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志の果てに #5

 結局は館長に会わないまま道場を後にする修司であった。何故合わなかったかは言うまでもない彼の弱さに由来する贅沢な淋しさと、憧れに依る傷心から来るもので、前回といい今回といいとてもじゃないがこのままでは合わせる顔がないと、自分を卑下し続けていたのだった。
 家にとんぼ返りするのも気が引ける。プールに行くのも気が進まない。致し方なくまた海岸線をウォーキングし始める。歩いてさえいれば彼のメンタルは何とか保たれるのであった。
 草と同じく一年中咲いている松の樹。何故松は海に会うのだろう。陽に照らされ乾き切った樹皮が刺々しく感じられる。でも見事な曲線美で長く伸びた松には松竹梅と言われるだけの日本的風格が滲み出ていて、とにかく画になる。そう思いながら眺めていると如何に写実的に描かれた有名な風景画よりも、遙かに美しく見える。
 現実は勝る芸術など存在するのだろうか。今の修司にはその肉眼で捉えられるものが全てであった。
 地面に転がっている松ぼっくりを、子供のように蹴りながら歩く修司。石ころと比べると、独りサッカーのドリブルをしているような気持ちになって、心が弾む。そのまま足取り軽やかに進んで行くと、いつの間にか松ぼっくりは砂浜に消え去り、眼前には陽炎のようにも涼やかに佇む一本の真っ直ぐな道が現れた。
 見渡す限り真っ直ぐなその道には人影すら見当たらない。さっきまで居た数人の人達は何処へ行ったのだろう。たまにはこんな事もあって良いような気もする。余り人が好きではない彼にとっては好都合であった。
 何時もなら左側を申し訳なさそうにも堂々と歩く修司も、この時ばかりは誰憚る事なく、道のど真ん中を我が物顔で歩くのだった。過ぎ去る景色よりも先に映る、未だ見ぬ将来が気をそそる。
 風の音が優しく感じられる。砂を浚う訳でもなく人体を攻撃する訳でもなく、ただ気ままに、静かに、悠然と吹いている。そこに割って入る微かに聴こえる、穏やかな波音。何かに触れたり当たったりする事なく、単体で音を立てる自然現象というものは素晴らしく思える。二つの優美な音は互いを敬遠しつつも無意識の裡に融合し、切なくも可憐な典雅なハーモニーを奏でていた。
 そんなBGMを聴きながらするウォーキングは最高だった。雑音など何処からも聴こえない。邪魔な障害もない。あるのは己が心と美しい音だけ。一時目を瞑りながら歩いてみた。もし道から外れ落ちても本望であった。
 強烈な陽射しの所為か暗闇は訪れなかった。明るい空間で目を瞑った時に感じる明暗の妙。明るさの中にある暗さと、暗さの中にある明るさの絶妙のバランス感覚はそれだけを以て人間の五感の悉くを研ぎ澄まされた刃物のような、尖った、洗練された意識へと誘(いざな)い、そして自分では感じ取る事が不可能ともいえる、忘我の境地を発芽させて行く。
 起きたまま、歩いている最中に夢の世界へと吸い込まれて行く感じがする。脆弱な風は相変わらず頬を刺さず、僅かに聴こえていた音も今にも消え失せて行きそうだ。それと同時に力を失くして来た意識。もはや風前の灯火か。今目を開ければ元の世界に戻る事は可能だろう。でも自分の思念にも勝る辛うじて働いている意識がそうはさせない。
 二重人格ではなく、本心が表す二極性。これを完全に分離する事はそれこそ不可能であろう。言うなればその二つは常にプラス極とマイナス極に位置し、相反作用などは起こしようもないのである。
 目を開けられないのであれば、せめて口を開いてみるか。少しだけ開いた口から舌で空気を味わってみた。無味乾燥仕切った空気には何の味も感じられなかった。でも美味しい。目一杯吸い込んで腹の底まで入れたあと、吐き出す息は少なく侘しかった。
