おとのけものです
来てくれてありがとう
前回の左衛門は!? 薬を飲んでいた。色々あり、決まった時間までシャキッとできるシンデレラの薬と、いい感じのとこでストップできる音ゲーの薬を飲んでいます。
薬の効きは良くって、生活は以前よりも円滑に進んでいます。副作用があって、精神に関わってくる薬の副作用だからやっぱり精神に関わってくるわけです。既存の精神形式の中で何かが変わったのか、それとも形式そのものが変わってしまったのか、自分では見分けはつかない。そのことが喜ばしいことかどうなのかもわからない。
以前はいたずらにいろんなものに感動していたと思います。いつも見ている椅子を少し大げさに見ると感動できる。椅子から読み取れる情報を過剰に読み込んでみたりする。わざと頭の中を椅子でいっぱいにしてやるとウワーッすごいとなる。薬でラリっているかのようですが、これはお医者にかかって薬を飲む前のバニラでの出来事なのです。薬を飲んだ今ではできないというか、やろうと思わなくなった。やってみますか。 できませんね。
来てくれてありがとう
むつかしい本を読んで人生なんとかなるぞと思っていた時がある。今もそう? 知識はそれ自体が達成を帯びている。知られていなければ知識ではないから、知識は必ず知られている。 「自体的」のことを思う。何か目的を達成するための道具として知識を有するわけではなくって、知られること自体が目的であるような知識がある。なんのためにそれを知るかというと、それを知るためにそれを知る。
存在の無根拠なところはなんとなく嫌だ。私は決して何かのために生まれてきたわけではない。そのことが嫌だ。何かのために生まれてきたかった。大小関わらず物語が失われたあとの、むき身の生がやってきていて、すべての時間が均一に感じられる。
存在の無根拠なところはなんとなく好きだ。私は決して何かのために生まれてきたわけではない。そのことが好ましい。ここには全員いると思う。つい全員のことを考えたくなってしまう。全員は私に何かしてくれるわけではないのに。すべての人間が均一に感じられる。
帰れ
とは言えもう少し話します。私は普段、人の目線に怯えております。それは自分の目線に怯えるように怯えています。つまり、自分でわかっている自分の嫌なところがあって、そこを見られるのを怯えています。自分の嫌なところはなんだろう。すごく愛らしいではないかとは思うものの、自分でそう考えているところはやはりどこか不気味に感じられます。どれだけ身なりを整えても、骨身に不自然さが残っていて、調和の取れていない見た目をしているところとか苦手です。
好きなところはあげだしたらキリがないのでやめておきます。
生活がとめどなく始まっています。私は生活力がないけれど、頭はよいところも残っているから、検索をしていればなんとかなろうというつもりがあります。生活はほとんど全員しているから検索でアタリをつけて、そこから微調整をするだけでなんとかなってしまいます。ときどきそのことにムカっ腹が立って、もっと破綻しろと思うのですけど、破綻のやり方は検索しても出ない。
人格の根っこまで検索でできているような感じの人がいて、そのことが幸運なのか不幸なのか考えることがあります。いやそんなことは考えないか、単にあわれみを示すだけです。
「人生 意味」で調べて、人生の意味53選の中から10個くらいを詳細に眺めて、自分に合ってそうなやつをそのまま生きる意味としているような人がいると思うし、これまでにたくさんいたと思います。そのことが悪いことである、とは、その選ばれた人生の意味においては言えないのだと思います。そういうことがある……そういうことがあることは良いとも悪いとも言えない。
その種の、生の意味の検索に類することができなかった時代もあったのだろうと思います。私はそういう時代のことが世界的な戦争があった時代よりも怖いと思ったりするのですが、それはなんででしょうね。やっぱり私もなんだかんだで自分の使っている意味の順位が何位であるかくらいは気にしているからでしょうか。
終わりです。なんだかずっと同じことを話しているような気がするね。
色々そのままにしちゃっています