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幻の憧憬  #8


#創作大賞2022


 六月下旬の午後六時半頃はまだ街から太陽が見えるほどだった。夕暮れ時の切ない雰囲気が好きな英昭にはそれを少し毛嫌いする節があったが梅雨時分の薄暗い、澱んだ空模様は好都合にも思えた。
 雲に隠れ薄っすらとした太陽の姿を追うように西へと足を運ぶ。英昭の家に行くと言った俊子ではあったが、まだ母と一度も合わせていないこの現状は英昭を怖気づかせる。高校時代に一度だけ自宅に連れて来た事はあったものの、その時も母の目を盗むようにして、忍者のように足音を殺して部屋へ上がった記憶がある。その時の両者の真意は理解出来ないまでも、電話での俊子の様子が気になる英昭はまず外で会ってその心境を確かめたかった。
 水たまりが点在する道は少々歩き難かったが、靴の裏を洗うべく敢えて水たまりの上を歩く英昭。歩行者の多くは水たまりを回避して歩く為、反対の意思を以て進めば向かって来る者に気兼ねなく歩けるという細やかな利点を、一石二鳥だと考える彼なりの苦肉の策でもあった。
 こちらに来る時通るであろう、自宅から五十m程先にある見通しの良い交差点で俊子を待つ彼は、ぼんやりと街の様子を眺めていた。そこには家路を急ぐ者達の、小規模ながらも都会の喧騒を物語るような、英昭としては好もしくない現実社会の光景が広がっていた。
 待つ事二十分。俊子はまだ現れない。ここから一駅離れた所に住んでいた彼女の進み具合を計算してゆっくり家を出たつもりでいた英昭は少し不安になっていたが、頻繁に連絡をとる事を嫌う性格がどうしても電話をかけさせなかった。
 すると家にいる母親から連絡が入る。
「どうしたん?」
「いま宮田さんていう人が家に来とうで、何処におるんよ?」
 英昭は失敗したと思った。もっと家の近くで待っていれば良かった。何故こんな好きでもない場所で二十分も立ち尽くしていたのだろう。莫迦にもほどがある。それにしても彼女はどの方角から来たのだろうか。このたかだか五十mの中にまだ自分の知らない路地でもあったのだろうか。
「直ぐ帰るわ」
 そう言って家に逆戻りする英昭だった。
 勝手口から家に入ると、土間には俊子のものであろう靴が綺麗に置かれていた。母は店に出ていて、弟と妹は居間で英昭の顔を無言で見つめていた。
 自室に上がった英昭は俊子の姿を見るなりこう語り掛ける。
「何処から来たん? 近くの交差点で待っとってんけど?」
 俊子は何時もながらの落ち着いた様子で坐っていた。
「雨が降るかもしれへんからタクシーで来てん、悪かった?」
 英昭は愕いた。確かにタクシーでも使わなければこんなに早くは来れないだろう。でも急用がある訳でもあるまいし、何故。
「なるほど、それにしても大袈裟やな、わざわざタクシーまで使うか」
 この言葉は多少なりとも俊子を傷つけたかもしれなかった。だが彼女は至って冷静な面持ちで、朗らかな微笑を湛えながら英昭の顔を見つめていた。
 酒が入る前に話をしておきたいと思った英昭はお茶を差し出す。余りお茶を飲む習慣がなかった彼も、俊子と二人で飲むそのお茶には理屈抜きに旨さが感じられるのだった。
 互いに無口である者同士が肩を寄せ合うこの狭い空間にはちょっとした緊張感が漂っていた。それを解いて行くのも然程難しいとも思えなかったが、湿気を帯びた空気が僅かな抵抗をするのだった。
 英昭は逡巡から脱するようにお茶を一気に飲み干し、真剣な眼差しで口を切り出す。
「何かあったんやな、訊かせてくれへん?」
 俊子も同じようにお茶を飲み干してから答え出す。
「......、実は悩みがあるの」
 俊子の顔を優しい目で見守る英昭。
「俺も悩みだらけやで、みんなそうやろ、正直に言ってみって、今更隠し立てするのもおかしいやろ」
 俊子は小さな溜め息をつき、英昭の目をまざまざと見つめていた。
「或る意味ではあんたと同じような悩みかもしれへんわ、お父さんの事やねんけど、あいつ何時も母に手を上げとってん、それが見てられへんから私も目には目をであいつを殴り飛ばしたってん、今に始まった事ちゃうねん、中学三年ぐらいからかな」
