幻の憧憬 #11
#創作大賞2022
盆や正月をしみじみと感じられなくなったのは何時ぐらいからだろうか。如何にも盆、如何にも正月という雰囲気は年々薄れて行く一方だ。少々古典的な英昭にはそれが淋しく思えてならなかった。
世は人に連れ人は世に連れ。世の流れというものだけはたとえ威徳共に兼ね備えた知者の優れた慧眼を以てしても見通す事は難しいだろう。
ただ天為に依って変化する時世ならまだしも、美しい文化文明が人為的に衰退してしまったのであれば、無常の理を表す世の流れとはいえやり切れない気持ちになる英昭であった。
実際、
「盆も正月も関係ない、今はそんな時代じゃない」
「大晦日だろうが元日だろうが、普通の一日と同じ」
などという些か惰性的な意見を訊いた事もある。伯父御が放った皮肉めいた曲論もそうだ。
真に曲論と思うのであれば尚更割り切って捉えれば良いだけの話なのだが、それが出来ない自分も情けない。狷介な反面、他者の影響を受け易いといった、相反性のある複雑な精神構造を持つ英昭は常に自分自身と闘い懊悩していた。
それも所詮は人の性なのかもしれない。その上シンプル好きな性格が複雑な精神構造を相容れないのである。そこでまた葛藤が繰り返され、結局はすっきりしない、晴れない状態が続いてしまう。
僧でもなければ儒者でもない、まして心理学者でもない、謂わば無能に近い凡人が何故ここまで悩み続けなければならないのか。ここまで来るともはや病人、それも重症なのではないのか。
自分自身をそう分析する英昭は盆休みに入ったこの日、習慣になっていた地元の港をまた独り淋しく散歩するのだった。
浜辺から始まり向こう岸の先端にある灯台まで歩くその姿は、まるで何かを求めて彷徨う放浪人のような漂いで、元気も覇気も感じられない雰囲気は傍から見れば正に無能の人、酔生夢死にさえ映るのではあるまいか。
知り合いの漁師は言う。
「お前はほんまに若さがないやっちゃの~、こんなとこばっかり彷徨かんと、もっとみんなで遊んで来んかいや、なんやったら漁師にでも成るか? ま~お前には無理やろなぁ」
こんな事は言われ慣れていた英昭。最初は確かにムカついたものだったが、今となっては戯言にしか聞こえない。あんな漁師の一人や二人いざとなればシバき倒してやる。
若さとはなにものにも代えがたい宝である。しかし漁師に対しそう思っていた彼は、既に割り切るという能力を身に付けていたのではなかろうか。でなければ職場同様、漁師に対しても歯向かって行った筈だ。それをしなかったという事は己が成長ぶりを自証したという他はなく、特段その性格を悲観する事もないように思える。
しかしそう簡単に答えが出るほど人間社会というものは簡素なものでもなく、この先も幾多の困難に立ち向かって行かなければならないだろう。
灯台に近付くに連れ今度は釣り人の往来が多くなって来る。
「釣れました?」
釣り人の間で良く使われるこの言い回し。それを口にした英昭に気さくな態度で答えてくれる年配の男性。
「おう、ガシラばっかりやけどな、ほら」
その男性が見せてくれたクーラボックスの中には小ぶりなガシラやメバルが十数匹入ってあった。はっきり言ってこの港でその釣果は大したものだった。小ぶりとはいえ肉付きの良い魚がクーラーボックスの中でまだ飛び跳ねている活きのよい様は、英昭とは真逆な姿にさえ見える。
そうして灯台に辿り着いた彼は釣り人がいない場所に腰を下ろし、また物思いに耽り始める。
この夕暮れ時の海ほど彼が好いていたものはなかった。遠くを眺めると今にも沈まんとする太陽が、沖をゆっくり進む大型船に落下しそうな画が見える。無論太陽の方が遙か遠くにある訳だが、その船から見る太陽はどういう感じに映るのだろうか。
太平洋ならば果てしない水平線の彼方に。でなければ地平線や山に落ちるようにも見える筈だ。
それを全速力で追って行くと何時までも太陽を拝む事が出来るのだろうか。地球の自転などを考慮するとそんな事は叶う筈もない。
やはり割り切るしかない。こんな飛躍した考え方には尚更。
行動力にも乏しい英昭は動くタイミングを計っていた。何時鳴るか分からない汽笛を待ちながら。
「ブォーン、ブォーン」
汽笛は思いのほか早く鳴るのだった。恐らくはあの船からだ。恣意的にそう決めつけた彼は約20分の黄昏れに別れを告げ、また淋しそうな様子で家へと帰って行く。
