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幻の憧憬(しょうけい) #1


#創作大賞2022

  

    一章

 厳しい寒さが残る晩冬のみぎりに慎ましくも美しく、可憐で艶やかな姿を見せる梅。その命は長くはなく、儚く散ったあと桃が咲き、そして人々が待ち望む桜の開花へと続いて行く。 
 少々のずれはあろうとも常に一定の時期に見事に花咲く優美な自然の理(ことわり)は、悠久の歴史の中に不変の原理とも言うべく正の連鎖を繰り返している。
 大自然に対し諍うような己惚れはなくとも、少なくとも羨望の眼差しでじっと桃の樹を眺める英昭。この辺りでは珍しいその桃の樹は、少しか細く小柄ながらも幼子の健気な戯れの如く繊細な枝先を目一杯拡げ、謙虚ながらも毅然とした態度で天を仰いでいる。
 微笑ましくも純真な照れた時の頬のような、薄紅色に染まる花は微笑を湛えた優しい表情で春の到来を教えてくれ、そよぐ風が他の自然の情景と折り重なって漂わす風情のある趣は、人の感覚的意識に純粋に浸透して来る。
 まだ少し肌寒い三月中旬、中学校では卒業式が執り行われる。三年間の学校生活を振り返り涙する者や朗らかに笑う者、ただ粛々と臨む者など、その様子は多種多様なれど、一刻も早く式を終え家に帰りたいと願う者など存在するのだろうか。もし居るとすれば如何に人の勝手とはいえ、少々薄情なのではなかろうか。
 向井英昭十五歳。彼こそがその薄情者であった。この三年間に全くとは言えないまでも大した思い出など殆どなかった彼は、とにかく早く卒業し大人に成りたいと願っていた。もっと言えば早く時が過ぎて欲しいといった感じで生き急いでいただけなのかもしれない。それは自身が何の魅力も持ち合わせていない事を認識する自己嫌悪と、人間社会自体を悲観視せずにはいられない己惚れた飛躍した思想から来る、憐憫に足る稚拙にも幻想性のある、夢想の裡に育まれた頑なな矜持にも似た意志だった。
 式が終わると頂いた卒業証書を大事に手に携えながら、校舎の向かいにある公園へと誘(いざ)われるようにして赴く同級生達。彼等はその公園で三年間の学校生活を懐かしんだり、進路や将来の話を談笑の中で明るく語らっていた。
 英昭と和義の二人もその公園に立ち寄りはしたものの他の誰とも交わる事なく、まるで用事でもあるかの如く早々と踵を返し颯爽と帰途に就こうとしていた。そんな二人の様子を訝るやんちゃな男子生徒の一人がこう語り掛けて来た。
「おい英昭よ、もう帰るんかいや? 何か用でもあるんか? 今日が最期やねんからみんなと話しようや、淋しいやんけ! な!」
 その言葉も虚しく、愛想笑いで誤魔化しながら立ち去る二人。この二人は意図せず立ち去ったのだった。決して薄情な行動を執るつもりなどなかった。でも身体が無意識に拒絶反応を示すのだった。単に関心がなかっただけなのか、そのような場が嫌いなだけか。或いは本当に急用でもあったのか。何れにしても本心かどうかも判らない現時点ではそれが自己欺瞞かどうかも判断出来る筈もなく、たとえ他者を動揺させる事であっても自省にも及ばない、取るに足りない事象であったように思われる。
 心境の変化を介さない自然の所作。意に添わなくても他意のない素直な気持ち。自主性に欠ける英昭であろうともこういう時だけは何故か自我に執着してしまう。是非はともかく、そういう前提に於いては彼が狷介な人物であった可能性は否定出来ないだろう。
 一切後ろを振り返る事なく前を向き歩きながら話し始める英昭と和義。
「行こか?」
「何処へや?」
「皆まで言わせんなよ」
「玉か?」
「そういう事やな」
 少なく短い会話の中にも以心伝心に感じ得た互いの思惑は、無機質な願望となってただ二人の足を進ませる。そこへ行く気すら曖昧な意思から生じたもので、目的意識などは皆無だったに相違ない。それなのに何故行きたいという意思が勝ってしまうのか。そこにこそ言葉では説明し難い、人間生命に根付く脆弱な精神が働いているのだろうか。
 本心をも覆すほどの脆弱な精神状態に促されるままに足を進める二人は一旦家に帰り昼食と済ませたあと、親とは軽い会話だけをしてから或る場所へと急いだ。 

