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全体と部分とかかわり

藤平さんは「記事を読みながら、ピンとくる...降りてくる」と述べられています。同じく対話やコラムからいろいろな気づきと思いが掘り起こされている研究員の谷内です。

音楽での体感を述べられている藤平さんの俯瞰と部分へのフォーカスは、俯瞰と仰望(仰視)の対義・反対では無いようです。全貌と詳細(ディテール)や鳥の目と虫の目といった、対応することだと思われます。そして、私たちは鳥瞰的と虫眼鏡的に感じる二つの感覚を並行して持ち合わせていて、なお一見相反する要素への適応と活用能力もあったのだと気づきました。

さて、学生時代に音楽部の友人に、音楽部ではどんな期末試験があるのかと聞いたことがあります。その試験の中には交響曲のレコードを聴かされ(ある部分だとは思いますが)て、その曲を奏でる各種楽器の音を五線譜に書き表さなければならないものがあると言っていたような記憶があります。そんなこと出来るのかと問うたところ、音を聴き分けて表せないと音楽家としてはダメだとか......絶対音感など持って生まれた能力もさることながら、かなりの訓練や修練が必要だろう思います。ところが、この音楽の試験に準じたことを前回の藤平さんだけでなく、その前の冨永さんも体感し、すでに身体知化されているようです。

ところで、この全体と部分のかかわりは曼荼羅にもあるそうです。真言密教の曼荼羅は、真理とされる大日如来を中心にして、周りにさまざまな仏や菩薩が徐々に小さくなって描かれています。その周りにもっと小さな人がいるのだと聞かされたことがあります。周りの小さな仏や菩薩が欠けては曼荼羅が成り立たないように、その周りにいる人も同様に欠けてはならないのだそうです。

ビジュアル化された形式知の曼荼羅はさておき、デザインは全体と部分・ディテールのバランスを常に意識しながら行う作業であり、思考でもあるのです。デザインでのこの全体と部分の思考の根源が基礎訓練のデッサンに有ったのです。以前、デッサンで上手い絵と良い絵の相違を述べま したが、ここではデッサンで培われる能力についてお知らせしたいと思います。

一般的にデッサンは描写力、表現力と思われています。描写された表現は見える、開かれた領域 です。ところでデッサンには隠れた見えない領域があります。すなわち、観察、推測、分析、論理、そして集中、持続する力の獲得です。そして、描いたものを客観視することから、美意識や審美眼が培われます。同時に配置、レイアウト能力も磨かれ、最後に描いた作品から自己確認に結びつくのです。

観察では描く対象を正面、裏面、側面、上面、下面とあらゆる面から見て、そこから骨組みや仕組み、筋肉や空間のあり方などを想像しては分析していきます。考察すると言った方がいいかもし れません。観察から集中を継続的に持続しつつ表現の試行錯誤を重ねることから、対象を客観視できるようになってきます。 木炭紙や画用紙などにデッサンを描く折に、何をどう表現するか、主眼は......そして、どこを切り取るかなどを自分に問いながら考えます。石膏像であれ人体であれ、植物や風景でも同じです。すなわち、表現の全体と部分・ディテールのバランスを考えているのです。注意しなければならないことは、石膏像や人体の輪郭を描いている時は目鼻などのディテールを意識しなければバラン スが崩れます。明暗の調子を作っていく時は形を意識し、形をとるときには明暗を、上を描くときは下、右を描くときは左といったように、常に逆を意識して描いていきます。これが対の思考による調和の取り方の原点になっているようです。対の思考や二項対立から、明るい暗いの色合いの間には無限に段階があり、Yes-Not的なデジタルとリニアなアナログ的な思考感覚が育まれて来 ます。

ところでこの全体・俯瞰と部分・ディテールを見知る感覚と思考は、政治、経済、行政、経営から芸術文化にスポーツも含め、あらゆる分野に通底するものではないでしょうか。そして、全体と部分とそのかかわりへの意識は、日常の生活の中においても忘れてはならないことだと思われ ます。

文/谷内眞之助(Safeology研究所研究員/兵庫・神戸CSの会特別会員)

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