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志の果てに #7

 数年のブランクを克服するというよりは、寧ろゼロから再出発するつもりで仕事に精を出し、親方や他の職人達ともそれなりに親交を深めて行く修司であった。
 悪癖とも言える、人前で嫌な顔つきをしなかった事は、彼に備わっていて隠れていた、稚拙なまでの素直さが、無意識裡に引き出された為か。
 早や八月下旬。うるさい蝉の鳴き声も少しは落ち着き、暑い中にも心なしか涼やかな風が吹いているように思える。夏至から比べると1時間でも早く沈んでしまう日の光が、何処か淋しく映る。それよりも淋しく感じるのが、修司にとっての夏は毎年、リアルタイムで過去のもの、つまりはその場その時に既に思い出と化してしまう、今を精一杯生きられていないという憐憫で、突き詰めて言えば季節の移ろいではなく、自らが創りだす吝嗇。子供の頃に見た、あの夏の輝かしい光景が今の自分の目では見られない。だがそれが、却って秋という一番好きな季節に対する憧れや崇拝を高めてくれる事は贅沢な皮肉ながら、秋の到来を待ちわびるその心は、夏を惜しむ気持ちよりも数倍の喜びを顕現させていたのだった。
 この前酒に酔いながら目に浮かべた咲樹の顔は今でも鮮明に残っている。今、彼女は何処でどうしているのだろうか。そんな事が常に心の片隅で声を上げていた。でも当然ながら連絡など入れてはいない。
 職場でも先輩の勲から何度も言われる事があった。
「男は押しやろ、お前みたいに消極的にしとったらそのうち忘れられてまうど、な、健太よ?」
 やはり頷かない健太。彼はどちらかというと修司よりな性格を持していたように思われる。しかし、いくら後輩といえども、勲に対し何ら抗わず、愛想を振舞っているだけの修司の態度にも苛立っているように見える。
 迷う事でしか生き甲斐を見出せない修司らしい人生の一端、いや全てを見ているようだ。
 先に連絡を入れた方が負けなのだろうか。そのような短絡的思考がふいに修司を襲う。恋路に勝ち負けなどあるのか。もしあるとすれば、それは取りも直さず、彼が一番嫌う自己欺瞞であった。今の自分は自らを欺いているのか。本当に咲樹と付き合いたいのか。それすら解らない。
 そんなどっちつかずな気分で過ごす夏の終わりは、正に秋にも勝る憂愁感を与えてくるばかりだった。
 人間社会に生きていながら、人からヒントを得たくない修司は、またしても自然の恩恵、天の声を聴こうと仕事帰りに海を訪れる。海は全てを包み込み、全てを洗い流してくれ、更に勇気も与えてくれる。海の無限は万能の力を以て衆生を拒む事なく迎え入れてくれる。
 夕暮れ時に見る少し黒くなった姿で打ち寄せる波は、小規模ながらも、静寂の中にも白波をはっきりと見せつけて、質素な海の粋を示していた。
 微かに聴こえる波音は繊細にも強く、慎ましくも堂々と、精妙な旋律を絶やす事なく、永久的な音楽を奏で続けている。この音だけでも十分に心が癒される。波打ち際に漂うゴミの揺れる姿が何故か汚く見えない。原子から成り立つ、全ての物質が表す強度や美醜というものは、見方に依ってはまた変わった物になってしまうのだろうか。それを自然の、芸術の魔性というのも些か早計に思える所だが、天為という、人間如きが発揮出来ない業を想定すると、真実味を帯びて来るような感じもしないではない。
 港に設置された今にも壊れそうな街灯が一人の釣り人の影を作っていた。大した魚も釣れない港に釣りに赴いたその者は、これからどう立ち回って行くというのか。修司の目には、ただ港を彷徨いながら黄昏ている自分と同質の人間にしか見えない。
 先端にある灯台のある所まで行くものと思い込んでいたその釣り人は、修司から近い、港の岸壁に釣り座を構え、そこで竿を伸ばし始めた。
 修司は一時その釣り人の様子を眺めやった。何時ものように呆然と。竿は何時になっても曲がらない。まるで太公望を決め込んでいる暇人のような漂いを見せる釣り人。年の頃はどれくらいだろう。その落ち着いた仕草からも若くはないと思われる。
 落ち着き過ぎている。夕闇にあってその静かな身体の動きは、逆に怪しい雰囲気を醸し出していた。それが却って修司の関心を引く。
 彼は徐に近寄り、一応の警戒をしながら声を掛けてみた。
「今晩は、釣れますか?」
 男は返事をしなかった。耳が遠いのか、他者と話がしたくないのか。しつこく話しかける事を憚られた修司は、それでも尚、その場を離れようとはしなかった。
 黄昏時とはここまで短いのか。辺りはすっかり暗くなり、明るい月が海面をゆらゆらと泳いでいる。あの三日月に坐って遊びたい。柄にもないメルヘンチックな夢を描きながら水平線を遠くに眺め、静かな波音に心をなぞらせるようにして、心の満ち引きを確かめていた。
 この所作の多くは自然に頼り切っていた。スローな音楽にも、何処か一点だけでも烈しくうねりを上げる一節がある筈だ。その時こそが自分と釣り人との接点なのだ。ここまで来れば後には退けない。恰も恣意的に、無理矢理に作った使命感に準ずるように、そのタイミングを計る修司。
 こんな時こそ無心にならなければならない。意思や意識というものは後からついて来る。己が作り上げた台本を人任せにして都合の良い解釈をする。
 明滅する街灯が釣り人の影を、烈しくシャッターを切るように照らし出した。それと同時に波が俄かに大きな波動を試みた。
「貴方は自分の心を釣ろうとしているんですね」
 衝動的に口を割って出て来たこの言葉は、修司が思考の末、ひねり出した言葉では無かった。そこにも意思が通っていたのだろうか。それすら解らない。ただ当たり前のように、知り合いに挨拶をするかのように放ってしまった言葉。それが釣り人にどういう作用を齎すのか。もし穿った性格の人ならば、暴力を振るわれるかもしれない。誤解して軽蔑されるかも。
 修司に惧れはなかった。あるのは自然と発してしまったこの言葉だけだ。言葉が宙に舞ったあと、釣り人は口を開く。
「あんた、よう見とんな、まだ若いのに、でも浅いな、まだまだや」
 何が浅いというのだろう。修司の懐疑心は言葉には転化されなかった。

