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チベット便り015 ティロパとナロパ

ナマステ!今日は、11世紀にチベット密教カーギュ派を開いたマルパの師ナロパと、ナロパの師ティロパのお話。ちなみにダライ・ラマ14世はゲルク派。

絶賛やさぐれ中。許せないのは、私の心が狭いからなのか?「仏性育ち待ち」のようなスタンスに、「ナロパ目指してるわけじゃねぇし。」と悪態をつく。

Forgiveness doesn't mean forget what happened. If something is serious and It is necessary to take counter-measures, You have to take counter-measures.

許しとは、何が起こったのかを忘れるという意味ではありません。 何か深刻で対策が必要な場合は、あなたは対策を取らなくてはいけません。

私は、悟りを開くよりも、先に対策を練りたい。深刻度は、人それぞれで、尊重なしのティロパ並み横暴に「ナロパじゃねぇって何度も言ってんだろ。おめぇに弟子入りしてねぇし。」と言った。

あなたを傷つける人に出会ったら、忍耐と寛容を覚えるチャンスだと思いなさい。ダライ・ラマ14世

とはいえ、とはいえですよ。シャバ僧の生臭坊主の私には、まだチャンスとは思えない。

ティロパ (988-1069) インド ベンガルのチッタゴン(現バングラディシュ)でブラフミン階級(司祭階級)に生まれる。タントラ的療術師でありカーギュ派に属する大覚者。ブッダガヤでダーキニー(精神的に成熟した女性指導者。鼓舞者。)の教えに従い、出家。ガンジス川沿いに住み、インド各地を旅しながら、たくさんのグルから教えを授かった。ナロパに12年かかって渋々伝授した「マハームドラー」(偉大なる印)は、ティロパがその技法を現し、カーギュ派が伝承している。(ゲルク派も実践している。)

ティロパが現したマハームドラーは、菩提を達成するプロセスを大いに速める精神霊的な実習の一式のことで、ムドラーはヒンディで「封印」「印章」を意味し、仏教において、主に手と指で様々な形を作り、仏、菩薩、諸尊の内証を表示する、象徴的、儀式的なジェスチャーやポーズのこと。

「印」は「結ぶ」と表現し、修行者が本尊と融合するために、その本尊の印を結ぶこともある。密教の発達に伴って、相が定まり、意味が説かれるようになった。それぞれの印相には、諸仏の悟りの内容、性格、働きを表す教義的な意味があり、印相によって、その仏像が何であるのか推測できる。

マハームドラー 儀式的な手のジェスチャー、タントラの実践における一連の「封印」の一つ。「空」としての現実の性質、心の性質に焦点を当てた瞑想手順、空虚さを非二元的に(非相互接続性)認識する生来の至福に満ちた知識、洞察。タントラの道における仏性の至高の達成。現実の経験の中で、それぞれの現象が鮮やかに現れることを示し、マハーの部分は、概念、想像、投影を超えているという事実を指します。

バラモン階級の王族に生まれたティロパは、「托鉢と巡礼として在るように」とダーキニーから教わり、禁欲性格を送った。たびたびダーキニーの助言を受け、僧の誓いをたて学者になった。

一方、ナロパはベンガルのシュンリ(ベンガルのヒンドゥ階級)の家系に生まれ、28才でナーランダの仏教大学(5世紀から12世紀に繫栄した世界最古の大学)に入学。偉大な学者になり、討論者としては「北門の守護者」の称号を獲得し、多くの学生から支持されました。

ある時、ナロパのもとにダーキニーが現れ、仏陀の教えであるダルマという言葉を理解しているかと尋ねました。ナロパは言葉自体も、意味も理解していると答えました。ダーキニーは涙を流し、ダルマを理解しているのはティロパだけなので、あなたは偉大な学者であるか嘘つきであると答えました。

ナロパは、ティロパという名を聞いた時、強烈な献身的気持ちを経験し、完全な達成を実現するため、教師を見つける必要があると気づき、大学での勉強と地位を放棄し、ティロパを探し始めました。

(大学のバルコニーで、正門のわきの乞食達が、偉大なるヨーギ、ティロパの噂話をしているのを聞き、ティロパを師と仰ぐ自分を予感し、ティロパを探すという説もあります。)

ナロパは、ティロパを探しながら「12の小さな苦難」として知られるものを経験しましたが、すべての苦難は悟りへの道のりに隠された教えでした。

一年以上探し歩き、ついに、小さな漁村で漁師にティロパの事を尋ねると、「偉大なヨーギの事は知らないが、ティロパなら、あの川のほとりに住んでいる。あいつは怠け者で自分で魚を取ることもできず、人が捨てた魚のはらわたや頭を食ってる始末だ。」と答えが返ってきました。(実はティロパは、ダーキニーの「魚のはらわたや頭を食べなさい。」という教えに従って暮らしていた。)