 このほんの一瞬、一呼吸の児戯にも等しい所行の中で修司には一つだけ理解し得る事があった。自分の意識というものは常に極僅かな量感の中で働き続けていて、微細な攻撃に対しても受け身を取る事は難しい。いや忽ちにして崩壊してしまうかもしれないほどの非力さである。しかしそれは即、弱いという事にも繋がらず、打たれ強さは無いまでも強風に吹かれながら揺らめく旗や、烈しい潮流のなかでも必死に泳ぐ魚達、或は強者から逃れつつも己が生き延びる道を模索し、見出し、か弱くも健気に生活を遂行せんとする野生の動物。それら衆生の営みというものは当然人間社会にも通じ、たとえ紙一重であろうとも強弱の関係性にある真理とは必ずしも強者が勝つという結果は齎さず、紙一重であるからこその、強靭な壁という役割が自ずと発揮出来ているからこそ成り立つ真の、理想的な世の中であるとも思われる。
 今感じた風と音の関係性も調和や同化ではなく融合。修司の内に閃いた意識もそれら自然が与えてくれた完全性には達しない融合間隔そのものだった。この融合というものの中にも軋轢を介さない諍い、戦いが存していて、言うなればお伽噺や童話のような白馬の騎士同士が勇敢にも美しく戦闘を繰り返していたのだった。
 無論その裏側には凄惨な情景が内在されている。でもそれを美しく表現する所にこそ偽善を伴わない芸術性があり、人の逃れ得ぬ憧憬があり、亦、どうしようもない宿命的な性(さが)があるのだった。
 修司が感じ取った事を一言で言い表すと無なのであった。生きたままに感じられた無。たとえ瞬間的であろうとも無の存在は実に大きく、これから先に感じる事は二度とないような気もしないではない。
 歩き続ける彼の意識は高くも低くもない、ただ在る、だけの話であった。
 目を開けて確かめた海の風景はやはり美しかった。俄かに曇って来た空は白い砂浜を灰色に、海原の黒く染め始めていたが、決して醜くは感じない。逆に強い陽射しから解放された地上は喜んでいる。一時の風雅な落ち着きを与えられたかのように。

 ウォーキングの帰り道で修司は或る寺に立ち寄った。幼い頃から幾度となく訪れていたこの須橋寺。真言宗須橋寺派の大本山であるこの寺院がある山には標高こそ低かれ、やはり崇高で聖らかな、霊験あらたかな雰囲気が漂っていて、そこを訪れる者、特に修司のような繊細な人物はその門前に立つだけで寺と山が放つ威厳に襲われ、亦、感銘を覚え、思わず息をのみ身震いするのだった。
 敷居の高さは嫌いであれとも、その風格が表す空間にある格式ばった雰囲気は大いに好む所であり、先程の夢想から良い意味で解き放たれた彼は、何ら恥じ入る事なく境内へと歩みを進ませる。
 欅に榊、その他様々な美しい樹々が屹立する参道を歯で噛み締めるように味わいながら奥へと進んで行く。
 榊の葉が表す濃緑色は、正にご神木としての荘厳な面持ちを浮かべながら、見る者に厳しくも柔和な優しさを投げかけていた。それを素直に感じ入り、自らの力に変換出来ればどれだけ頼もしい人物に成れるだろう。そんな甘えた夢を見ながらも、何も悪い事をしていないのに、自省を試みてしまう相変わらずの修司であった。
 この寺にはもう一つの名所ともいうべき古い歴史があった。平家物語で有名な源平合戦で無念にも敗れた平家側の若侍、平敦盛や敵将熊谷直実の銅像、その戦を後世に伝える資料などが多く祀られてあり、歴史好きな修司にとっては仏教と併せて関心をそそられるこの上ない場所でもあった。
 若干十七歳で他界した敦盛の心中や如何に。時代背景を踏まえた上でも夭折という響きにはただただ哀しくなってしまう。でも武士の意気地を示したという一点では哀しむばかりでも事済まされなく、かといって見事だといった上から目線で捉える事も憚られる。
 敦盛の死は美しかったのだろうか。その場に居た者でもない限り、当事者でない限りは想像しようもない。