 鮮やかに色づく紅葉の大人びた顔色が、街を映画的な雰囲気に融かし始める。三又の矛のような葉形からなる紅葉。輪郭だけは尖って見えようとも、その一片の薄い肌からは、何か絹のような滑らかな優しさが感じられ、風に吹かれる様だけをとって見れば、葉脈の繊細さにも勝る周到な気概と、自然の中にあってこそ表現され得る、恰好をつけない純心であるが故の真の美愛が、この哀愁を際限なく物語っているように思える。
 赤、黄、緑と、様々な色の変化を見せる紅葉の凄艶は、人のそれに倍する美の真価であり、如何な名女優であろうとも自然的に表現する事は難しい。意匠的な美しさでは論外である。しかし年齢に関係なく美しさを巧く表現できる女優の器量も決して侮れず、天賦の才が感じられる。
 思考や価値観の違いは、感性の違いに起因するものか。そこにある美しいものを、ただ美しいと皆が称賛すれば、それは個性が無い事になるのか。醜いものも同じく。
 表現の違いはあろうとも感じている事が同じであるのなら、それはやはり同じ感性を持つ事を証明するものであり、感受性豊かな芸術家も無頓着な凡人も、瞬間的に思い浮かべる形容詞に大差は無いとも思われる。
 然るに事物、事象が表す形姿、光景、情景というものは、あくまでも万人に対する表現であって、特定の者だけに授けられるものではない。とすれば、複雑な表現法を用いる事が芸術なのではなく、料理で言われるような素材の良さを最大限に引き出し、そのものが持つ先天的な本質を見極める事にこそ芸術の髄がある筈で、つまりは感受性、それなくして芸術などは完成されないと言っても過言ではあるまい。
 桜よりもこの紅葉を愛する修司の思いは純粋極まりないものだった。彼は本来平等に備わってあると思われる感受性、それを注ぐベクトルが、たまたま自分の意識に合致したと捉え、少々利己的ながらもそこに自分なりの理解を得ていたのだった。
 しかしながら、それは論理的で合理性のある意識づけであった可能性が高く、彼に内在される真の感性が働いたとは言い切れない。まずは感受性を磨き上げなければならない。その上で、主張を願わない自然的な心の訴えをして行きたい。
 自分の無能さを自覚しつつも、階段を一段づつ上がる事を嫌う修司。高望みと気の多さという欠点を省みない訳でもなかったが、取りあえず思いついたのは優しさであった。無論さり気なく。
 それを成す事は至難の業であろう。咲き始めたばかりの紅葉は少々幼くも見えた。