 昼とはいえそのネオンの明るさは少々眩しかった。燦然と輝く春の陽射しに愚かにも対抗しようとする人為的な光。何ともナンセンスな景観がそこにあった。自然美をこよなく愛する英昭はその意に反してまでパチンコ店なる世俗的な空間の中に足を踏み入れる。何を理由に、何を求めてそのような場所に甘んじて没入しようとするのか。
 普通に考えれば儲けたいという邪念や現実逃避を試みようとする、それこそ脆弱な心の表れだと想定するのが社会の共通認識で、確かにその何れにも該当するだろう。だが僅かながらもその限りではない可能性も残っているような気もしないではない。
 例えば綺麗なものを見た場合に生じる色んな想い。そこにはただ綺麗だと見惚れる正直な気持ちは言うに及ばず、自分もそう成りたいという憧れや、成れないと悟った時に芽生える嫉妬や悲嘆。亦それを支配したい不遜な願望や、いっそ潰してしまいたいといった歪んだ心情が発揮してしまいがちな衝動に駆られる事も往々にあるように思われる。
 もしそんな衝動に任せて行動してしまったなら取返しのつかない事態に陥ってしまう事は言うまでもない。しかし人が時としてその意を介さず無意識の裡に傾倒する滑稽ながらも健気な様は、一心不乱に恋路に舞う者の純粋無垢な心根と或る種の同質な心理状態を表しているような気もする。
 そんな理屈を以て己が所業を正当化するつもりもなく、将来を見据える上での不可逆性を憂慮するまでにも至らなかったまだ今日中学を卒業したばかりの二人は、義務教育から解放された事だけをとって恰も真の自由を手にしたような、錯覚とも言える喜びをいち早く感じたかっただけなのかもしれない。それを図らずも自証してしまったのが先程のみんなが居る公園から不愛想に立ち去った軽挙に表れていた。
 それにしても暗黙の了解とも言える手際の良さで足並みを揃えるようにしてパチンコ店を訪れた二人には、よっぽど気が合うのか何か運命的なものが感じられなくもない。
 でも両者は敢えてそれを確かめるような真似はしなかった。気恥しかっただけのか。いや違う。保育所からの長年の付き合いに依って互いの為人を熟知していたのか。それも納得しかねる。
 まだ若い彼等にはそんな詮索自体が無駄で、何の成果も齎さない取り越し苦労のような浅はかな思慮に耽るだけのように思われた。
 両者のパチンコの資金はたかだか数千円と少ない額だった。それで儲けようとする心意気には無謀にも大胆な勇ましさが感じられる。その資金に見合った機種は羽根ものと呼ばれるいわゆる普通機だった。
 幼い頃から親に連れられてたまにパチンコ店を訪れていた二人はその打ち方を既に知っており、台に坐ると躊躇う事なく左方にある貸し玉サンドに硬貨を入れ遊戯をし始める。
 当時の機種は賞球が多かった為玉持ちが良く、別に大当たりを射止めなくても結構な時間遊ぶ事が出来た。でも儲けようとすれば大当たりさせる事が必要不可欠で、いくら玉持ちが良いとはいえだらだらと打っているだけでは負けてしまう。
 二人は当然ながら儲けに来ていた筈である。初めの五百円では余り手応えが感じられなかったが、次の五百円を投資した時、大当たりであるV入賞を果たす英昭だった。
 ラウンド抽選で見事15ラウンドを引いた彼は歓喜に酔いしれた。全身に込み上げて来る昂揚感。それは嘗て味わった事がないほどの血が逆流するような烈しいもので、英昭のようなテンションの低い人間をしても留まる所を知らない奔流となって、肉体と精神に同時に直接的に刺激を与えて来る。
 これで当分は遊べるし大儲けする事も夢ではない。大袈裟ながらもそれが本心であった。セブン機と比べると玉の増え方は知れていたが、それでもそこそこの量にはなる。パンクさせずに15ラウンドを無事に消化出来た英昭は、少し離れた場所で打っていた和義の様子を見に行く。
 英昭より更に大人しい和義は至って冷静沈着な面持ちで、悠然とした態度を崩す事なく群衆の中に独りぽつんと佇んでいた。
 その姿を確認した英昭は一瞬笑みを零したが、その笑みは立ちどころに険しい怯えた表情へと変化し、戦慄が走るのを覚える。
「和、逃げろ!」 
 小声ながらもしっかりと言葉を放った英昭の顔を横目で眺める和義。彼はよほど鈍感だったのかそんな言葉には耳を傾けず、周りを一切気にする事なく打ち続けている。
