見出し画像

幻の憧憬  #6


#創作大賞2022


 校庭には綺麗な紅葉が咲いていた。褐色に近い黄を下地として所どころに赤を鏤める葉の色は、一見センスのない脱色された髪の毛のように見えなくもなかったが、そんなものとは比較にならないほどの美しさを湛える紅葉は、優しい風に吹かれながら哀愁の情を漂わせていた。
 僅か一二ヶ月前に終わった夏休みが遠い昔に思える。それは休みが明けて登校や出勤をしなければならない気鬱や日常生活自体に対する嫌悪感、必要以上に過ぎし日の事を懐かしんでしまう英昭の脆弱な心から来るものであったが、今を精一杯生きていないからこその悔恨である事を認識しながらも、時の流れを早く感じ、世を儚んでしまう気持ちだけはあくまでも正直な紛う事なき本心であり、或る意味ではそんな自分に酔っているような感もあったぐらいに思える。
 切ない表情で、紅葉の葉に己が心情を重ねるようにして、窓外の景色をぼんやりと眺める英昭。皆に気付かれぬよう窓を少し開けた時の肌に感じる空気の冷たさは気持ち良かった。そして徐に黒板に顔を向け直し、授業に臨もうとすると、斜め後ろの方から無言の気配を感じるのだった。
 わざわざ振り向く事も憚られたが、静かな空間の中にその気配は理屈抜きに際立っていて、なるべく顔を動かさないよう目だけを向けると、女子生徒の一人がこちらに軽く手を振っているような姿が映った。
 錯覚なのかもしれない。たとえ真実であろうとその方向に顔を向け、ましてリアクションを取るような勇気がある筈もない英昭は、動揺しながらも前を向き、真面目な態度を装うしかなかった。
 休憩時間になっても同級生達と絡む事もなく、独りボケーっとする英昭。彼は相変わらず刺激を受けないような事には一切関心が持てなかったのだが、日々の生活の中でそう起きる訳でもない有事を希むその思惑は、他者に顰蹙を買う惧れのある、悍ましい我欲へと発展する可能性もあるだろう。
 だが裏を返せばその刺激を良いものとして、自分で齎す事が出来れば是非はともかく周りを楽しませ、自分自身も退屈せずに済むとも思われる。
 要は自主性である。自主性を持たずしてこれ以上の進化はありえない。そう確信する彼は四時間目の授業を終え、昼食を摂ったあと、図書室へと足を運ぶのだった。
 広い校舎の中に結構歩かねば辿り着けない図書室。片道だけでも数分は掛かるだろうか。歩く事自体は好きな英昭も時間が気になって仕方なかった。何故ならこれからその刺激を求めて自主的に行動しようと画策していたからである。
 さして読書が嫌いでもなかった英昭は以前からもたまに図書室を訪れ、雑誌や新聞、小説などを好んで読んでいた。特に小説、中でも純文学には目がなく、その語彙力、文章力の巧みさ、芸術性のある文面、文体にはいくら博学多才な作家が執筆した作品とはいえ深い感動を覚え、己が浅学菲才も顧みずにまた健気な憧れが芽生えるのである。
 でもその憧れはこの前のヤクザ、いや任侠道への憧れと同じく叶わない夢として彼を傷心させてしまう。
 ただそれは他者を妬むものでもなく、自分を悲観する事に終始していた。妬みがないから反動する気概も生まれなかったのかもしれない。
 だが今俄かに芽生えた野心は油断は出来ないが、成就する事はそこまで難しくもないのではないか。そう判断する英昭は彼女が居るであろう机に向かって、無心になるつもりで進んで行く。
 案の定彼女はそこに坐って本を読んでいた。真正面に坐る事を怖れた彼は敢えて隣に坐り、前を向いたまま、さり気なく語り掛ける。
「宮田さん、こんにちは、本が好きなんやね」
 彼女は黙ったまま、怪訝そうな表情で英昭の方をちらっと一瞥すると直ぐ様顔を背け、そのまま読書を続ける。
 気に障ったのかと訝る英昭もその気恥ずかしさから席を立つ事に躊躇いを覚え、暫くは黙ったまま一応手にしていた本をその場で読み始める。
 その本の内容は恐らく恋愛ものだった。それを嫌う彼には以前少し読んだだけで本棚に返してしまった記憶があったのだが、その本を今また手にしてしまった理由は自分でも解らなかった。
 この小説も純文学に入るものなのだろうか。確かに素晴らしく理知的な文章で、繊細な情景描写からは作者の非凡な才能と該博な知識、豊かな感受性が滲み出ているようだ。
 一時的にも隣にいる彼女の事を忘れ読書に没頭する英昭。だがここで小説にありがちな難読語が彼の集中力を妨げるのだった。
「彼女の婀娜姿に恍惚とした表情を浮かべる俊夫」
 どうしても婀娜が読めない英昭は、その固まった状態のまま微動だにしなかった。物事を順番通りにしか進める事が出来ない不器用な彼はそこだけを飛ばして読書を続ける事は出来なかった。とはいえ調べるのも面倒で、どうせ面白くもない小説だから辞めるかといった短気さえ起こす始末で、救い難い性格でもあった。
 そんな英昭の様子を無意識に感じ取った隣に居る宮田は、優しくもサバサバとした雰囲気で口を開く。
「何してんの? 考え事?」
 英昭はその言葉を額面通りに受け取り真面目に答える。
「そう、考え事」
 まだ閉じていない英昭が手にする本のページに目を向ける宮田は、微笑を浮かべながら言葉を続けるのだった。
「あんた、字読まれへんかったんやろ?」
 照れ笑いで誤魔化そうとした英昭は汗をかいていた。それは単に字が読めない事だけではなく、彼女が思いの外喰いついてくれた想定外の所作に動じたからであり、女性に対して奥手であった彼には尚更であった。
 少し顔を近づけて真剣な眼差しで本を読む彼女の姿は男心をくすぐった。仄かに漂う甘美な香りは未だ味わった事がない、妖艶な媚薬となって英昭の身体を麻痺させるように酔わす。
 その影響で我を失い、夢心地になった英昭は無意識の裡に言葉を告げるのだった。
「スミレ」
 顔を上げた彼女は英昭の目を見つめ問い質す。
「何、スミレって?」
 少し間を置いて答える英昭の顔は、その赤みを通り超えて逆に真っ青になっていた。
「あ、ごめん、何時か見た夢に出て来た女やねん」
「あっそ、ところであんたが読めんかった字はこれやろ、確かに難しい字やけど、これぐらい読めんようでは女は出来ひんな」
 相変わらず淡々と話す彼女ではあったが、その口許は明らかに緩んでいたように見える。そして彼女が次の言葉を発しようとした時、被せるようにして口を開く英昭。
「その通りやで、悪い? この字が読めんかってん」
 と言って俊夫という字に指先を当てる。すると声に出して笑いながら続ける彼女だった。
「しょーもない事言わんでええから、これやろ、これは婀娜(あだ)って読むねん、分かった?」
「あ、あぁ......。」 
 返事はしたものの、まだ蟠りが残る英昭。無論その理由は答えを教えてくれた事だけではなく、その笑顔に秘められた彼女の優しさに動揺を隠せなかったからであった。