 この時、英昭は身体に凄まじい戦慄が走るのを感じた。この本質は何なのだろうか、何処から来るものか。別に俊子の事が嫌いになった訳ではない。意味もなくそんな事をする俊子ではない。それだけの理由があってした事だろう。でもその根柢にある、自分でも理解出来ない何かが彼女の行為を断罪するのだ。綺麗ごとや一般論でもない。まして主観でもない。どうしても看過出来ない何かが身体に込み上げて来る。
 果てしなく続く思考の連鎖。その中から微かにでも、現時点で分かっている事を引き出したい。だがそれ自体が難しい。
 苛立つ彼は答えを見出せないままに、思い付く限りの事を口にする。
「取り合えず親に手出すのはあかんやろ、どんな理由があっても」
 想定内の答えと思ったのか、俊子は若干呆れ顔をしていた。ただ英昭が言うのも尤もで、自分が置かれている境遇だけを取って反論しようとも思わない。この辺が聡明であるが故の逃れ得ぬ性なのだろうか。
 彼女とて英昭を嫌ってはいなかった。でも蟠りは残る。それを如何にして解消するかが問題なのだが、今のところ打開策は見当たらない。
 英昭は高校生時分に図書室で借りたまま、返さずにいた本を徐に棚から取り出し、気になっていたページを開け、少々脚色して読み始める。
「幼馴染であった俊夫と朝子の二人にはそれぞれ隠し事が一つあった、初めのうちは敢えて干渉しなかったが、長年の付き合いがそれを阻む、何故ならそこを突破しない事にはこれ以上の発展は望めなかったと信じる二人だからであった、先に訊いたのは朝子だった」
 英昭は朝子に優先させたのだった。実は俊夫だったのに。その理由は単純で、聞き役の方が好きだったからである。別にファーストレディとか悩みを打ち明けた方が負けとか、そんな下らない後先の話から来る見栄や他意などは一切無かった。
 そしてこれを読んだ事に依り、俊子が自分の悩みを訊いてくれると判断したからでもあった。余りにも単純過ぎて俊子なら直ぐにでもその意図を見透かすだろう。でも構わない。それすら作戦のうちだったのだ。
 俊子は些か怪訝そうな顔つきながらも、英昭の誘いに乗るようにして訊いて来るのだった。
「あんたの悩みって?」
 躊躇する事なく答える英昭。
「前にも言うたやろうけど、俺は早くに親父と死別してん、小学二年生の頃に、おかんと一緒に店しとってんけど、親父はいかんせん博打好きで酒好きで、借金で身動き取れんようになって酒飲み過ぎて肝臓いわして死んでもたんや、でも俺もおかんも大して恨んでないねん、何でか分かる?」
 即答出来ない俊子を置いて続ける英昭。
「親父が好きやったからやねん、それは決して嘘ちゃうで、綺麗ごと言うつもりも全くない、あくまでも純粋な気持ちやねん、それを真に感じ取ったのがおかんの涙やってん、病院のベッドで親父の骸を精一杯叩きながら喚き散らしとったわ、号泣とはあの事を言うんやと思ったわ、あんなおかんの泣き叫ぶ姿見た事なかったし、ドラマや映画でも観た事ないぐらいやわ、だから......」
「ちょっと待って!」 
 話を制する俊子の表情は恐いほど神妙だった。そこには無論反論の意思が漲っていた。
「私は何もあいつを殺したいとか言うとんちゃうで、そこまで深い話ではないと思うんやけど......」
 今度は英昭が制する。
「いやちょっと待って! これは浅い深いだけの話でもないねん、取り合えずお父さんの事、あいつと呼ぶのやめてくれへん、聞き苦しいし」
 更に続ける。
「そこまで思いつめてないんやったら尚更お父さんの事思いやるべきと思うで、お父さんかってどういう手に出るか分かれへんし、なんぼだらしないとはいえ娘に殴られたんでは立つ瀬ないやろ、その中学生までの間だけでもちゃんと育ててくれてんから感謝して、ムカツキを収めてくれへんかな?」
 俊子は黙っていた。
 沈黙の時間が煩わしいかったが、その間は英昭もこれ以上は何も言おうとはしなかった。
 目に見えない空気が少し穏やかになったような気がした。そんな時、英昭の母が部屋に入って来るのだった。

