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志の果てに #4

 風が流れている。人体を刺激しないよう、影響を及ぼさないようただ悠然と。夏の生ぬるい風は大した涼しさを与えてはくれない。でも吹かないよりは幾分マシにも思える。
 まだ川水の流れを眺めている方が心は涼やかになるだろう。川の細流が表すか弱い美しさ。そのような力を人が身に付け、発揮するにはどうすれば良いのだろうか。意図的にしようとすれば必ず無理が生じ、不自然に映るだろう。では自然と表すには。
 修司という人間は、正にそのような志を持っていたのだった。夢や目的に向かって勇往邁進する力強さにも一応の関心は示すものの、どちらかといえば、何事も自然裡に、さり気なく行いたい。恰好をつける訳でもなければ、他者に認められたい、褒めて貰いたい訳でもない。要は自分が満足出来ればそれで良いのである。たとえ万人に否定されようとも。
 これまでの人生で、自分が満足出来るような事は無いに等しかった。そう判断している時点で自我に執着し、物事を客観的、総体的に捉える事が出来ていなかったのかもしれない。しかしそれは自愛や自尊心を尊ぶ、あくまでも内的な心情が見せる莫迦正直な気持ちの表れであって、決して客観性を否定するものでは無かった。寧ろ自我という主観に拘りながらも、自主性や主体性に欠ける己が精神構造というものに未だ翻弄され、彷徨い続けている有様のようにも思える。
 今回の事が正にその典型であった。修司は咲樹に心を奪われたとはいえ、その本心は未だ自分でも理解し切れていない。健二の家を訪問した事などは衝動以外のなにものでもなかった。無論少々の心配はあったものの。
 つまりは何をしたいのかが全く掴めていないのである。思考よりも身体が先んじて動いただけなのであた。
 本来なら、それを真っ先に優先させるのが職探しであろう。このまま何時までも遊んでいる訳にはいかない。それこそ理屈抜きに動くべきである。男は仕事が全てなどという古い言い方も好きではないが嫌いでもないし、一理はあると思える。親孝行もしなければならない。
 健二の一件も僅かながら達成感はあった。でも何かが違う。気持ちは充たされていないのである。何をすれば気が充たされるというのか。まずはそれを見つけなければなるまいとも、そんな簡単な話でもなく、何をしても充たされる事が無い可能性すらある。
 健二の親御さんから固く口止められていたにも関わらず、咲樹にだけは真相を教える修司だった。無論どうこうしようという算段などは一切ない。
 咲樹もまるで察しであったかのような様子で、大して愕いてはいなかった。健二の家を出た時は、また咲樹に仲裁して貰ったような含羞と、僅かな悔恨にも見舞われたものだが、落ち着いて考えると道化役を買って出てしまったという更なる羞恥が自分を情けなくさせ、落胆させるにまで至ってしまうのだった。
 彼が思う恥とは自他共に認められるような性質で、咲樹に発破をかけられたような気になって行動した自分と、それを見透かしていたであろう咲樹の本音との間で錯綜してしまう葛藤でもあった。
 一々他者を干渉しないまでもそれを肌で感じ、必要以上に深く掘り下げて思索してしまうのも修司の悪い習慣に相違ない。実際人からは、
「人の考えとう事なんか一々気にするな」
「そんなに気ばっかり遣っとったら、早死にするど」
 などと言われた経験もある。自分自身そう思ってもいた。
 楽に生きて行くとはどういう事なのか。今の修司にはやはり自我を捨て去る事しか思いつかない。でもそれはしたくない。ならばどうするのか。そう簡単に出る答えでもなかろう。
 或る日、修司は日課にしていたウォーキングで、何時もより少し足を伸ばした先にある人気のない、寂寥感漂う場所に腰を下ろして休憩していた。
 砂浜が途絶えたこの場所には無数の大きな岩が敷き詰められ、歩くのも困難なほどだった。おそらくは波除に施した湾岸工事なのだろうが、大阪湾や瀬戸内海にそこまでの大波が押し寄せる懸念など無いに等しく、はっきり言って無駄な公共工事だとお上に抗する意思も常に持していた。