 それからの二人はまるで逢瀬をするかのようにして、ほぼ毎日といって良いほど昼休みになれば図書室で会っていたのだった。
 宮田の雰囲気を英昭はどう感じ取っていただろう。ただ優しい女性、ただ素朴な女性、或いは外見だけでは計り知れない男勝りな気性。
 でも男女を問わずに他者に警戒心を持たない英昭の余りの素直さは、彼女を前にして殊更強くなる一方で、蟠りは残っていようともその純粋な心根だけは対峙する者なら誰もが気付くような、幼子のような澄んだものだった。
 しかし彼にも一抹の不安はあった。それは仮にこの先二人が仲良くなったとしてもそれが皆の知るところになってしまう事を危惧する、またしても彼の小心が災いする要らぬ憂慮であった。
 それが杞憂ならば言う事はないのだが、女とは喋るのが好きな性質と信じて疑わなかった英昭は目出度くもそんな事を気にしながら、彼女の様子を探るようにして話をするのだった。
「最近どう?」 
 唐突に訊き始める英昭の顔を見つめながらも、笑みを浮かべながら答える宮田の表情や仕種は可愛かった。
「そうね~、あんまりおもろくないかな~」
 この答えは意外だった。大方何が言いたいのとか、何が訊きたいの、亦は他に言う事はないのかといった、蔑むような言を口にすると覚悟していた英昭は、彼女の目の奥底にある僅かな翳りに気付くのだった。
 その翳は言うなれば闇にも似た、暗い負の面を漂わせていた。そう感じた彼の感受性は乏しかったのかもしれない。だが人間とは所詮正直で不器用に作られているのか、たとえ冗談であっても自分が口にした言葉に比例した顔つきをする事は珍しくもない。
 ただ面白くないという表現には裏を読まず素直に賛意を示す英昭。そこで彼は次なる言葉を放つ。
「ひょっとして刺激がないという事?」
 ストレートに訊かれた彼女は、仕切り直すように前髪をかき上げて英昭ではなく、窓外の景色に流し目を送りながら答える。
「ま、そういう事かな、でも決して不満な訳でもないねんけどな、何か煮え滾れへんものがあるねんな~......。」
 正に同じだった。これも誰もが胸に秘めるどうしようもない悩みなのかもしれない。自分もそうだ。何をしても心が充たされる事などないに等しい。自分に非はあろうとも、常にそれと闘いながら生きているようなものだ。でも何時かは報われると信じて何とか藻掻き足掻きながら生きている。それさえ見つけ出し全うする事が出来たなら極端な話、何時死んでも良いと思うぐらいだ。
 哀しいかな、彼にはその悲壮感だけで生きている節はあった。そうならば尚の事彼女とは付き合ってその仲を恋路へと発展させたい。
 片思いとはいえ彼がここまで異性に対し、想いを寄せるのも初めてだったように思われる。その確信は彼の決意を覆しはしなかった。
「ところでこの前、授業中に俺に手振ってなかった?」
「いいや、そんな事する訳ないやん」 
 これ以上はないと言わんばかりの真顔を表す、英昭が放つシリアスな雰囲気には、怖れを知らぬ者の背水の陣にも似た清々しいまでの潔さが感じられた。眉をピクっと動かし坐っておきながらも後退りするような体勢をとる彼女は、その意に応えるような神妙な面持ちで声を出す。
「あんたには負けるわ、そうやで、手振ったで、何であの時リアクションとってくれへんかったん? てっきり嫌われてんのかと思ったわ」
 これも意外だった。確かに不愛想ではあった。そう思われても仕方ないだろう。でも自分には出来なかった。あの状況で、皆がいる前でそんな行動はとれない。それも情けない。ただそれが教訓になった事も事実で、それを補いたいが故に今こうして会って話をしているのだ。
 共鳴する二人の意思は柔らかな風となり、その心を優しく包み込むように解きほぐして行く。
 宮田は本には一切手を触れる事なく、言葉を続けた。
「俊子でええで」
 その名前を訊いた英昭は今読んでいる小説に出て来る俊夫を連想し、ヒロインの名前を無理矢理俊子にして読み続けようと、その本を借りて図書室を出て行くのだった。