 一瞬ドキっとした二人に釣られるように愕いた目をする母。その張り詰めた空気感は如何ともし難い。
 母は言う。
「晩ご飯作ったけどここで食べる? 今店空いたからそっちでもええけど」
 この部屋の空気から少しでも逃れたいと思ったのか、英昭は店で食べると言い出した。
「宮田さんも一緒にどうぞ」
「有り難う御座います」 
 俊子も一緒に店へ下りて行く。
 居間にいた弟妹はちらと一瞥しただけで何も言わなかった。何時の間にか午後八時を過ぎており、暇になったというよりも閉店が近づいた為、何時ものように客足が少なくなっていただけだった。
 母が作ってくれた天津飯を手に持ってテーブルに運ぶ英昭と俊子。
「頂きます」
 と声掛けをしてあとは黙々と食べる二人だった。場所が変わったとはいえその蟠りはまだ解けていなかったのだろうか。食事中にまで要らぬ空気を入れぬようにと何も言わない英昭だったが、改めて口下手な自分が嫌にもなって来る。
 そんな時、俊子が明るい表情で声を出す。
「めっちゃ美味しい!」
 その少々高い声で発する言葉は店全体をも明るく包み、二人は気持ちが和らいで行くのを感じる。
「かあさん、旨いって言うてくれとうで」
 そう訊いた母は素直に謝意を示す。
「ありがとう、大したもん作られへんけど、他にも食べたいものあったら遠慮せんと言うてな」
「いいえ、十分です」
 俊子の優しい笑顔と透き通るような声は英昭の心を癒やす。
 そろそろ食べ終える頃になって一人の男性客が入って来た。この常連客も英昭がよく知る人物だった。直ぐ近くの運送屋で働く少し柄の悪い客だったが、気さくで誰とでも喋るような、明朗でおおらかな男でもあった。
「おう兄貴、仕事頑張っとんか!」
 幼い頃からそう呼ばれていた英昭は内心思っていた。その呼び方自体に不服はないまでも、一生そう呼び続けるのかと。
「あ、いらっしゃいませ、何とか頑張ってますわ」
 取り合えずの返事をする彼に対し、にやっとした顔つきで続ける客。
「それは良かった、で、何や、今日はえら別嬪さん連れとうやんけ」
 俊子は少し顔を赤らめていた。英昭もどう答えて良いか分からず、母も気を利かせたのか、敢えてその事には触れなかった。
 恐らく俊子はこういうノリが嫌いなのではなかろうか、多分そうだろう。ならば店で食事をしたのは悪かったか。今更後悔する英昭であったが、俊子の表情の穏やかさは逆に英昭を不可解な気持ちにさせるのだった。
 そのうえ彼女はあろう事か、その客と話をし始めるのだった。
「お兄さん何時もここに来てるんですか?」
「お、おうそうやけど、この兄貴はちょっと大人し過ぎるからな~、あんたみたいな別嬪さんは勿体ないわ、ま、しっかり躾たって~な、はっは」
 このような嫌味も冗談である事が分かっていたので英昭は何とも思わない。母も愛想笑いをしながら訊いていた。
 すると俊子がまた口を開く。
「英昭君は別に大人しくなんかないですよ、ちょっと繊細なだけなんです」
 その客は目を丸くして愕いていた。それは俊子の放った言葉よりも、彼女の強気な言い方自体に後退りするような感じだった。
「お、おう、そうか、俺はアホやからその辺の事は分からんけど、ま、兄貴のこと宜しく頼むわ」
「はい」
 笑みを零しながら軽く返事をする俊子だった。
「ご馳走様でした」 
 食事を済ませた二人は外に出てその辺を歩いていた。夜も更けた港近くのこの街には海風に運ばれる潮の香りが直に伝わって来る。その匂いは月同様、夜の空気に冴え冴えと優しく広がり、人の心を和ませる。
 英昭は感じていた。食事をしてからというもの、俄かに表れた俊子の変化を。だがその本質は解らない。わざわざ訊くのも憚られる。でも決して悪い感じはしなかった。
 少し歩いて浜辺に腰を下ろす二人。梅雨時分の乾き切っていない浜の雰囲気は鬱陶しい気もしたが、贅沢を求める二人でもなかった。
 まだ水分を多く含んだ漁師が使う網が干されていた。静かな海にはその滴り落ちる水の音がはっきりと聞こえて来る。気の小さい英昭はその音の間隔を計っていた。恐らくは一回辺り三秒ぐらいだろうか。干されてから既に数時間が経つであろうその水が落ちる間隔は、この間にも僅かながらも伸びて来ている感じがする。
 そこで俊子が言う。
「確かに三秒ぐらいね」
 以心伝心とはこの事か。一瞬愕きはしたものの、嬉しく思う英昭だった。俊子も同じ事を考えていたのだ。このシチュエーションであれば考える可能性も否定は出来ない。だがそれを確認出来た事がなにより嬉しかった。
 英昭は俊子の肩をそっと抱き、二人して海の景色を遠くに眺める。向こう岸にある灯台の灯りが明滅する様は何処か物悲しい。遙か沖合をゆっくりと進む船の野太い汽笛は切なくもロマンチックに聴こえる。
 前を向いたまま俊子がまた口を開く。
「取り合えずあいつと呼ぶのは辞めようと思う、今直ぐ出来るかは分からんけど」 
「......、その方がええと思うで」
 俊子の心境の変化も嬉しかった。その理由は解らないまでも。
 まだ網から落ちる水の音も聞こえる。その感覚でタイミングを取るようにして、英昭は初めて俊子に口づけを交わすのだった。








 











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