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幻の憧憬  #10


#創作大賞2022


 数日が経った或る日、英昭は俊子からの連絡を受ける。内心ではあの時、店を出たあと直ぐにでも連絡しなかった事を悔やむ二人だった。
 互いに一応の理由はあった。英昭には店の関係からも二人の間柄を余り大っぴらには出来ないという彼なりの配慮。
 俊子は俊子で英昭に対する微細な不信感。
 この二者は取るに足りない杞憂である可能性もあった。だが少し深く掘り下げて考察すると、実は両者の先天的にして根本的な、その性格に直結するる重大事項であるような気もしないではない。
 英昭としては俊子が水商売をしていた事などには関心がなかった。寧ろ色っぽく思えて惚れ直したぐらいだ。でも俊子の想いとは他者への干渉を憚らない顧みない、言うなれば彼女の主観と一般論から成された、英昭が最も忌み嫌う概念的な思考から生じていたものであったのかもしれない。
 俊子が真っ先に言う。
「あんた何で店来たん? それもあんな奴と」
 この言葉こそが英昭の心を搔き乱した。
「それどういう意味?」
 俊子は間を置いてから答える。
「あの田村って人、めちゃくちゃ酒飲みで酒癖も悪いし、店でも評判やねんで、職場の同僚みたいやけど付き合うの止めた方がええと思うで」
 言わんとしている事がさっぱり理解出来ない英昭。
「何が言いたいん? あの人がそんな悪い人とでも言いたいんか? もしそうやったら流石に俺も怒るで」
 相手が俊子なので多少なりとも控え目に言ったつもりだったが、彼女がどう捉えていたかまでは解らない。決して良くは捉えていないだろう。それを踏まえた上でも収まりがつかないのも事実で、どうあっても真意を知りたい英昭は緩慢なく続ける。
「何があったんかは知らんけど、そんな細かい事言い出したらキリないやろ、真っ白な人間なんかおらんのちゃうん?」
 また少し間を置いて答える俊子。
「そう言うと思ったわ、私も別にあの田村って人が嫌いで言うとんちゃうで、ただ......」
 英昭は我慢がならず途中で電話を切ってしまった。その続きが読めたからである。
 恐らく俊子はこういう風に言うつもりだったのだろう。
「世間の目というものがあるから、余り良く思われてないような人とは付き合いをしない方がいいと、それが貴方の為だと」
 英昭は俊子に失望した。彼女だけはそんな世相や概念に影響される人とは思っていなかった。もっと深い思慮があると思い込んでいた。
 それが何だ。まるで皆で寄ってたかって田村の事を非難し、その人格を否定しているだけではないか。これでは極端な話、虐めと同じだ。
 それなら仕事とはいえ何故彼に対し愛想良く振る舞うのだ。いっそ出入り禁止にすれば良いではないか。
 こんな考え方をしてしまう英昭はよほど世間知らずなのだろうか。彼女達が大人なのだろうか。繊細な田村はその辺の事まで考慮した上で店に通っていたのかもしれない。であるなら田村に対しても疑いが残る訳だが。
 世の中というものはそこまでして割り切って生きて行く必要があるのか、建て前と本音を使い分ける必要性の多寡はどういう割合なのか、自分が稚拙なだけなのか。
 果てしない悩み。主観でなければ浅はかな二元論でもない。謂わば人間社会、社会構造自体に対する懐疑心。それは英昭がまだ物心がつかない、幼い頃から心の片隅で抱いていた悩みで、恐らくは一生かけても、いや未来永劫報われる事のない森羅万象、万物の永遠の悩みで、神仏でも解き明かす事は難しいのではなかろうか。
 そこに足を踏み入れた者は如何に知性感性理性品性、その豊富な見識、経験を以てしても逃れ得ない宿命(さだめ)である煩悩と闘い続けなければならない。生きている状態でその煩悩を捨て去る事が出来ないのならば、解脱する事も死してのちという、打算にも似た法則が成り立ってしまう。