 恋に落ちれば世界観が変わるとは言ったものだった。今まで目にしていた当たり前の光景をまるで別世界のように感じる。学校での事は勿論、家から出た瞬間に感じる道路の僅かな起伏。些細な天候の変化。陽射しの強弱。雨粒の大きさ。月や潮の満ち欠け。虫や鳥の鳴き声に風の音。屹立する樹々の表情までもが手に取るように見えて来る。
 その中にある自分と俊子の気持ちは未だ完全な形を成してはいなかったが、それも何れは大成するに違いない。そう高を括るのは時期尚早だろうか。でも如何に神経質な英昭であろうとも、この期に及んでまで物怖じするのは情けないように思える。
 ただそれだけで有頂天になる彼でもなかった。浮かれたくないのである。それは俊子とて同じで、礼を尽くすといっては大袈裟だが、そこまで深刻にシリアスにはならないまでも、とにかく調子に乗るのだけは毛嫌いしてしまう、二人に共通する先天性のある気質の表れだった。
 英昭が希んでいたように学校でもなるべく皆に気付かれないよう行動する二人。俊子もそれを暗黙の了解で感じ取っていたようで、特に教室などでは殆ど口を利かなかった。
 でも図書室での逢瀬は未だ続いており、それだけが楽しみで登校しているようにも見える。そんな或る日、何時ものように図書室で肩を並べて読書をしていると同級生の武史が珍しく姿を見せるのだった。
 武史は少しにやつきながら近づいて来る。下手に動じると却って怪しまれると思った英昭は平静を装って読書を続けていた。
「おう英、昼休み何時も何処おるんかなと思って来てみたら、こういう事やったんか、お前も意外とやるな~」
 この時英昭はバレてしまった悔恨よりも、妙な嬉しさを感じていた。自分がモテないと思われていたとすれば、見返してやる事が出来たという優越感みたいなものだろうか。
「武史よ、誰にも......。」
「分かっとうって!」
 間髪容れずに斟酌してくれた武史の情けは有難かった。でも人脈の広い武史に油断は出来ない。そう判断する英昭は図書室での逢瀬を諦める決断をするのだった。
 だがこれには反対する俊子だった。彼女は何時になくムキになって、語気を強めて言って来た。
「ここでさえ会われへんのやったら付き合ってるって言われへんやん、何でそんなに弱いん? もっと男らしくしたら!?」
 その通りだった。自分は何をそんなに怖れているのか。たとえ皆の知るところとなっても良いではないか。それがそこまで憂慮すべき事なのか。
 自問自答を繰り返した結果出て来た答えは堂々とする事だった。
「そうやな、ごめん、俺が間違えとったわ、何も卑屈になる事ないでな」
 そして昼休みが終わる頃、教室に帰った二人を待っていたのは、同級生達からの拍手だった。勿論全員ではなかったが、結構な数の生徒らが笑いながら手を叩いている姿が見える。
「お似合いかもな」
「やるやんけ」
「仲良くせーよ」
 口々に発せられるその言葉は賛美と受け取って良いのだろうか。何も言い返せないままに照れ笑いで誤魔化す二人の表情は滑稽だった。
 ただ武史に対してはどうしても気が収まらない。英昭は武史の眼前に立ちはだかり、いきなり強烈な一撃をお見舞いするのだった。
「舐めとんかいやゴラ! さっきの返事は何やったんやわれダボよ!」
 武史は元々運動神経が発達していて腕っぷしもそこそこ強い男だった。しかし一瞬とはいえ怯んだその顔には普段の彼ではないような、正に気後れしたような弱弱しさが漂っていた。
 恐らくは英昭のような大人しい者が殴りかかって来るとは夢にも思っていなかったのだろう。だがやられたまま黙っている彼でもなかった。
「いきなり何すんねんゴラ!」
 そう言ってやり返そうとした刹那チャイムが鳴り、皆が二人を制するなか、颯爽と先生が登場するのだった。

