
ヤンキー上がりの彼等に対しても思う事があった。自分達があれほど暴れ狂っていたにも関わらず、今の若い子達の模範になっていないのではあるまいか。自分さえ良ければそれで良いのか。後の事などどうでも良いのか。名も無いヘタレ同然の修司が言う事ではない。でも考えずにはいられない。
そこにこそ主観と客観の絶妙なバランス感覚が蔓延っていたのだった。
蒼い空は何も教えてはくれない。ただ美しく佇んでいるだけだ。華麗に舞う鳥や蝶はどんな事を思いながら生活しているのだろうか。如何に動物とはいえ何も考えていないとも思えない。犬のように飼い主に対し従順な動物なら、その感情も伝わって来よう。自然もそれなりに心を表しているような気がする。それと比べて人間はどうだ。これだけの能力を持しておきながら、何時になっても本音を語ろうとはしなではないか。そこまでして建て前を繕う必要性があるのか。何故他者を蹴落とそうとするのか。銭金。いやそんな単純な理屈ではない。ならばその精神構造自体に先天的な欠陥、心の瑕疵があるのか。それも違うような気がする。
何故だ。何故、腹をぶち割って話が出来ないのか。その事がそんなに恥ずかしいのか。
人が生まれながらに持していた情感。それを隠す事が世間体ならば、いっそ包み隠さず、全てを表現する事でこそ自分の価値が見出されるのではなかろうか。恰好つけでありながらも恰好を度外視する修司は、半ばヤケクソにもなっていたのだった。
空手の道場に続き、プールに向かう。勿論水泳の道具などは持っていなかった。
今では少なくなったと思われる市民プール。昔はそこかしこにプールがあって、特に夏場などは年齢を問わずに皆が快活に泳いでいた。それもこれも全ては時代背景あってこその自然な流れだろうか。
見学料金を支払い、中へと入って行く。奥に進む連れて空手と同じような掛け声が聞こえて来る。
「セーイ、セイセイセイセイ、セイセイセイセイ」
このセイという言葉は無論『誠』である。つまりは誠(まこと)なのである。誠の精神を持たずして誠の行いなど出来よう筈もない。
二階の観客席から見ても、その凄まじいまでの水飛沫が目を覆う。鯖や鯵、鰯などの青物や秋刀魚、太刀魚、トビウオのような勇ましくもしなやかな、優美な泳ぎ方である。短距離の選手はグライドを効かせながらも、烈し両腕の回転で距離とタイムを稼いでいる。前進、突進するのみなのである。
彼等の艶めく身体の光沢に見惚れながら、客席では練習生の親御さんや友人、知り合い達が各々語らっていた。
「フリー100m1分切ったで!」
「凄いなぁ~」
「この調子なら国体、いやオリンピックも夢ではないやろ!?」
小学生高学年や中学生でこのタイムなら、確かにそう思ってしまうかもしれない。でもそこま愕くような事でもないように思われる。これこそがノリというやつなのか。平然と見下ろす修司は自分の世界に浸る訳でもなく、腹の中で反論していた。何が国体だ、何がオリンピックなのだと。
だが、そういう心根こそが人を夢見させるものであって、それなくして前進などは担保されないのである。
「行けぇぇーーー!」
という歓声の中に、聞き覚えのある声が確かめられた。女性の声である。その声が鳴る方向へ目を移してみると、そこには修司の同級生であり、彼の片思いながらも初恋の女性の姿があった。
思わず身を隠す修司だった。何故そうしたのだろうか。顔を合わせたくなかったのか。でも卑屈になる事を嫌った彼は、すぐ様面を上げ、思い切って彼女に近寄って行く。多少の後ろめたさはあろうとも。
そして徐に声を掛ける。
「もしかして咲樹ちゃう?」
彼女は眉をひそめて険しい表情を浮かべていた。彼女も元々活発な女性で男子からも一目置かれるような姐御的な存在であった。鋭い視線が修司を射る。失敗したと思った修司。その後、泳ぎ終えた選手達に向かって、また歓声が鳴り響く。拍手喝采して喜びを打ち上げる者達の表情は澄んでいた。
そして......。
「あぁ、修司君やったかな?」
その物言い自体には不愛想と感じた修司も、覚えてくれていた事には素直に感謝する。彼女も子供を持ったのだろうか。早くに産んだのか。いや、そんな事はどうでも良い。とにかく旧交を温めたいだけである。
「咲樹ちゃん、久しぶり、元気しとったん?」
彼女は修司の顔をまざまざと見返した後で、答える。
「何が元気しとったんやねん、相変わらず鈍い男やなぁ~」
何が鈍いのかさっぱり分からない修司だった。この期に及んで喧嘩するつもりもない彼は尚も言葉を続ける。
「で、息子さん、将来のオリンピック選手にするの?」