 結局彼は電話を掛け直さなかったし、俊子も掛けては来なかった。

 梅雨が明けると共に夏真っ盛りになってしまう気象は何時頃から始まったのだろうか。晩秋を待たずして寒い冬が訪れるのと同じで。
 少々汗かきであった英昭は工場勤務という肉体労働の性か、仕事中はその汗を拭うのが鬱陶しくて仕方なかった。
 一つ作業を終われば汗を拭き、また一つ終わればと。大きなタオルが既に水浸し状態になっている様は自分でも頂けない。でも工場で製品を作っている上で精度を保つという事は当たり前であって、もし汗が付いてしまえばそれだけでも精度が落ち、欠陥品になる事も往々にある。
 仕事中に先輩や上司、同僚からも何度となく言われていた事があった。
「お前そんだけ汗かいとったら仕事なれへんやんけ、この仕事向いてないんちゃうか?」
 明らかに皮肉交じりの、揶揄するような言い方に思えた。でも何も言い返せないし言い返す言葉も見当たらない英昭。
 更に彼は直属の上司である作業長にまで宣告されるのだった。
「おい向井よ、お前も結構言われとうみたいやど~」
 この言葉も英昭を悩ませるに十分だった。
 誰が何時、何処で何を言っているのだと。それなら直接言って来いよ、何故陰口でしかものが言えないのか、何故そこまで人の悪口を言うのだと。
 そういう意味では直接言って来た者はまだ優しくさえ思える。ただそれほどまでに多くの者が口にしているのなら、自分は余計な存在ではないのかといった少々飛躍した考え方まで起こしてしまう。
 そこで頼りになるのはやはり田村だった。もはや彼しか居ないと言っても過言ではないだろう。昼休み食事を済ませた二人は人気の少ない休憩所で話し合っていた。
 英昭はありのままに話した。田村は相変わらずといった調子で、
「うんうん」
 と良く訊いてはくれる。それは英昭としても有難かったが、どうも暖簾に腕押しといった感じが否めない。本当に訊いてくれているのか。もしかすると全く関心がなく、既に辟易しているのではあるまいか。
 悪気はないまでも、英昭は一つの策に出る。自分以上に口数の少ない田村の前で敢えてだんまりを決め込み、何時まで耐えられるかという少し狡猾で陰湿な作戦に。
 何時も素早く昼食を摂る二人には40分以上もの休憩時間が残っていた。その中で、それも二人だけの空間に会話がないこの状況は如何にも不自然極まりない。携帯を弄る事も嫌いな二人はただ黙って坐っているだけである。その様は大袈裟な話、僧侶の修行のように見えなくもなかった。
 昼休みに機械等が一切動いていない広い工場の余りの静寂は、一時的にも何処か違う場所へと移動したような錯覚を齎す。
 実に10分以上もの沈黙の時が続いた。口を噤み始めてから3分ぐらいは気が気でならなかった。それが時が経つに連れて慣れて来たのか、逆に口を開くのが煩わしくさえ思えて来る。人間とは不思議なものだと改めて感じる英昭だった。
 そして15分が経とうとした時、痺れを切らしたのか田村が先に口を開く。
「俺も一緒やで、寧ろ俺の方が色々言われとんちゃうかな」
 彼は若干笑みを含んだ表情で英昭を見ていた。それにしても長かった。この15分間が1時間ぐらいに感じる。田村はじっと答えを模索していたのだろうか。英昭はただ田村の出方を窺っていただけだった。
 でも田村のその答えは短いなりにも英昭を安心させるのだった。同胞といえば大袈裟ながらも、やはり彼は自分と同じタイプの人間なのだという安心感だった。
 ただそんな愚痴を殆ど口にしない田村の性格には感心するばかりで、自分が情けなく思えてしまう英昭ではあった。憧れと共に現れる自分に対する悲観視。そのバランス、割合は年々変化し、今では悲観的な思考が勝っているような気もする。
 これが真実ならばもはや憧れなど抱きたくない、何も考えたくない。俄かにそう思い始めていた英昭であった。