 月日の経過、移りゆく四季というのは常に儚く、その胸に憂愁の翳を落とすものだと思っていた英昭。それがこんなに安らかな気持ちで生き生きと過ごす事が出来るとは思いもしなかった。
 そういう気持ちにさせてくれたのは他ならぬ俊子であった。彼女と居ると理屈抜きに気が落ち着く。それは和義とは似て非なるもので、男女の仲にある恋心が織りなす、素晴らしい性質だと踏まえながらも実に不思議な感じがしていた。
 既に高校三年生になった彼等は進路を見据え、日々精進するべく残された学校生活に悔いがなきよう青春を謳歌していた。
 紅葉が深まる秋、英昭と俊子は学校帰りにある公園に立ち寄り、ベンチに坐って語らっていた。
「もうじき卒業ね」
「あぁ、あっという間やったな」
「ところで武史君とは仲直りしたん? もう過ぎた話やけど」
 英昭は少し間を置き、空を見上げてから答える。
「ふっ、仲直りも何も、あれからサシで勝負してんけど、ま~あいこやったな、俺も結構貰ったしな」
 俊子は軽い溜め息を零した。
「何で男って争い事が好きなんやろな、それは男らしいとはちゃうような気がするけどな~」
「ま~ええやん、どっちも根には持ってないし、これですっきりした気分で卒業出来るわ」
「......、そうやな、あんたも変わったしな」
 他愛もない話ながらも英昭には一つ釈然としないものがあった。
 変わった。この一言がどうしても胸を突くのだ。自分は何一つ変わっていない。それは自分が一番良く理解している事だ。他者から見れば変わったように見えるかもしれないが、それはあくまでも外見に過ぎないだろう。
 本質など誰も解らないし、探ろうともしないのが現代日本人の憂うべき性であるようにも思える。無論俊子はそんな浅はかな女性には見えない。その聡明な為人からは溢れんばかりの知性、感性、理性、品性が伝わって来る。ならば何故蟠りが残るのか。
 これこそが狷介で神経質な英昭の宿命(さだめ)ともいうべく人生であり、障壁なのだろうか。その壁を超えた先、いや超えて行く事にこそ価値がある人間社会なのか。
 尤もらしい言い方なれど人生というものは所詮そんなものかもしれない。ただ彼にはその繊細な性格、精神構造に依って自らが無理矢理にでも障壁を作り上げていたような節も感じられる。
 何れにしても怪我や病気をする事なく高校生活を送って来れたのは幸いだった。そう感じる英昭は俊子と自分、そして眼前に佇む、鮮やかに色づく紅葉の姿を眺めながら思うのだった。
 この葉も、その心の変容に依って色を変えているのだろうなと。
 





















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?