ペルリ殿。暑中お見舞い申し上げます。暑中のお見舞いを申し上げるとか、ジャップって超意味わかんないでしょ?ペルリ殿のいる天国には、暑いも寒いもないだろうし、命の尊さを知らないペルリ殿のような感性をお持ちの方は、相手が暑かろうが寒かろうが関係ねぇと思うけど、私のいる北半球の小さな島は、今、夏真っ盛りなのです。
ペルリ殿が来た頃よりも、最高気温は上がっていますが、日本の夏が暑いことは何年前でも変わりません。琉球に行ったことがおありなら、当然わかっておられるでしょう。
沖縄や広島、長崎の民間人が犠牲になったのは、暑い夏のことでした。現実は、私の空想力をはるかに超えるものでありました。東京、横浜でも空襲により多くの民間人が尊い命を奪われました。苦しみ、痛み、悲しみが蔓延し、憎しみや恨みも生まれました。しかし、みんなが助け合い、復興に尽力して現在に至ります。そういった中で継ながれた生命として、会ったことのない先祖、世話になった祖父母、父母への感謝の心が、私の原動力です。
この記事は、夏に書いたもので、ここで筆が止まっていました。今、加筆をしているのは、最近、とある観光協会がペリ公を推していて、終わってんな。と思ったからです。誰を呼びたいんだ?不思議。ペリ公の正体を知らないでやっているのか、観光協会が腐っているのか。とにかく、やべぇ。ペリ公、良かったね。あんたの事好きな人いるみたいよ。まじ意味わかんねぇ。
ヅラが大任を果たした90年後に日本に起こったこと
こうしてみると、欧州の王国同士、民族、宗教間の争い、に諸国を巻き込むただのバスタード集団じゃねぇか。日本の場合、そっちからズカズカやってきて、思い通りにならないからって、民間人が殺され、広島、長崎に原爆まで落とされてんだ。結局、私は「原子爆弾を落とすような鬼畜だもんなぁ。」とか、「一つの民族を根絶やしにしようという発想、実際に虐殺をするような鬼畜だからねぇ。」と思っちゃう。実際に祖父は硫黄島で戦死しているから。原爆投下ですら、トンデモ理論で正当化しようとすることにも腹が立つ。
近年公開された硫黄島奪取後の米海兵隊の戦利品を笑顔で披露する海兵隊員の映像に虫酸が走った。戦死した日本兵の銃剣や刀、寄せ書きされた旭日旗などを、カメラに向かって笑顔で披露していた。私のおじいちゃんの物だったかもしれないと思うと涙が出た。(会ったことのない私のおじいちゃんは、硫黄島に上陸する前の船への爆撃で戦死したと聞いているが、定かではない。)
硫黄島の星条旗 腐乱苦燐
ピューリッツァーだか何だか知らんが、この写真も、写真を元にした記念碑も、私にとってはムナクソだ。腐乱苦燐は、骨の髄まで腐乱している。やっぱり、こいつもメイソンリー。
沖縄の地上戦
民間人が犠牲となった数々の悲劇
原爆投下 降伏を促すためと装った無差別殺戮
これに懲りず3日後、
8月9日から10日朝にかけて、原子爆弾投下に関するリーフレットが大阪、長崎、福岡、東京に投下された。さらに、ソ連参戦を記した新しい内容のリーフレットが10日に熊本、八幡、大牟田、横浜に投下された。
こんなこと国民に言われてもね。だから、逃げろって言ったじゃん。と言うための工作。
舌出し写真がもてはやされる トンデモ物理学者のご乱心
1922年に来日してるくせに。私の目には、もはや道化師にしか映らない。たった17年後、
まともな物理学者にも、鬼畜の暴走は止められない
核の生みの親 物理学者の罪悪感も及ばず
登場人物全部やべぇ奴
原爆投下は何のため?
原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害の人体実験を行うためであったという説、更にはアメリカ軍が主導で仕組んだ説があり、広島にはウラン型(リトルボーイ)、長崎へはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された。
閲覧注意!原爆投下目標都市の選定
1945年4月12日のルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。4月25日にヘンリー・スティムソンと、レスリー・グローブスがホワイトハウスに訪れ、原爆投下に関する資料を提出(しかしこの際トルーマンは、「資料を見るのは嫌いだ」と語ったという)。
1945年4月中旬~5月中旬 沖縄戦を支援するために九州と四国の飛行場を重点的に爆撃、大都市への焼夷弾爆撃が中断した。このため京都大空襲が遅れた。
1945年4月27日、第1回目標選定委員会(アメリカ政府には極秘に行われていた)で、日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。
1945年5月10日-11日、第2回目標選定委員会、ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された。
1945年5月28日、第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された。
これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。
横浜大空襲
祖母の友人 お駒ばぁばから、母が聞いた話によれば、横浜駅周辺には遺体が折り重なっていたという。
1945年6月1日、暫定委員会(委員長:ヘンリー・スチムソン陸軍長官)は、
原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない。と決定した。
候補地 京都にまつわるムナクソ エトセトラ
4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた。
アメリカと親しい日本?あんたの「親しい」の意味って何?京都じゃなくても日本国民の反感を買うと思わないところがヤバい。
原爆投下の爆撃機B29に母親の名前をつけたサイコパス
広島の被害なんて知ったこっちゃねぇ。でパーティーだってさ。軍人は命令を遂行するのが当然だから、良心の呵責は無いそうで、60年後のインタビューで原爆投下時の心境について「興奮はしなかった。任務に成功してホッとしていた。理解できないだろうが。」と語った。うん。全く理解できねぇし、したくもねぇ。
締めの文
ヅラの時代に計画されていたことではないかもしれないが、今の欧州は、無色透明の液体をポンプしなきゃ観光させてあげないよ。ときた。行ってみたい国もたくさんあったけど、ウェルカムされてないところには行かない主義だし、そこまでして行きたいとこもねぇ。
で、長くなっちゃったから、誰も読んでないと思うけど、ペリ公が訪れたことを売りにしている観光地へ、ひやかしに是非足をお運びください。
衝撃的なストーリーは、まだまだ続きがあるけど、疲れたから締める。
注:この文章はすべてフィクションです。