途中で咆哮を上げる番犬の姿も心なしか淋しく見える。漁師がいない道中は嬉しく思えた。また何か言われれば、気にしないとはいえ多少なりとも動じてしまう。港の入り口付近にある喫茶店の窓明りも無性に温かく感じる。何時も暇そうなその店にこの時間帯に来る客などいるのだろうか。でもそれも乙なものでもある。
家に戻った英昭は母とも会話する事なく、店の様子を横目で一瞥すると真っ先に自室に上がるのだった。
鍵すら付いていないその部屋は何時誰が入って来てもおかしくない状態にあった。そこで彼は内開きである部屋のドアの前に、物が詰まった段ボール箱を置いてその懸念を払拭するのだった。
そこまで準備万端整えた部屋で何をしようと言うのだろうか。それは英昭本人ですら理解出来ない。でもその心構えだけは或る意味、褒められたものにも感じられるのだった。
英昭が画策していたものは実に滑稽な、テレビゲームをしたいだけというだけの話だった。そこまでして集中したかった理由はどうしても勝ちたい、勝ち越したいという健気な願いから来るもので、不器用な彼ならではの思案でもあった。
麻雀ゲーム。それは彼が幼い頃から慣れ親しんでいたゲームで、特に二人打ち麻雀を好んでやっていたのだった。
麻雀の役は結構覚えていた。平和、七対子、役牌、タンヤオ。こんな役などはしょっちゅう上がれる役で、物足りなく思える。とはいえ役満など滅多に上がれる役ではない。
でもまだ実際の麻雀をした事がなかった彼はそのルールや、点数の数え方などは余り理解していなかった。
そこで考えたのはとにかく勝てば良い。どんな手を使ってでも勝ちさえすればルールなどは自ずと覚えられる。鳴きまくってでも勝利を掴めば良いのだといった、甚だ稚拙な思考から来る、卑しくも勝利だけに執着する願望であった。
コンピューターのレベルは5段階中の4という彼らしい選択だった。そのレベルでも油断が出来ないどころか結構強い。ならば尚更鳴きまくって勝利する必要性に迫られる。
「ポーン!、チー!」
英昭は年甲斐もなく部屋で独り叫んでいた。
すると店が暇になったのか、誰かが階段を上る足音が聞こえて来る。ヤバいと思った英昭は声を殺してゲームに集中する。
トイレを流す音が聞こえる。用を足しに来ただけなのか。ほっと安心するのも束の間、少しづつ部屋のドアを開けられて行く事に愕く英昭だった。
一々ノックなどしないのがこの家の習わしみたいなものだった。
「おい、何をしとんや、えらい重いやんけ」
致し方なくドアの前に置いてあった荷物を移す英昭。軽くなったのを感じた伯父は何の躊躇いもなく直ぐ様部屋に入って来る。
「何や、麻雀かいや!?」
「今ええとこやねん」
そう言ってゲームに戻る英昭。ここで伯父がゲームにまで割って入って来る。
「あかんあかん、そんなん切ったら負けてまうで、チャッソ切れてチャッソ!」
英昭は伯父に従うように七索を切った。だがこれからどうすると言うのだ。まだ二向牌(リャンシャンテン)にもなってなく、後三順しか残っていないこの状況では七索を切ったところで負けか流局しかない。
コンピューターが捨てた三萬でポンを鳴く英昭。
「あ~あ、負けやな」
伯父の声は虚しく部屋に木霊す。負けはしなかったものの、勝負はやはり流局に終わった。
伯父は更に言う。
「そんな打ち方しとったら雀荘行っても絶体負けるし鴨にされるで、もっと勉強せんとあかんな」
その通りではあった。ただ英昭としては他者に教えを乞う事が嫌いなだけだった。それをわざわざ部屋にまで入って来て、そのうえ講釈まで垂れる伯父をどうしても好きにはなれない。
それでもテレビ画面を執拗に眺める伯父はこう言って来た。
「このテレビ色薄いんちゃうんか? もっと濃くせーや」
と言って勝手にテレビを弄り色合いを濃くして立ち去るのだった。
これはギャグの一種なのだろうか。確かに色は薄かった。これも英昭ならではの好みで、とにかく薄いものが好きなのだった。
食べ物といい容姿といい人格といい、濃いものを毛嫌いする英昭。その理由も無論シンプル好きが長じた所為である。
他に匂いがキツいものも嫌いだった。要するに華奢で脆弱で綺麗好きで潔癖という彼の本性を表しているのである。
そんな彼も伯父の行動に笑みを浮かべるのだった。理屈抜きに笑う彼の表情は可憐だった。そんな明るい状態を持続出来れば言う事はないだろう。
その後も麻雀ゲームを続ける彼は胸に込み上げる何かを感じていた。伯父の言に従いプロの博打打ちになる願いと、もっと楽観的になる儚い夢を。
