ラッ!

昨日くらいに書いた楽しさと世界の関係についてもう少し書いてみたいです。

私の世界の楽しみ方と言えば、世界をとらえる新たな枠組みに気づく、虫眼鏡獲得型の楽しみ方です

これまで経験的に見聞きしていたものへ、より違った解釈、分析、判明が与えられることの喜びはなんとも尽くしがたいものがあります、筆舌には。

例えば、空が青いのはなぜなのか、という問いに対して「我々は光で世界を見ていて、加えて散乱という現象があり……」と科学的に回答するのがまず初めに与えられる経験に即した客観的な説明です。
しばらくすると「空が青色をしているのではなく、空のあの色を”青”と呼ぶことにしたのだ」という言語ゲーム的な解説も、ある程度の納得感を持って受け入れられていることを知ります。

初発の疑問は同じ「空が青いのはなぜなのか」であったのに対し、異なる二つの水準の究明を与えることができるのです。

初めからそもそも疑問に思っていたことの水準からして違うのか(そうだったとしたらふたつの究明が与えられるのは当然であると言える)、人によって納得するための条件に差があるのか、ともかくこのようにして解決の多様性から複数の見方があることを知ることができます。

これがま~あ楽しい すこぶる楽しい

より少ない言葉でたくさんのものを説明すると「世界というものはなんと整然として美しいのだろう」と思うし、逆に、より多い言葉で(文字数が多いって意味じゃないよ)ひとつのものを説明すると「なんと複雑でいて豊潤なのだろう」と思います。豊潤はワインすぎるかな、最初は「そんなしちゃったらもう止まらないじゃん」と思った

どちらの立場に立つことも可能だし、その楽しさを得ることができます。片方しか認められないともう片方を過大過少に見積もってしまうことになって危ういですね。そこにはリスク管理があります。 人には人の受け止められる複雑さがある。

でまあ私は単純なほうからより複雑なほうへ行くのが楽しいんですけど、一つの虫眼鏡をより洗練させ、様々な倍率で、様々な持ち方で世界を見渡すような、オールインワンな世界解釈へ向かうやり方もあると思うんですよね。

場合に応じてこれとこれ使ってたけど、これ一本でいいじゃないかと

そうやって効率性に従ってかどんどん世界が見やすく、処理能力に見合うような世界像が作られていくんですね……

どこに行くにしても、行き道がこの種の楽しさで舗装されているのは、世界にある幸運の中でもとりわけ優しい幸運だと言えそうです。


情に厚い人になりたい……

こんな、ずっと世界の話してる人になりたくないかも

まずい! 軽い自家中毒に陥っているぞ

グサ!(投薬)


ふー

「解像度」という言葉がめちゃくちゃ使われているけども、安易に使われすぎていることはいったん置いておいて、でもそれだけ世界の一側面をよく言い当てている比喩なのだと思います。

この比喩に則って言うなら、私の言いたいことは、まず解像度を調節できる! というそれ自体の喜びと、その調節に驚きと喜びが伴うことの嬉しさがある、ということです


どのような種類のすばらしさも、そのことを素晴らしいと思えるようになっている世界のほうのすばらしさへと吸収させてしまう、という悪癖があるかもです。


色々そのままにしちゃっています