ティロパは、ナロパを弟子として受け入れ、その後12年間ともに暮らします。「どこかの台所からスープを失敬してきたら、教えを授けよう。」そんな師の言葉に、ナロパは、どこかの台所に忍び込み、料理人と家の主人に袋叩きにされます。何とか一杯のスープを持ち出し、血まみれになりながらティロパに渡します。飲み終えたティロパは、「もう一杯持ってきて。」ナロパは、もう一度台所に戻り、半死半生でティロパにスープを渡します。ティロパは飲み終えると「ありがとう。どこかに出かけるとしよう。」と言いました。

ヒルがいる堀で「渡りたいから、橋になっておくれ。」と命じ、ナロパを水の中に横たわらせ、無事に渡り終えたティロパは、全身ヒルに吸い付かれたナロパを置き去りにします。

こういうことが、たびたび繰り返され、ナロパの忍耐は、頂点に達します。それを見逃さなかったティロパは履いていたサンダルを脱ぐなり、そのサンダルでナロパの横っ面を、嫌と言うほど張り飛ばしました。

その瞬間ナロパは、ティロパのマハームドラーの教えが心中にひらめき、悟りを得ました。これが、アビシェーカ(入門)だったと言います。

盛大な祝宴が開かれ、ティロパは言います。「私に教えられるすべての事はナロパに伝えた。今後マハームドラーの教えは、ナロパから受けよ。」「ナロパは私に継ぐ第二の王者である。」その後、ティロパは、初めて教義の詳細をナロパに説明しましたとさ。

修行の足りない私には、ティロパの教え方はパワハラとしてしか見れず、ナロパにしても、どんだけマゾなんだって思ってしまう。

ナロパがティロパに出会えた時の漁師が言ってたことでもわかるように、乞食も聖人も、相手のどこを見るかってことだけで、乞食が聖人になり、聖人が乞食に見えたりもするわけだ。紙一重、または同じ。

ただのパワハラも、受け手が望めば「教え」になり、その現実からも何かを学び取ろうとすれば、苦難や苦痛も「教え」であると気づくのかもしれない。過去を無駄にしないためにも。

ティロパがナロパに教えた事は、たくさんあり、元のサンスクリット語は現存せず、チベット語への翻訳で伝わっている「6つのアドヴァイス」では、1、思い出さない。(過去を手放す)2,想像しない。(未来を手放す)3,思わない。(今を手放す)4,調べない。(理解しようとしない)5,コントロールしない。(何かを起こそうとしない)6,休む。(リラックスして休む)だそうだ。

ナロパは、ティロパのさまざまな教えを受けながら、「12の大きな苦難」と、道のりにあるすべての障害を克服するための訓練を受け、マハームドラの完全な実現で最高潮に達しました。

ティロパは、ナロパへ歌によってマハームドラーの指示を与えました。ガンジス川で歌ったため「ガンジス・マハームドラー」として知られています。

1,マハームドラは、すべての言葉や象徴を超越しています。ナロパよ、真剣で忠実なあなたに、これを言わなければなりません。

2,奈落は信頼を必要としません。マハームドラは無に帰しています。

奈落(サンスクリット narakaの音写。仏教の世界観における最下層に位置する世界。地獄の領域、苦しみの場所。ヒンドゥでは、魂が罪の償いのために遣わされる場所。死者の王、ヤマが裁き適切な罰を科す。

3,努力することなく、しかし自然であり続けることで、人は束縛を壊すことができ、それにより解放を得ることが出来ます。

13,マハームドラでは、罪はすべて焼かれます。マハームドラでは、この世の牢獄から解放されます。これが仏法の至高の松明です。それを信じない人々は惨めさと悲しみに吞み込まれた愚か者です。

14,解放のために努力するには、グルに頼るべきです。あなたの心がグルの祝福を受ける時、解放は間近に迫っています。悲しいかな、この世のすべてのものは無意味です。それらは悲しみの種にすぎません。小さな教えは行いに繋がります。人は偉大な教えに従うべきです。

16,儚い世界は、この世界です。幻影や夢のように、物質は何も持っていません。世界もあなたの親戚も把握してはなりません。情欲と憎しみの紐を断ち切り、森や山の中で瞑想しなさい。もし、努力なしに、あなたが緩やかに「自然の状態」に留まるなら、すぐにマハームドラーは勝利し非達成を達成するでしょう。

21,実践者は最初、自分の心が滝のように転がっていると感じます。途中、ガンジス川のように穏やかに流れます。結局のところ、それは、子供と母の光が一つに融合する広大な海なのです。

ダライ・ラマ 「ダライ」はモンゴル語で「大海原」を意味し、「ラマ」は教師を指すヒンディの「グル」に相応するチベット語である。


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