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映画『哀れなるものたち』を考察する(1) 人間の愚かさを描く天才、ランティモスの新境地。

映画的知名度の低かったギリシャで“奇妙な波”と呼ばれた映画ムーブメントを牽引し、2015年の『ロブスター』で英語圏にも進出、いまや世界的映画監督となったヨルゴス・ランティモス。独特の奇妙にねじくれた世界観で映画ファンを幻惑し、かつ魅了してきた異才である。

ランティモスの作風にはいくつもの際立った特徴があるが、一貫して感じるのは人間に対する懐疑的な視線である。もっと平たくいえば、彼の映画からは「人間とは幼稚な生き物である」という、いささか極端でミもフタもない人生哲学が感じられるのだ。

ランティモス作品の登場人物たちはたいてい、閉鎖的な環境にとらわれて、精神的な成長を押し止められている。『籠の中の乙女』(2009年)の子供たちは外の世界は危険だからと自宅の中だけで育てられ、『ロブスター』(2015年)の大人たちは子孫を残すことを強いられ、伴侶を見つけられなければ動物に変えられる施設に入れられる。

『女王陛下のお気に入り』の女たちは、王宮内の政治を愛欲まみれの三文メロドラマに貶める。どれも「人間は本質的に愚かであり、知性や良識が左右する余地などない」と言わんばかりだ。

『哀れなるものたち』にも、ランティモスが好んで描く“幼稚な人間”がわんさか登場する。しかしどうやらランティモスは、ついに世界や人間を描く視点を変えた。ランティモスが惚れ込んだ原作小説の精神に忠実であろうとしたからなのか、ランティモスの内面が成長なり変化を遂げたからなのか、今回限りのちょっとした酔狂なのかはわからない。

が、映画『哀れなるものたち』は間違いなくランティモスの新境地であり、人間の可能性を信じ、未来に希望を見出そうとする試みにすら思える。

読者を翻弄しまくるトリッキーな原作小説

『哀れなるものたち』は、スコットランドの作家アラスター・グレイが1992年に発表した同名小説の映画化である。物語は19世紀末のロンドンからはじまる(原作ではグラスゴー)。若い身重の女性(エマ・ストーン)が橋から身投げし、その遺体が天才医師ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)によって蘇生させられる。

ただし死んでしまった女性の脳の替わりに、お腹にいた赤ん坊の脳を移植して。かくして生まれ変わった女は“ベラ”と名づけられ、まっさらな精神と成人女性の身体というアンバランスな状態で、人生と世界をゼロから体験し直していくのだ。

原作では、ベラの創造主となるゴッドウィンと、ベラに恋する医学生マッキャンドルス(ラミー・ユセフ)が年齢の近い友人同士であるなど微妙な違いはあるが、物語上の役割はだいたい同じ。

最大の相違点は、ランティモス監督が、複雑な入れ子構造になっている原作小説の一部分(全体の約70%ほど)のみを映画にしていること。以下、少々ややこしい説明になるが、どうかお付き合いいただきたい(映画と原作についてのネタバレがあるのでご注意ください)。

まず原作小説は、「壮大な大ボラのかたまり」とでも呼びたくなる、非常に人を食った作品である。というのも、作者であるアラスター・グレイを含めて複数の語り部が登場するのだが、全員の語っていることが疑わしくて、読者が誰を信用していいのかわからなくなるようにできているのだ。

原作はグレイ自身による序文からはじまる。グレイは知人から20世紀初頭に自費出版されたとある書物を紹介されて、大いに興味をそそられる。その書物の著者は、医学博士のアーチボルド・マッキャンドルス(映画版ではマックス・マッキャンドルス)。マッキャンドルスは自叙伝という体裁で、妻ヴィクトリア(=ベラ)の驚くべき冒険の顛末を赤裸々に綴っていた。

しかもその書物には「ある天才医師が遺体からひとりの女性を創造した」ことが書かれていた。グレイはさまざまな歴史的事実と照らし合わせ、書物の内容は「すべて事実」だと確信。補足資料や脚注を加えた上で、改めて出版し直そうと思い立ったという。

ところがその書物には、マッキャンドルスの妻ヴィクトリアの手紙も添えられていた。ヴィクトリアが子孫に向けてしたためた手紙によれば、本の内容はヴィクトリアの実人生をグロテスクに歪曲したデタラメで、夫が捏造した“狡猾な嘘”だという。そしてヴィクトリアが自らの生い立ちを語りだすと、映画でも描かれている“ベラの冒険と成長の物語”とは様相がかなり異なっている。

原作小説『哀れなるものたち』全体図

つまり『哀れなるものたち』の原作小説には、①夫マッキャンドルスが描いたベラの破天荒な半生記と、②妻ヴィクトリア(=ベラ)が手紙に書いた体験談という、矛盾するふたつの物語が並列されている。

さらにマッキャンドルスは自叙伝にベラとダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)の手紙も引用しているから、作者のグレイも含めると原作の中に5種類の一人称パートが混在しているのだ。

序文の中でグレイは、ヴィクトリアのことを「自分の人生の出発点を隠そうとする精神障害の女性」とまで批判し、彼女の主張に疑義を呈している。グレイは読者に対して「遺体に胎児の脳を移植してベラが生まれた物語」こそが真実だと信じるようにと要請しているのである。

にも関わらずグレイは、かなりのページを割いてベラ=ヴィクトリアの後半生を入念に紹介していて、それが史実を含んだ“第三の物語”になっているのだから余計にこんがらがる。“真実”は人によって一様ではないとしても、読者としては「主人公のベラが人造人間か否か」くらいは知っておきたいのが人情というものではないか。

結局、読み手は矛盾に満ちた膨大な記述をさまよいながら、作者グレイが伝えようとしている“真意”をつかもうと必死にならざるをえない……という、非常に厄介な趣向の小説なのだ。そこでこの物語の歴史的な背景をたどりながら、ランティモスが原作をいかにアレンジし、どんな方向性を意図していたのかについて考えてみたい。

文=村山章  text:Akira Murayama
Photo by AFLO


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