 終わったと思った。だが和義だけを置いて逃げる訳にはいかない。金縛りにでも遭ったかのように微動だにしない英昭。するとその物々しい面妖な影は厳つい眼差しを以て和義へと近づき、攻撃的な態度で襲い掛かって来た。
「おい、お前まだ中学生ちゃうんかい? 調子乗っとったらあかんでな」
 と言って和義が被っていた帽子を取り、悪意に充ちた馴れ馴れしい手つきで後ろからその肩を必要以上に強く揉み出した。
 ここで初めて自分達が危機に瀕している事に気付いた和義は、相変わらずの落ち着いた雰囲気ながらも動揺した顔つきで辺りを見回しながら、言葉少なに反論するのだった。
「もう高校生ですけど」
 苛立つ三人の男達は和義に罵声を浴びせる。
「何が高校生やねんわれダボよ、まだ18になれへんやろがい! この頭何や、丸坊主やんけ! おちょくっとんかいゴラ!」
 他の二人も続けて言い放つ。
「大人しく金出しとけや、それとも学校に言いに行こか、ここの店長に言うて出入り禁止にして貰うか? 或いは警察か? どうすんねんゴラ!」
「お前らK中学やろ、俺らもそこ出身やねん、そやからお前らの先輩言う事やでな、まだ知っとう先生もおるし、ここの店長もよう知っとうしな、金出すしかないやろ? えーおい?」
 恐れおののく英昭と和義は流石に負けを認め、僅かに持っていた金を差し出し、更に一礼をしてから店を後にした。満足する先輩達は後ろから、
「何かあったら何時でも言うて来いよ、心配せんでもケツ持ったるから、分かったな~」
 などと心にもない戯言を嫌味のように告げるのだった。
 振り返る勇気すらない二人は、一刻も早くその場から消え去りたいと言わんばかりの速足で逃げるようにして立ち去って行く。
 高鳴る鼓動と乱れる脈拍。不甲斐なくも惨めな姿を晒す二人の表情は、まるで大事件にでも遭遇して逃げ惑う、謂われない疑いをかけらる事を危惧する目撃者の彷徨を物語っていた。
 鬱陶しい西日を浴びながら二人が辿り着いた場所は地元の港であった。
 二人が落ち合う場所はだいたいここであった。神戸の下町に生まれ育った彼等にとってそこは謂わば隠れ家的な場所であり、落ち着いて話が出来る唯一の場所あであったのかもしれない。そしてこの界隈に住まう者達もこの港を自宅の庭みたいな感じで暮らしていたのだった。
 数ある漁船に連絡船などのタグボート。向こう岸には秩序良く積まれた砂や砕石が二三の小山を形成している姿が見える。その小山の天辺に立ち、守り神のように佇む番犬の鳴き声は咆哮となって港中に響き渡る。
 夜釣りに興じる釣り人が防波堤の先端にある灯台に向かって歩いている。その遙か彼方に聳える水平線は今にも沈みそうな夕陽を包み込むように両手を拡げ、寛大な心意気で泰然と待ち構えている。
 そんな情景を遠くに眺めながら黄昏れる二人は徐に口を開き始めた。
「何やったんやろな、今日という日は......。」
 優しい口調で切り出した英昭の顔色を窺う和義は、未だ心の整理がつかない様子でこう答えた。
「悪かったな、俺がもっと早く気付いとったらあんな目に遭わんかったのに、情けないわ......。」
 素直に己が非を認める和義の優しい気持ちは有難かった。でも所詮は同類で同罪。彼を責める気になれなかった英昭はただ愁然とした面持ちでじっと遠くを眺めていた。
「そんな事より、また二人で釣りでも行こうや、最近全然行ってないでな、昔みたいに健全な遊びをした方がええんかもな」
「そやなぁ~......。」
 今度の和義の返事には何処か事務的で形式的な響きがあり、虚無感さえ覚える英昭。これも今に始まった事でもなかったが、どうもこの二人には癖というものが感じられない。それなりに拘りがあり偏屈者である可能性はあろうとも、傍から見れば余りにも軽薄で、何の魅力も味気も生産性もない凡庸な人物に映るのではなかろうか。
 言うなればシンプル過ぎるのである。シンプルで潔癖で素直過ぎて、それでいて狷介で。捉えどころのない二人の性格は持って生まれた性なのだろうか。でも人一倍シンプル好きであった英昭は自分を省みる作業を決して良しとはしなかった。
 やがて日は当たり前のように沈んで行く。それを惜しむように一羽の鳥が彗星の如き隼さで飛翔して行く。鳥の気持ちはさておき、英昭としてはこの当たり前の光景が好きでたまらなかった。





 













 






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