07/25 完全にアクセスできない

きょうわりとなんもない!

日記を入れておく箱ができました。 あとから自分の日記を見返すことのつらさを過去に書いている 読むのはつらい

過去の自分を否定も肯定もしないけれど、それが今の自分と結びつけられて語られるのは我慢ならないと思う。

最近時系列分析を勉強しています。 過去の自分が現在の自分に与える影響のことを考えています。 しかし本当に考えるべき重要なことは、完全に減衰してしまって今の自分へなんの影響も与えていない要素や出来事のことだろうと思います。

現在の自分をいくらしげしげと確認してみても出てこない、失われてしまったこともまた自分を構成しているもののひとつだろうと思います。 それは今私にないものから逆算して推測する方向と、微小に残っているものから徐々に膨らませて思い出すような方向があるかと思います。


例えばなんでしょうね、私が興味がないといえばサッカーですが、幼少の頃はクラブに行かされていたような気がします。 物心がつくかつかないかギリギリのところだったので、何をやっているのかわからないでやっていた気がします。

今思い返そうとするまでサッカーのクラブに通わされていたことも忘れていたのですが、まあ思い出せるもんです。

それでまあ、本当に気になるのは思い出せないことの方ですね。 どんな方法でも思い出せないようなこと。 普通の意味でそれは重要ではないから忘れてしまったのだろうけれど、まさに完全に忘れてしまったというそのことによって、その出来事は別種の重要性を帯びています。

身体も心も記録でさえもそのことを忘れてしまって、もう完全に、時を戻すまではそれを見るような手段がないようなことが、きっとこれからも生み出され続けるのでしょう。

そういうものの存在を認めることは、他者に敬意を抱くことと密接に関係している。

例えば私が今ここでコイントスをして裏か表か確認し、その結果をどこにも記録せず、私が覚えているだけにしてしまうことが可能だ。 他者が私をどれほど痛めつけ、自白剤などで「裏だった」とかを言わせたとしても、実際にどうだったかはわからないのだ

その事実は他者に対し無数の畏敬を抱かせる事実なのだ。

完全にアクセスできなくなってしまった事実というものがある、ということを知ることは、普通の重要性の世界ではなんの役にも立たないかもしれないが、だからこそ逆転した価値がそこに発生する。


色々そのままにしちゃっています