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志の果てに #9

 治に居て乱を忘れず。小規模ながらも、今回の訪問ではそこまでの覚悟をしていた修司。
 如何に幼馴染とはいえ健二とは喧嘩ばかりしていた間柄で、約十年も会っていない。この状態から思索するに、普通に考えれば修司のとった行動は馬鹿げているだろう。健二の親とて、修司の事を内心訝っていたに違いない。こう判断する時点で、修司も亦客観的思考は持ち合わせていた。
 だが、その中にある、いやそれも含めた自意識という感覚が素直に働いたからこそ今、ここに立っているのだ。悔いはない。
 間を置いて二回目のインターフォンを鳴らした時、部屋の中の音が聞こえたような気がした。健二が居るのだろう。
 そのまま待つ事5分。いよいよ健二は出て来た。愕いた様子は感じられない。もしかすると母御から訊いていたのか。
「......あぁ~、お前か」
 その物言いには全く元気も覇気も無い。容姿は以前のままスラっとした体型を維持していたが、表情は死んでいる。こんな顔つきで仕事が出来るのかと思うぐらいだ。その眩しそうに、無理に、嫌々ながら見開いたような目つきに一切の輝きを失った瞳の色。髪の毛はボサボサで何日も洗っていないように見える。元々少し痩せ形ではあったが、頬がこけた事で一層引き立つ顔に現れる影が、この暑い陽射しの逆光に依って絵に成らない醜さを顕著に表し、それが彼の心の翳を造っているようにも映る。
 これだけで言葉を失ってしまった修司は、敢えてそのままの状態で健二の目だけを見つめていた。このような状況は男女の逢瀬でも余り見かけない光景だ。
 自分は一体何をしにこんな所まで来たんだ。そんな感情が両者の間に燻っていた。
「取りあえず話出来ひんか?」
 徐に発した修司の言葉は理屈抜きに健二を安堵させた。本当は何も訊かれたくないし、話す事もなかったろう。それが修司の純粋な心にでも触れたのか、何故か自分も素直になろうとした健二であった。
 部屋に上がる事を憚られた二人は、暑い中、外に出て少し歩き始める。健二の足取りは案の定重く感じられたが、心持明るく見える表情は気のせいだろうか。
 人混みを避けるようにして歩いていると、街の片隅にある寂れた喫茶店の看板が見えて来た。修司は此処だと思った。
 何も言わずに先んじて店に入って行く修司。健二はただ促されるように自然に追従して入って行く。こんな様子も以前の二人には考えられないシチュエーションだった。
 その店は年老いた男のマスターが一人で切り盛りしているみたいだった。これも好都合に思える。真昼間には窓際の席にすら強い陽射しが降り注ぐ。だがそれが却って今の愁然たる二人の雰囲気には功を奏するように思える。
 個性を顕現させていた健二は、相変わらず後ろからついてくるように、修司の後で、同じ注文をするのだった。胃が弱い修司が頼んだ紅茶は本来健二が嫌っていた飲み物で、保育所に通っていた頃などは、
「紅茶なんか女の飲みもんやろ」
 などと嘲笑されていた修司だった。
 世は人に連れ、人は世に連れというありきたりな、尤もらしい文言も、人に依って変化を齎す、胸に沁み入る情感は特に際立つものがあり、この十年という歳月が表す二人の間だけで見るそれは、今の二人の、摩訶不思議な感覚に僅かな波紋を浮かび上がらせる。
「昔はこの紅茶で.....」
「それ以上言うなって」
 修司の言葉を遮って出た健二の意思は、心の波紋に優しい光を投げかけた。30歳という年齢が感じさせる、若気の至りから脱した、少し大人びた情感だろうか。それよりも嬉しかったのが紅茶の話を覚えてくれていた健二の記憶力だった。その記憶力には明らかに修司を懐かしむ気持ちが蔵(しま)われてあった。
 自分の事を覚えていてくれた時に、つい喜んでしまう人の感情というのも不思議に思える。やはり人間の主観というのはあくまでも自我に執着する事で発揮される思いなのだろうか。