こう訊いた彼女は笑っていた。風格のある笑い飛ばし方に思えた。
「何がオリンピックやねんて、ただ水泳習わせとうだけやん、それにあの子は息子ちゃうで、甥っ子なんやって」
この言には多少なりとも安心した修司だった。
その後の話で理解は出来た。彼女は長兄の多忙を慮って、甥っ子をこの水泳教室に通わせていたらしいのだ。確かにそう言われればその通りだ。いやらしい話だが、彼女の身体はその外見からも子供を産んだような体形ではなかった。色気はあろうとも母の身体ではない。そんな彼女も元は水泳部出身であった。その追憶は二人をして更なるノスタルジックな気分にさせる。
彼女と出会ったのは遙かなる昔、自分史でいう所の神話の時代にも遡る。異性に全くモテなかった修司は幼馴染の健二という男と何時も喧嘩に明け暮れていた。その間に入って収めてくれていたのが、この咲樹であった。おそらく彼女は健二を好いていた。でも修司は全く妬まなかった。
その理由は単純だった。健二は眼中に無かったからである。眼中になかったというのも単純明快な話で、健二自体が子供ながらにもその場その場で態度を変える、実に調子のいい男だったからであった。
その辺の事を見抜いていたであろう咲樹が何故、健二を好いていたのだろうか。女心などは全くといって理解出来ない修司であった。単にミーハー的に、容姿だけに執着した想いなのか。それとも健二のそんな性格を愛していたのか。まだ保育園児に恋愛感情があったとは思えないまでも、感受性に豊かな女性の性質を等閑には出来ない。
彼女が小学校、中学校を地元の公立学校に通わなかった事は幸いだった。もし同じ学校に通い、自分の無様な人生を見られていたら、今でも身震いがするほどだ。それほどまでに修司の生徒時代は惨めなものであった。
でも連絡だけは取っていた。数ヵ月に一度の割合でも。その中で彼女は言うのだった。
「何で、会われへんの? 何カッコつけとん?」
修司は別に恰好をつけている訳ではなかった。自分のようなモテない男が手に出来る女性ではない。勿体ない。贅沢極まりない。謙遜や卑下する訳でもなく、純粋にそう思ってしまうのである。たとえそれが彼女を傷つけようとも。
その辺の蟠りを見越した上での彼女の言だったのだろうか。そう解釈する事も不遜に思える。とにかく異性に対し、奥手なのである。押しが弱過ぎる。同性にも言える事かもしれない。
練習生達が、目一杯背を逸らし、イルカのようにしなやかな体形でスタートを切り、水面に飛び込んだ。その見事な曲線美は皆を恍惚とさせる。
「セーイ」
咲樹は甥っ子の華麗に泳ぐ姿を括目していた。それに感化されるように、無言の裡にその情景に浸食される修司。スポーツに勤しむ者に言葉などは無意味と解釈する修司は、敢えて歓声を送らず、横目で咲樹の表情を窺がっていた。十数年会っていなかったのにその美貌は今も健在で、パッチリとした横長の眼にバランスの取れた額と目、前髪との間隔。あどけなくも、鋭い洞察力を兼ね備えた表情。まだまだ若さ漲る肌の艶。そして隠していても感じられる優しい気心。
それを瞬間的に感じ取ったのは何も修司の才ではなかった。彼女から醸し出される雰囲気全てが、無意識の裡に、修司の記憶に触れたのだった。彼が覚えている限りでは昔の咲樹そのものであった。その上でも自分などに関心を持つ訳がないと判断する修司は、席を立ち、一言だけ言い置くのだった。
「また今度お茶でもしようや、な、これ連絡先な、じゃあ」
気障ったらしい昔風の誘いであった。馴れ合いを嫌う修司は連絡先をメモに書き記して立ち去る。未だにスマホを嫌う彼ならではの所作でもあった。
ポカンと口を拡げ、そのメモを受け取る咲樹。この両者にあった異性への気持ちを掘り下げて考えるのはナンセンスと思われるが、現時点ではゼロに近いのではあるまいか。強いて推し測っても小数点が付く程度であろう。
彼女が言った『鈍い』という言葉を自惚れる事なく、自分自身の想いに投影しながら立ち去る修司だった。
結局は空手も水泳も練習は一切せず、ただ見学に行っただけで項垂れたような面持ちで街を歩く修司だった。彼は一体何がしたいのか。具体的な事は全く掴めていない。でも胸底深くに滾る熱い思いは確実に自身に問い掛けている。何でも良いから行動に表せと。
答えがない状態で行動に表す事は出来なかった。今はまだ模索している時なのだ。これは生来行動力に乏しい自分自身を認め、そして欺いているようなものだった。内なる思いが芽を出そうとした時、人はどうするだろうか。普通ならその通りに行動する者が多いと思われる。でもそれが少しでも極端な発想であった場合に感じる障壁は迷いを与えても来る。自分で思いついておきながら勝手なものである。