連休中も暇そうに暮す息子に母は苦言を呈する。
「英昭、あんたどっか行って来たらええねん、何時も散歩とかゲームばっかりしとうやん、和義君らと遊んで来たら?」
「そうやなぁ~」
こんなやり取りも今に始まった事ではなかった。別に引き籠りという訳でもなかったが、英昭という男はとにかく行動力がなく、自主性、積極性に乏しい人物で、無気力無関心な割に気が多く、かといって能動的でもないといった説明し難い性格を持していたのだ。
小学生時分からも同級生達に言われていた事があった。
「英昭はほんま暇な奴やからな~」
当時はその意味がいまいち良く解らなかった。一体自分の何処を見てそう思うのだろうか。まるで全てを知り尽くしたようなその言動は彼を悩ませていた。
でも今では痛い程理解出来る。確かに暇過ぎる。はっきり言ってやる事が無い。何かをしようと思わない。
こういう人も世の中には結構な数で存在するだろう。ただ極度な暇を感じた時、人という生命は大袈裟な話凄まじいまでの恐怖を感じるものだ。英昭は今正にその恐怖に慄いていたのだった。
過剰なシンプル好きが祟ったのか。身体が金縛りに遭ったように動かない。とはいえ何かがしたい訳でもない以上は動きようもない。目の前が真っ白になって行くような気がする。傍にいる母に告げる言葉も見当たらない。
果てしない虚無。虚無感とはこういうものを言うのだろうか。或いは精神的な病の類か。でも自分が鬱病や、自律神経失調症ではないと理屈抜きに分かる。とにかく怖い。
そんな放心状態を続けていた英昭に母は今一度語り掛ける。
「何しとん? 取り合えず外出て来いって!」
5秒以上経ってから答える英昭。
「あ、あぁ、そうやな、ちょっと行って来るわ」
息子の様子を見る母の表情は明らかに不安を抱えていた。
外に出た英昭は先程感じた虚無感を思い出していた。確かにおかしなものだった。これまでもそれに似た経験はした事があったが、今回は初めて味わった感覚に相違ない。だが決して不快なものでもなく、寧ろ心地よいぐらいだった。そんな時間が続けば良いとさえ思えて来る。
完全性などというものはこの世に現存するのだろうか。確率的に99.9999%という数字が那由多の位まで続いたとしても、完全な100%という事象は存在し得ないのではなかろうか。
無論今味わった感覚にも完全性は保障されない。だがそれに近いものを感じた事は確かだった。ただもしその虚無感に完全性があるのならそれは、言わずもがな無に達した時である。生きたまま無を感じる事など不可能だろう。とすれば死してのちにしかそれを感じる事が出来ないという答えに自ずと辿り着く。
英昭は死にたいのだろうか。死んでまでそのような感覚を味わいたいとでも言うのだろうか。
現時点で死にたいとは思っていなかった。でも何れは死ぬ事が決まっている。それを早く感じたいという気持ちはあったかもしれない。無論その理由は己が人生の不甲斐なさを嘆く主観的なものではなく、客観的にして総体的な夜を憂う気持ちと、それ以前に彼の身体に内在された無への憧憬という事になって来るのである。
例えばドラマや映画などの物語に出て来るような美しい死に方などには憧れない英昭。彼が考えているのは美しい醜いの二元論ではなく、生命の誕生に神秘性があるなら、死にも同じものがある筈といった少し哲学的で、仏教的な想いから生じた、喜怒哀楽を超えた、生命の根本にして根源を探るようなものであった。
一々連絡を取る事を嫌う英昭は意何時の間にか和義の家に辿り着いていた。昔のように他人の自転車の鐘を鳴らし出て来るのを待つ。
3回鳴らしても和義は出て来なかった。幸い親御さんからの怒声を聞こえなかった。致し方なく諦め、またその辺を彷徨うように歩き始める英昭。
まだまだ考え足りない彼ではあったが、蝉のうるさい鳴き声が邪魔をする。容赦なく照り付ける夏の強い陽射しは彼の影をはっきりと地面に映し出していたが、高気温に依って陽炎のように揺らめく影は、まるで分身のように今の英昭の心情を体現していた。
そして何処を歩いているのかさえ分からない彼の前に、一人の女性が現れる。彼女は恰も英昭がそこを通る事を予知していたかのように、落ち着いた雰囲気でこう語り掛けて来る。
「また散歩やな、絶体ここ通ると思ってたわ」
偶然にも俊子に出会った英昭は、思わずその顔を伏せるのだった。
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