 遠くからおぼろげながらに見えていた人一人の姿。彼はまるで修司が来る事を予期していたかのような落ち着いた佇まいで、何ら卑屈になる事なく、海の景色を茫然と眺めていた。
 下町の義理人情や粋を尊ぶ修司はさり気なくその男に声を掛ける。強い陽射しの所為か、多少なりともその表情はしかめっ面だったかもしれない。
「こんにちは、親っさん、ここまでどうやって来たんですか?」
 年輩の男性は修司の顔をまざまざと見つめた上で答える。
「歩いてやで、それしかないやろ」
 この時点でしめた、と思う修司であった。
「この岩場を歩いてですか? 健脚なんですね、いや、恐れ入りました」
 これは決して皮肉などでは無かった。歩けない事はないまでも、高齢の者が歩くにはそこそこ難しいし危なく思われ、亦そうまでしてこのような淋しい場所を好む者の心情が自分と重なったような気がして嬉しかったのだった。
 ただ修司が抱いた嬉しさというのは、子供がはしゃいで嬉しがるような単純な、明るいものでもなく、愚痴を訊いてくれるかもしれないといった、悲観的な望みから来るもので、同士を見つけたような感じがしたのだった。
「しかしこの岩場、ほんまに必要なんですかね? 自分には到底そうは思えませんけど」
 男性は尚も修司の顔を凝視してから答える。
「ま、はっきり言うて要らんやろな、税金の無駄遣いやろ」
「そうですよね、こんな浜に津波なんか来る訳ないですしね」
「あんたもウォーキングか、ご苦労なこっちゃな」
「はい、最近運動不足なもんで、ちょっとでも距離を稼ごうと思ったんですわ」
 その後も当たり障りない、世間話などをして時を過ごす二人。修司の喜びが不安へと変わったのは何時ぐらいからだろう。その男性の優しくも厳しい目が、修司の内心を見透かしているようにも感じられ、若干の恐怖へと変化するのだ。その恐怖も単なる身の危険を感じたが為の恐怖ではなく、自分が調子に乗って、その自分だけの浅はかな持論に依って他者を上から見てしまうかもしれないといった内省から生じる恐怖心であって、考え過ぎるが故の彼の弱さの根源を示してもいたのだった。
 俄かに荒れ始めた波。浅瀬には何かよく分からない鳥の群れがその波動に依って高く飛翔する姿が映る。鳥達も明らかに怖れているのである。自然現象に対して。
「ところであんた年なんぼや?」
「今年でちょうど二十二です」
「何がちょうどやねん?」
「二で割り切れるからです」
「なるほど、で、ほんまは?」
「三十ちょうどですわ、いつの間にかね」
 男性は少し間を置いてから口を開いた。
「三十やったらまだまだこれからやんけ、あんたには若さがあんまり感じられへんな、わしらの頃はみんなもっと若々しくしとったで」
 このような事は言われ慣れていた修司だった。十代、いやそれ以前から同級生やその親御さん、先生達からも、もっと元気を出せと。
 その当時はこんな言われ方が嫌で仕方なかった。なにもそこまで言う事はないだろうと。自分もそれなりに生きているんだと。
 しかし同じ事を親に言われた時だけは流石にショックを受けた。親の言う事にだけは実直に従う癖がついていあからである。それは即ち真実であり、如何に修司が舌先だけで抗おうとも、極端な話、親を殺そうとも決して覆す事が出来ない不変の原理性を表しており、仮に親との争いに勝ったとしても心が充たされない事は十分理解出来てしまうのであった。
 先を見越した上での会話。仕事でもあるまいし、そんな虚しい、理路整然とした形だけの会話ほど虚しいものもないだろう。
 ただ彼は上辺だけの同調を望んだのではなく、心の同士、つまりは自分と同じような考え方をしている者が少なからずこの世には存在する筈だ、という現実をその目で、その肌で、その身体で、その精神で、今ある心で実感したかっただけの話であった。
 その為ならどのような諍いに発展しようとも良いのである。それさえ遂げられれば今直ぐ死んだとしても。
 男性から訊いた事の中に真に心を動かしてくれたのは、
「その気持ちを持ち続ける事やな」
 この一言だった。
 これといって気の利いた事も言えないままにその場を立ち去る修司は、内心恐縮していた。初対面でありながらも、こうして長々と愚痴を訊いてくれた事に男性の優しさに対して。
 静穏を取り戻した戻った波の情景は、そんな修司に一時の安らぎを齎すのであった。