 何とか一日の仕事を終え更衣室で着替えている時、またしても嫌な想いをする二人。そこでまでして罵詈雑言の数々を繰り返す同僚や先輩達。彼等はそんなにストレスが溜まっているのだろうか。他に話題は無いのだろうか。
 英昭としてはここがどうしても理解出来ない。彼とて仲良し倶楽部は嫌いな方で、決して馴れ合いで築かれた人間関係などを良しとはしなかった。とはいえここまでしていがみ合う者達を見ていると気が収まらないどころか、その者達を殴り飛ばしてやりたくなる。
 でもそれは流石に出来ない。
「お疲れ様です」
 英昭と田村が皆に声を掛けて部屋を後にする。するとまだ着替えていた者達がにやにやした顔で言う。
「真面目腐った窓際コンビが帰って行くで~、もう来るなってな、はっは」
 業を煮やした英昭は振り返ってその者達に向かって行こうとした。同じ気持ちだったのか、田村までもが乗り気のようだ。
 そこに現れたのが何時か飲みに誘ってくれた一人の先輩だった。彼は英昭の肩を掴んでその動きを制する。
「ええから、放っといたらええねん、俺らもこんな事はしょっちゅうあったから、な、今日は大人しく帰っとけって、あいつらの事は俺に任せとけ」
 冴木というその先輩は英昭としても余り好きにはなれなかったが、確かに頼りがいはあるような先輩でもあった。実際職場でも彼にものを言っている者など殆どいなかった。
 ただ英昭としてはいくら先輩を頼った所で根本的な事が解決しなければ何にもならない、その場凌ぎ、一時的な安泰などは望んでいなかったのだ。とにかく大した理由もないのにやたらと誹謗中傷して来る者の神経が理解出来ないし許せないのである。もしこれ以上言って来るのならいっそ自分も会社を辞める腹を括り暴力行使をするまでだ。後先などどうでも良い。所詮世の中成るようにしか成らない。でもそれが出来なかった自分も許せない。
 ふと田村の表情を眺めると彼も一時は憤っていたが、その怒りは既に収まり、元の悠然とした構えを崩さない何時もの田村に戻っていた。
 そして英昭に対しまた誘いをかけて来る。
「今日も飲みに行こか、やり切れんやろ?」
 英昭は迷っていた。確かに飲みに行って憂さを晴らしたい気分ではある。でもそういう酒の飲み方は嫌いだし、また酔った勢いで俊子のいる店に行ってしまう可能性もある。
「また週末にしようや、じゃあお疲れ」
 決して無理強いはしない田村であったが、その顔つきは明らかに淋しさを物語っていた。

 英昭が一切寄り道をせず家に帰った頃、田村は案の定独り夜の街に姿を現すのだった。
 日が沈んでも暑さが残る夏の夜。たかだか神戸の歓楽街とはいえ、そこに季節を彩るような風情は余り感じられない。残業を終え、疲れた顔で家路を急ぐ者の、誠実にも憐憫な姿。平日であるにも関わらず夜の街に繰り出さんとする者の健気にも勇ましく、それでいて都会に擦れた強欲な表情。
 そんな群衆の中をただ一人堂々と歩く田村の姿は少し浮いたように見えなくもない。一言に堂々と言ってもそれは仕事に行くような、飛躍した言い方をすれば恰も戦地に赴くような、まるで意を決した者の覚悟が垣間見えるほどの雰囲気で、全く余所見をしない彼ならではの歩き方でもあった。
 店に入ると何時ものように愛想の良いママや女の子が田村ちゃんと声を掛けてくれる。彼もその声に促されるようにして普段通りに席に着く。
 こういう店でのママという存在には人格者が多いのだろうか。如何に経験豊富とはいえその気の利かせ方、話の仕方、表情を作り方、一挙一動が正に洗練されており、個人的な好みを除けばまず不快感を覚える懸念は無いに等く思われる。
 それに比べると他の女の子達はやはりバラバラで、ママほど気を遣ってくれる者は少ない。無論そんな事を一々気にする田村でもなかったが、俊子が言っていた店の女の子達の評判というものは実にしびあで、愛想の良い態度とは裏腹に田村の陰口を叩いている者の内心は如何ばかりであったろうか。