 修司とは幼馴染であった義久。彼もまたせっかく入社した結構大きな会社を30歳にして辞めてしまい、路頭に迷う惨めな生活を余儀なくされていた。
 ただそうなってしまった理由というのが修司のような人間関係や、社会構造を憂うようなものではなく、金にルーズな性格が災いし、己が怠惰を露見させてしまったが故に、半ば退職へと追い込まれた自業自得な成り行きであり、反省的所産である事に気付いているのかさえ分からないような彼の顔立ちや素行を見る周りの者達は、何時も彼の事を嘲笑い、軽蔑するのだった。
 一言に金にルーズな性格といってもその質は千差万別で、ギャンブル好きが祟った結果ながらもそこまで親しくもない者にまで無心する彼の、無神経な所業だけは、修司としても等閑には出来ず、何時か会った時は必ず一言カマシを入れてやろうと、その機を窺がっていたのだった。
 その時は意外と早くに訪れる。仕事をしていない義久が毎日のように通うパチンコ店。此処は修司の家からも然程離れていなかった為、買い物で前を通る事も屡々あり、その度に義久の姿が無いかと横目でさり気なく見ていたのだった。
 衰退の一途を辿っているように思われるパチンコ産業も、それなりに客足は多く感じられる。以前は修司も嵌まっていたが、今では全く関心が持てず、未だにパチンコなどをしているのかと客達を莫迦にしたくもなる。
 店のドアが開いたと同時にうるさい音が鳴り響く。出て来たのは義久だった。彼のしかめっ面と気の抜けた歩き方は負けを露呈していた。
 元々愛想のなかった彼は、勿論修司にも気付かず、そのまま自転車に乗ってゆっくりとしたスピードで走り出した。
「おい義!」
 修司が掛けた声に何とか気づいた義久はそのおぼこい顔を振り向かせて、無表情のまま返事をする。
「なんや、お前かいや、金貸してくれへんか?」
 何十回と訊いて来たこの言葉。もはや慣れっこになっていた修司も、義久の何時にないふてぶてしい態度は看過出来ず、いきなり本音をぶちまけてしまう。
「お前、何でそんなふてこいねん、金貸して欲しいんやったらもっと礼儀を尽くしたらんかいや、そやろ!?」
 自転車から降りた義久は神妙な面持ちでこう答えた。
「お金を貸して頂けませんか? 宜しくお願いします」
 わざわざ自転車から降りた姿も、言葉も全く誠意を伴っていなかった。全ては外見だけであった。その外見ですら半端極まりない。
 ここまで来ると、逆に憐れにも思えて来る。
「義久よ、お前ほんま相変わらずやでな、色々訊いとうで、お前、同級生とか知り合いに片っ端から無心しとうらしいやんけ、恥ずかしくないんかいや、こっちが情けないぐらいやわ」
「そんなん俺の勝手やろ、お前に何か迷惑掛けたんか?」 
 全く悪びれる様子を示さない義久という男には、神経自体が通っていないのだろうか。一度拷問にでもかけてどんな泣き方をするのか試してやりたいとまで思う修司だった。
 修司は一番嫌いな事とは愛想の無い人間だった。下町に生まれ育った者の性でもあり、現代社会を憂いてしまうが故の悲哀なのかもしれない。
 義久は金を借りれようが借りれなかろうが、知り合いであろうが無かろうが、どんな相手に対しても一貫して不愛想な態度を示していた。
 干渉する気もなく甘やかす訳でもなかったが、そんな義久の性格を忌み嫌う修司は金にルーズな事よりも、その辺の事を言って訊かせた。
 でも案の定義久は一切動じる事なく、まるで親に説教を受ける反抗期の中高生のような、不貞腐れた態度をとっていた。
 言いたい事があるのなら真正面から反論し、腹をぶち割って口論をしたいと考えていた修司。何を言っても暖簾に腕押しな義久のその能面のような表情からは、ただただ人を呆れさせる、羞恥の欠片もない、無色透明な無機質な漂いだけが感じられる。
 能面に隠された義久の真の顔とはどのような想いを象っているのだろうか。面を剥して中身を見てみたい修司の哀切は、この秋の夕暮をして益々深まる一方であった。

 



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