 なかなか本題に入る事が出来ない二人は、紅茶をゆっくりゆっくり飲みながら窓外の景色を眺めていた。余り車は走っていないまでも、道路が陽炎のようにぼやけて見える真夏の光景は、冷え切っている二人の情念に火をつけない。こんな時に限って自然の力は働かないのだろうか。
 そん歪んだ風景が羨ましいぐらいだ。二人は会って既に数十分が経つ今まで、まだ笑みを全く零していない。顔が引き攣って来る思いだ。そんなぎこちない二人の様子を遠くの席から眺めていたのか、店のマスターが一言放つ。
「紅茶おかわり注ぎましょか?」
 ゆっくり飲んでいたとはいえ、もう半分以上を飲んでしまったカップは淋しく笑っていた。早く注いで欲しいと言わんばかりの表情で。
 本題を切り出そうとした修司の口が開く。
「......」
 まだ声を出していない、この刹那的な空気の流れの、ごく微細な隙を突くようにして健二が口を割った。
「お前の狙いは何やねん? 俺なんかの事を一々心配してこんなとこまで来たんか? それとも咲樹の事を気遣っとんかいや? 何れにしても相変わらずのヘンコ(偏屈者)やな~」
 変わり者である事は修司本人が一番理解していた。自分という存在を特別視するつもりなどさらさら無いまでも、その変わった為人こそが個性だと思い込んでいたのだった。
 健二の言った事は半分合って半分は間違えていた。その何れでもあり何れでもないのだ。つまり修司に言わせれば、健二の思惑は浅い事この上なかった。何が浅いのか。それはこの期に及んで心で話をしていないと思う修司の繊細な心根がそう言って憚らない。逆に言えばそこまで深く考えている修司という男を今にしてまた嫌ってしまう健二。
 修司は何をどうしろといった願いなどは持っていない。ただ健二の真意を知りたいだけだった。そのような事を一度会って話をしたぐらいで掴める道理はない。でもその端緒だけでも知りたい。そこに触れる事も余計なお世話なのだろうか。礼を欠いているのだろうか。
 結局おかわりをせず店を出る二人だった。両者の思念は流れる雲のように空を駆け巡り、やがて消え去って行く。お節介とはいえ、どうあっても真実は探り当てる事が出来ない、いや始めから無いのか。
 最後に手を出し握手をしてくれた健二の優しさだけは有り難く思えた。

 仕事が暇であった修司は一晩宿に泊まって、翌日帰郷した。東へ向かうと同時に感じる、暑さが和らいで来る感触が、外国を旅行した時のような時差ぼけを覚えていた。井の中の蛙で生きて来た彼には尚更であった。
 肌で感じる僅かな気温の差異が、少しづつでも健二との間柄を癒してくれるようだ。感情的にならなかった二人も、その胸に込み上げる激した思いだけは厳然と存してあり、それを内面で抑え込む事が出来たのも、両者にあった懐かしさの賜物で、言わずもがな、そうした事象は人間生命に大いに役立っていると思えて仕方がなかった。
 さりとて咲樹に渡す土産話が何一つない事も悔やまれる。健二の母御に対しても同じだ。そんな悔恨は他者にだけではなく、寧ろ修司自身により多く感じられた。
 それが更なるお節介でお人好しな志を育む。後回しにした義久はどうしているのだろうか。少ない貸し金などはどうでも良い。彼は改心したのだろうか。
 こんな短期間でする筈がない。義久はまた誰かに無心しているに違いない。今にも電話を掛けて来そうな惧れもある。
 義久の悪癖はただ憂う、哀れむに値するのではなく、それなりの面白さも持ち合わせていた。社会人になって十年余。この間、彼はたったの一度もまともに一ヶ月分の給料を貰った事が無いと言うのだ。
 一月欠かさず前借りをしていたらしいのだ。その上遅刻早退、無断欠勤を繰り返し、ボーナスなどは殆ど無かったという。
 他人事ながらも情けなく思う修司。高校生時分のアルバイトの面接では、
「前借りお願いします」
 と、いきなり金を借りようとする義久の無神経な所業はそれこそ羨ましく思える。無論金を貸した会社は一つもなかったらしいのだが、そこまでの戯言を放てる義久の性格そのものが滑稽にも羨ましいのである。
 何故彼はそこまで自分という存在をアピール出来るのか。たとえ褒められた事ではないまでも、完全なほどに自我に執着しているのである。