「仕事終わったん、お疲れやね」
「うん、ま~な」
 田村の何処か気の入らない様子を怪訝そうに見つめる女性店員。彼女はこの店で一番の古株で、ママの次に気の利く沙也加という女の子であった。
 他愛もない会話をしながら田村はタイミングを見計らっていた。それを無意識に察知する沙也加。二人の間には目に見えない、良くは思えない僅かな軋轢が空気を乱し始めていた。
 何時もより更に口数が少ない田村は少々早いピッチで酒を飲み、懐から取り出した縦30cmほどある綺麗に包装された細長い箱状の物を彼女に差し出すのだった。
 愕いた彼女は手に取って開ける前にこう訊く。
「何これ? プレゼントくれるん?」
「うん、しょーもないもんやけど受け取って」
 若干照れながらも、依然として堂々とした態度でそのプレゼントを手渡す田村。受け取った沙也加は、
「開けていい?」
 と訊いたあと、頷く田村を見ると素早く中身を確かめる。
 中には女性用のネックレスが入っていた。無論イミテーションではない本物の18金アクセサリーだ。喜ぶ彼女の表情は田村を安心させる。彼女は早速そのネックレスを首にぶら下げ、田村や他の店員達に感想を訊く。
「ありがとう~、どうこれ? 似合ってる?」
「ええな~、やっぱり田村ちゃんの本命は沙也加やってんでな」
 一応は想定内の意見が店内に木霊していた。しかし田村はそんな他の者の意見などどうでも良いといった風で、沙也加の顔だけを真正面からじっと見つめている。無言の圧力を感じた彼女は苦笑いをしながら言う。
「何よ田村ちゃん、何か言うてよ、怖いやん」
 満を持して口を開く田村。
「今日は俺だけを相手してくれへん?」
 その一言は沙也加と他の店員達を驚愕させた。田村の気持ちは分からないでもない。でもそれを約束する事は出来ないのが本音で、仕事上の成り行きなどは田村も理解している筈だった。
 そして何よりもその据わり切った目つきを怖れる沙也加。彼女はこういう面で田村の事がいまいち好きにはなれなかったのだった。
 英昭のような小心者が羨む田村の風格は、異性から見ると何でもない事なのかもしれない。でもそれを冗談や社交辞令とはいえ褒めそやしていたのも事実で、沙也加としてはどう答えて良いやら分からない様子だった。
「ま、田村ちゃん、なるべく沙也加を置いとくけど、他の客が来た時は勘弁してな」
 ママが優しくも少し厳しめな口調で田村を宥める。それでも釈然としない田村はらしくもなく、語気を強めて反論する。
「何でやねん、今日一日ぐらい別にええやろ!? 何でそこまで嫌うねん、こっちも一応客やんけ!」
 この言葉は更に女の子達を戦慄させる。中には奥に隠れて悪口を言う者もいた。沙也加も少し不機嫌になっている。冷静なのはママだけか。
「分かった、じゃあこうしよう、他の客が来て沙也加を指名したらその時は譲ったって、もし指名せんかったら今日一日はこのままでええから、それでええやろ?」
 致し方なく首を縦に振る田村だった。もしこれを英昭や俊子が訊いたならどう思うだろうか。俊子は既に田村を嫌っているに違いない。だが英昭は。
 結局この日は平日という事もあって客足は少なかった。お陰で田村は店を出るまで沙也加と二人酒宴に興じる事が出来た訳だが、彼女は無論、田村も本望だったのだろうか。
 2時間ぐらい飲んで店を出た田村は沙也加だけに声を掛け帰って行く。残された店員達は当たり前のように田村の陰口で盛り上がっていた。
 星の一つも映らない、風も吹かない夏の夜空は、余り物事に動じない田村にさえ暑苦しく、ナンセンスに感じられるのだった。












  












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