 自分で言うのもおかしいし烏滸がましいが、己が歩く姿を彷徨い人と捉えていた修司は、何時まであてのない旅に甘んじているのかと焦り、苛立っていた。
 さもあろう。その年にして仕事もせず、ただ太公望のように有りもしない余裕をカマしながら生活する様は、他者から見れば生きる事を諦めた、生きる屍のようで、辛うじて息をしているといった、悪い大人の見本と思われていたかもしれない。
 それを世間体を気にする事なく、一番心配していたのが他ならぬ母親であり、未だ親孝行が出来ていない修司の焦燥は増すばかりであった。
 それでいながら、拘りだけで成り立っている志だけは未だにその姿を厳としてその身に内在されており、それをどうあっても形つけたいという思いは彼の弱い精神性に反するように、逆に地中深くに形成されたマグマのように生半可な事では、いや、天為を以てしても消し去る事が出来ないほどの強固な力となって、彼自身に襲い掛かって来るのだった。
 家の中で仙人のように思想、瞑想に励む息子に母は言う。
「あんた、毎日何を考えとん? 道場でも行って八田先生に指南を仰いで来たらええねん、あの人やたら何か知恵を授けてくれるんちゃうん」
 これも親子の間柄の為せる、逃れようのない宿命(さだめ)なのか。全く同じ事を考えていた修司は、その行動力の無さから母に背中を押されたような、後ろ髪を引かれるような気になり、今更ながら親というものの偉大さを知るのだった。
 空手を習っていたといっても僅か数年の話で、何とか手にした初段という位も、彼にしてはあくまでも形式的で表面上だけの事物でしかなかった。
 館長と飲みに行くという約束から早や数ヵ月。あてにしていなかったとはいえ、自分という存在が軽視されたとすれば、それなりの憐れみが芽生え、館長に対し山をかえす気などなくとも、世間の目という完全性のない概念が、弱くも強い力で想定内の無機質な孤独を与えて来る。
 相変わらず電話が嫌いな修司はまた道場へと足を運び、その練習風景を無心になって眺めていた。館内に木霊す烈しく強い、周囲に喚起を呼びかけるような掛け声は、その強烈な気迫で自他を圧倒し、繰り出される拳に宿る魂と身心一如の光の輝きは人間が表す事の出来る最大限の力を包み隠さず放出していた。
 二階の窓から差し込む陽の灯りが脆弱に見える。目を逸らす事も憚られる。この状況に於いて修司が出来得る最大の努力とは何だろうか。皆と同じように声援を送るだけか。このまま無心に徹し、その光景の中にあるかもしれない真実を見抜く事か。後者はまだ無理に思える。無理に決まっている。
 道場の片隅で一人の若い練習生が、その小気味良い体型の流れで、空手着を奮わせながら、
「はっ! はっ!」
 という咆哮を上げながら型の稽古に勤しんでいた。
 美しく洗練された技。繰り出される手足の動きには寸分の隙もない。動物のように素早くしなやかに躍動する連舞。それを瞬時に肉眼で捉える事は難しかったが、美しさだけは伝わって来る。
 空手をかじっただけの修司にはとてもじゃないがこのような真似は出来なかった。その練習生は何を考えながら舞い続けているのだろうか。完全に無心に成り切っているのか。そうでなければ出来る芸当ではない。
 心を奪われ茫然としている修司の目には何も映らなくなってしまった。
「押忍、確か修司さんでしたよね」 
 誰かが語り掛けて来た。ふと我に返った修司の前に居たのは型を披露してくれた者だった。面識すらない彼は何故修司の名前を知っていたのだろうか。その澄んだ目付き、精悍ながらも礼儀を重んじる為人。男同士であってもつい見惚れてしまう。
「凄いですね、感動しました」
「有難う御座います、まだまだですけど、貴方の事は館長から伺っていたんです」
 そうですかと頷いた後、修司には話すべき事が何もなかった。練習生は会釈をしてニコっと笑みを零して立ち去った。完全に負けを悟る修司は、この場がもはや違う世界のように感じられた。何故俺はこんな所にまた来てしまったのだ。一体何をしに未練たらしく。
 

 
  
 






 
 
 
 






















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