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はてしなく遠い場所に行くための話

今日のお仕事のお供は、ジブリメドレーだった。先週、魔女の宅急便を見ながら夫が「久石譲さんはすごいねえ」なんてぽつりと呟いて、「ほんとだね」と言ったけれど、実際のところジブリの曲はそんなに好きではない。いや、好きなんだけど、なんていうの。作品以外のところでひとりで聴くと、その存在感が大きくなりすぎて、心がきゅっとねじれるみたいになる。ずっとそう思ってきたけれど、いい加減おとなになったのだしむやみに寂しがらず、それを見つめてみようかしらっていうわけで、今日はまとめてずぅと聴いてみたっていうわけです。

それで、はっきりわかった。ジブリの音楽はやっぱり切ない。夕暮れ時にいつも感じていた、だれにも見せたことのなかった心の中を綺麗にくり抜いたみたいな音色がする。机の下に隠れて折り紙の裏に日記をかいた時間や、冷たくなった指先でタイヤの遊具の上に座って友人を見送った時間を思い出す。帰る場所がすぐそばにあるのに世界のなかで取り残されたような気持ちになって、扱い切れないさみしさが溢れて、でも同時にこの先もずぅとこういう時間が自分に待ち受けるのだろうとさみしさを受け入れていこうと思った、そんな瞬間が詰まったような音色。これだ、これに違いない。と、思ったのだけれど、ねえみなさん、そう思いません?

と、そんな具合にジブリで胸をきゅゅとさせながら、ぽちぽちと仕事をして、ふいに仕事メモを見ると「あれもやっていない、これもやっていない」と途方もない気持ちになった。「やばい」という焦りを、わたしは結構抱きやすい。やりたいことは山ほどあるけれど、その作業量を思うとめまいがしそうになったり、行きつきたい場所はたくさんあるけれど、その道中の長さを思うとくじけそうになったり。それでハナから諦めてしまうときもあれば、焦り出すときもある。「もうこんなことしていられない、急がなきゃ」って具合に。

そういうとき、わたしはこう唱える。
「ほら、思い出さなきゃ。ベッポのことを」。

ベッポというのは、ミヒャエルエンデの『モモ』に出てくる掃除夫のことだ。彼の言葉は、大学生のころに心に沁みて、なんどもなんども思い出している。

ちょっと長いけど、台詞だけを割愛しながら引用してみる。

「なあ、モモ、」

「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう」

「そこでせかせか働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ」

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな」

「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな。たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ」

「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない」

「これがだいじなんだ」

たとえば書籍を書きたいとき。一冊まるまるを見つめながら「これを全部書こう」と思うとめまいがする。絶対に無理、こんな文字数を書けるわけない。と思ってしまう。
たとえば物語を作りたいとき。30分の脚本を書くまえにはちょっとひるむ。「30分ってことは、原稿用紙×枚で…それを○日後までにってことは……」。

でもそういうとき、ベッポを呼ぶ。
頭の中で、おそろしくながい道路を前に、立ち尽くしているベッポを描く。
「こんなのは無理だ」と途方にくれているベッポに話しかける。

「やろう、ベッポ。つぎのひと掃きのことだけ、考えながら」。

果てしなく思えることも、今をきちんとたのしんでいれば、かならず終わりが来る。そう言い聞かせて、つぎのひと掃きだけを楽しもうと、幾度も気を引き締め直す。遠くを見ていいのは、その姿に憧れて勇気が出るときだけだ。

たのしんで積み重ねる。そうすることで、じぶんでも驚くような遠いところまでいけるはずだとずっと信じている。

実際、明日で私はフリーランス歴5年めに入る。
ずいぶん遠くまできたものだよ、本当に。



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