 修司の持論としての武士の情けというものは、決して投げやりではなく、あくまでも潔い覚悟という解釈であった。それを現代社会に当てはめて考察する事は不可能に近いと思われる。この治世に於いて、如何な志や思想信条を持していても、自刃(自殺)や命を粗末に扱う事は、それ即ち悪と見做されてしまうのだ。
 さもあろう。何も起きていないのに自ら命を絶つ事ほど愚かしい行為はない。親は勿論、天に対しても顔向け出来る所業ではないのだ。
 ただ、生きる事にのみ執着するという話になって来るとまた別で、生死という事象、原理性というものはやはり二極一対の理を表しているようにも思える所があり、生あってこその死であり、死あってこその生とは言わないまでも、死という最期を覚悟しなければ生そのものが生まれないのではあるまいか。然るに死を覚悟するとはいっても、死を意識するという意味合いではなく、まして死を願う訳でもなく、美しい死を創造し、そこに向かって邁進する事に依ってのみ、真の生が姿を現すとでも言おうか。要約すると二極一対という定義は常に二つの事象が互いを担保する形で成り立ち、一方だけでは事成し得ない、或る意味では不器用な、また或る意味では器用な作用を象っていて、衆生の赴く気持ちとは別の所で働き続ける最大限の感覚的意識が本人には知られないままに活動を始めており、その根源を突き止め、それを停止させる事は完全に不可能であるという一つの法則性が浮かび上がっても来る。
 知性に乏しい割に難しい事を考えずにはいられない修司は、その人間生命に根差す根源を、一気に確かめはしないまでも少しづつでも学びたいとは思案していたのだった。
 歴史資料館では合戦絵巻や人形で造られた武将が、各々の形姿、形相で躍動していた。その中にある一点だけを凝視していると、自ずと心を身体が動き始め、さもその時代に生きる一人の武将になったような錯覚に陥ってしまう。修司が好きな武将は多々あったが、源平の動乱期に焦点を当てるとやはり、いや何れも好きであったに相違ない。
 強いて答えを出すのも難しい。彼等の生き様自体に感服するのであって、一武将という次元の話ではないのかもしれない。
 つまりは心なのである。志、心意気、心根。それは人間が誰から教わった訳でもなく持って生まれた先天性のある情感と同じで、それ無くして人が、いや衆生が生きてその命を全うする事は出来ない。
 ならば全うし切れなかった命は何処に誘われ、何処を彷徨い続けるのか。死後の魂が落とされる場所は仏教的で哲学的な話になり、またまた修司には理解出来る筈もなかった。
 一階にある資料館から二階に上がり、商いに従事する僧達のとても僧侶とは思えない、締まりのない彼等の笑みを不遜にも憂い憐れみながらその棟から離れ、壮大な山々を仰ぎながら喫煙所で一服する修司。煙草から発せられる煙が靄となって天を覆い始める。自分の中だけにある天の存在は、その一寸の虫けらの惰弱な身体を以てしても、自分自身を凌駕するだけの力は一応持しており、淡く消えゆく煙が物語る水泡にも似た波紋は、そのままの状態で自分自身に還って来る。
 多少落ち着きはしても、心に蟠る追憶を含めた悔恨はちょっとやそっとでは滅し切れない。だが滅し切れないまでも何れは消え失せて行くのである。美しくノスタルジックな想いとして。
 榊の枝葉が優しく微笑んだような気がした。まるで笹の葉のように悠然と風に靡いているではないか。これも錯覚なのか。
 幻覚と現(うつつ)の狭間で翻弄する修司。彼はその繊細とは言い切れないまでも、少なくとも神経質な気質を逆手に取って、新たなる夢を、独り描き始めていたのだった。
 
















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