彼の内に蟠る、芽は出ていてもなかなか咲く事のない願いや希望というものは自分らしく生きたい、自分を見出したいという明瞭なものであった。それを普通に仕事をして当たり前のように生活しているだけでは手にする事は出来ない。スポーツでも同じで、汗をかいていれば多少なりとも雑念は消える。でもそこにも完全性などは保障されなく、忙しい仕事の最中でも常に考えずにはいられないのである。己が根柢に燻る核の部分ともいえる残留思念。その髄を。
街路に佇む樹々は美しくも整然と、ただ堂々と立ち尽くしている。行き交う人々も当たり前のように歩いているだけだ。複数人で居る時は話をしたり笑ったりしているが、独りの時は殆どの者が無表情である。彼等は何も考えずに生きているのかとさえ思ってしまう。或は自分と同じように色んな事を試行錯誤しながら、紆余曲折の人生を送っているのだろうか。
一見しただけでは理解出来ない他者の思惑。修司はそれを訊きたくはないまでも、何か信号ででも表示して欲しいとまでに飛躍した願いを抱くのだった。
人家のベランダに干してある洗濯物が清々しく風に揺れていた。結構な強さで。そこから母を呼ぶ幼い女の子の声が聞こえた。可愛い声である。修司はふとあの頃に帰りたいと思った。何も考えず、何も悩まず、ただひたすら母に甘えるようにして健気に戯れていた幼い子供の頃に。
気まぐれな風はその吹く方向変え、落ち葉を浚って行く。渦を巻きながら舞う落ち葉のお蔭で風の姿が見えたような気がした。地面に跳ね返った風は上昇して行くしかなかった。そしてまた消えて行く。
落ち葉もまた地上に舞い戻って来る。直線的に何処かへ舞い上がって行ったのではなく、円を描いてぐるぐる回っているだけなのか。それは即ち人生に於ける人の所行や思い、時代の流れと同じで、結局は回っているだけなのだろうか。とすれば今考えている事すら一時的な悩みに過ぎず、あと数年でも経てばまた変わった気持ちになるのか。それはそれで結構な事だが、やはり一貫性がないように思われる。
風が止んだ途端に街からはあらゆる雑音が消えたような気がした。全ては活動を停止したのか。いやそんな筈はない。人の話し声や車の音。自分の足音も聞こえる。時は動いているのだ。地面に映る自分の影が他人の影のように思えて来る。何故何時までも俺に纏わり付いて来るのだ。それが無性に煩わしく思えた修司は衝動的に走り始めた。恰も追手から逃れるように。
影は執拗に追って来る。陽射しが出ている限りは逃れようも無い。裏路地に回避した修司は眩しそうに光る建物の上階を仰いでみた。こんなビルも時としては役に立つものだ。自分という存在を陽の光と人混みから隠してくれる。そうだ。自分の身体、その実体などは必要ないのだ。心さえあればそれで良い。自分は何時もこのようにして影から物事を考察し、終生表舞台には立たなくて良い。裏方で十分なのだ。
正直者が申し訳なさそうに裏通りを歩く。如何わしい者ばかりが威風堂々と表通に蔓延る。という彼が尊敬してやまない或る歌手の曲のワンフレーズが胸をつく。そんな歪んだ社会構造に諍いを見せる修司。それを卑屈になる事なく遂行しようとすれば一定数でも自我というものを捨てる必要があるのではなかろうか。何のベースもない癖に自尊心だけは一人前であった彼は、自我を捨てる事なく自分を見出したかった。正に哲学的で仏教的な話にもなって来る。
それは謂わば内心と外見の関係性にして、主観の中にある客観、客観の中にある主観を見つけるようなもので、所詮は二極一対の理を表していようとも、それなりの修練を積まなければ発揮する事の出来ない業なのかもしれない。
何の経験も実績もない彼が、今それを成す事は不可能に等しい。ゼロに何をかけてもゼロという話で、たとえ那由他の位まで思考や思想を発展させようとも、実体である核の部分と行動が伴っていなければ何の成果も齎さないのである。
幼児が夢を語るのと同じで、漠然としたものではまず1という値にすら成らない。この年にしてその基盤が形成されていなかった事は汗顔の至りである。まずは1に成ろう。それしかない。
下町には不似合いな、不自然性のある綺麗な肌を見せつけるビル群。その狭間の路地を抜けて何処かあてのない目標目指して勇往邁進する修司。
ようやく西に傾きかけた太陽は煮詰まった街を、暑くも冷たい、更なる混沌とした世界観へと誘(いざな)うのであった。