 自分と義久の性格を対比した場合、その自我は明らかに義久の方が勝っていると考える修司。自分のお節介な性格などは所詮お節介なだけで、決して人の役に立つようなものではない。しかし義久の自我というものは常に自分本位な思考に依るもので、他者の気持ちなどは眼中にも無い。言うなれば自己中心的な性格を完全に近い状態にまで高めようとしているとも思える。
 複雑に考える事を嫌わない修司はその勢いだけで義久に連絡を入れる。素直に出向いて来た義久。今二人の間にある軋轢は、明らかに形を為し始めていて、悍ましい情景がその胸に湧き上がって来ているのを感じる。
 義久の家を訪れた後、暗黙の了解で港へと足を進める二人。陽が沈み切らない海の黒く澱んだ色が、禍々しく波打っている。沖に向かい飛翔する鳥の羽搏きが、何か恐ろしいものから逃げて行くように見える。係留された船の軋む音も耳触りだった。
 この醜には一切の美が感じられない。美は悠久の果てにでも遠のいてしまったのか。浜辺で焚火をしている者の姿が如何にも悪人に見える。
「ところで義久よ、お前何時になったら金返してくれるんや? あれからもう大分経つやろ、ええ加減せんと俺も怒るでな」
 思いの丈をそのまま言葉に表した修司の神妙な顔つきは、この海の情景をして更に真実味を増していた。
「何や、今回はえらい早いやんけ、大分言うてもまだ二週間ぐらいやろ?」
 この誠意の欠片もない物言いに激昂した修司は、義久の顔を思い切りぶん殴った。初めて義久に振るう暴力だった。
 自分が放った強気な言葉とは裏腹に踵を返し馬脚を露す義久。
「ちょっと待ってくれって! 誰も返せへんとは言うてないやん、マジでごめんて! 俺が悪かったって! 勘弁してくれって!」
 このような戯言(ざれごと)は修司の耳にはまるで届かない。逆に怒りに火を注ぐだけだ。金の話が二の次と考えていた彼が願っていた事は、義久が面と向かって拳を上げる事に尽きていた。
 それがただ平謝りするだけで、一向に男らしい果敢な姿を見せようとはしない。自分みたいなヘタレ丸出しな人間にビビる義久の有様が許せない。これでは弱い者虐めをしているようではないか。それだけは是が非でもしたくはない。修司の思いはまたしても空回りするだけだった。
「もうええわ、帰れや」
 諦めの言葉を告げた修司の顔をまともに見る事も出来ないまま、立ち去って行く義久。彼の背中は何も物語っていなかった。単なる一つの画にも成らない事物が動いているだけである。弱者というよりは、元々の強者が自分よりも弱い者に背を見せ、致し方なく逃げて行くような光景だ。獰猛な犬に負けた野生の動物という所か。
 だが決して強くはない義久の背中は、只一つの淋しさのようなものも投げ掛けていた。それこそが彼の本心なのだろうか。
 影を造らない義久の姿は、一瞬にして消え失せてしまった。後を追う事など考えられない。追って行った所でこれ以上は話す事もない。
 岸壁で独り黄昏る、修司が表す雰囲気は切実なまでの悲しさや虚しさを物語っていた。これは演技ではない、真の、日常生活の中で表される情景で、その心の赴く先にある、己が人生を儚む憂慮は、まだ遂げ得ぬ志を恰も揶揄するかのように修司の精神を周到に凌駕して行く。
 項垂れながら家に帰った彼の飲むヤケ酒は苦かった。酒がこんなにも苦く感じられた事も久しく思える。はっきり言って喉を通らない。部屋の窓ガラスを割ってしまいたい衝動にさえ駆られるほどだった。
 そこに母の声が鳴り響く。
「修司、さっき咲樹ちゃんが来とったで」
 俄かに昂るこの心の変容はどうした事か。咲樹が家に来た。何を思って、何をしに。思案の内に答えは見当たらなかった。
 とはいえ、今の心境では彼女に合わせる顔もない。どのようにして人に会う雰囲気に転じれるだろう。もっと酒を飲み莫迦になって、自我を捨て去るか。或はこの状態のままの方が良いか。
 案ずるより産むが易し。何の答えも見出せぬまま、顔だけは一応洗って家を飛び出して行く修司であった。
 
 
 



























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