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その日の2か月前の人生

「先生は生徒から人気がありますね。」
「先生が来て、私も日本語の会話力が上がりました。」
「いつ帰りますか。お別れ会をしたいです。」

こんな風に同僚から声をかけられる。
同僚の会話力が向上したのはひとえに私の中国語力の低さによるものだというのはおいておくとして、ちょっとした気づきがあった。

仕事というのは責任をもって働けば働くほど、嫌われたり敵が増えるものらしい。学校(生徒・同僚)や会社を振り返ってみても、たしかにな、とおもう。うまく立ち回っている人もいるが、よく見ると「実質代わりに仕事しているの地味なほかの人じゃん」ということがよくある。

前回赴任時、私は生徒から人気がないほうだった。まったくないというわけではない。どんな人でも2割からは毛嫌いされ、2割からは無条件で好意を寄せられるらしいし。本当かどうかは知らない。

なぜそう思うのかというと、とにかくよく働いていたからだと思う。コマ数を持ち、宿題を催促し、これまで培ってきた詰め込み式受験用日本語指導で成績アップ&大学合格率アップを掲げる学校の目論見に沿おうとしていた。信頼関係をスキルや経験で補おうとしていた。

こちらの人は受け入れ力は高いが実はウチとソトをしっかり使い分ける。しかし、一度実績を作っていしまえば、という部分があるのだ。椅子を作るために、私は当時学校のほうを向いていた。

2回目の赴任は、そうはいかなかった。
突然の帰国と、それまでの途中経過をもっての判断、残り任期の少なさのためか戦力としてはあてにされていないことはコマ数から言って明らかである。
またコロナ禍の休校を取り戻すためにただでさえ余裕がないことも想像に難くない。

そこで私は教員に向け力を注ぐことにした。その甲斐あってか最近では関係も深化し家を行き来することも。教員に注いだものは、生徒に、学校に還元されるだろう。

私が担当しているコマも、もともとは心の保健の時間だったそうだから、学生をほめてほめちぎって気持ちよくさせた。嘘でも気持ちよくノリノリで勉強できたらそれは嘘じゃなくなる。
昼休みも空き時間もなんとなく学校で過ごし、周りの人となんとなく交流しながら過ごした。前みたいな教員らしさは薄くして。あと学校外の地域の人ともなんとなく生活の中で交流を深めてみた。学校内と外ってやっぱり何か違うような気がした。日本でもそうだもんね。

そうやって過ごしていたら、昨年まで逆方向に行っていた日本側の狙いに沿った活動になったような気がする。狙いは国ごとに違うけど、共通する大枠は青年であるというところがヒントであろう。あと教員隊員、学校派遣の多さ。

2回に分けて派遣されたから気づいたことがいくつかある。
あのまま帰国せずにここにいたら、いまどんな生活をしていただろうか。
想像でしかないけど、あまりいいことにはなっていなかったように思う。
今思うと、最初の派遣時に三方(私・活動先・日本)がおなじ報告を向ける活動の方法もあったのかもしれない。国によっては、真の思惑が一致するわけのないパターンもままある中で、模索する余地はあったのかもしれない。

「いつ帰りますか。」
との質問には任期終了日を答えた。
まだここを離れる日は正確に聞いていないから。

「お別れ会はうれしいけど、あと2か月あるよ」とみんなで笑ったけれど、ほんとは手続き上ここにいられる時間はもっと短い。

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▲出勤すると、机がジャンプ色になっていることがよくある。

最後に。
最近仲良くしている同僚宅で、よく一緒に遊んでいる彼女の子(4歳くらい)から恥ずかしそうに言われた言葉。(正確には母親に耳打ちで伝えていた)
「ママー。日本語の先生のお姉ちゃんと日本語で話したい」
なんとなくうれしかった。

約2年前、着任時に留学経験のある生徒からまっすぐに言われた
「先生のお世話はしなければいけないことです」(日本では地域の人に本当に親切にしてもらったから、その恩返しはしなければならない)
を思い出して、少しは引き継げているのかなと、すこしだけ実感を持ちました。すこしだけ。こんな時だから、ちょっとうれしい。
引き継ぎこぼしばかりだけれど。

難しいことはわからないけど。できることだからしている。

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▲鴨鍋。
労働の後で同僚たちと。鶏というよりチャーシューのような肉質でした。

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それではまたね。

同僚からトマトと卵の炒めものの作り方を教わったので、帰国したら作ろうと思います。


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