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拝啓ペルリ殿 Chapter 1 Episode2

ぺルリ殿に関係する内容の可能性がある記事です。
極端な内容・真偽不明の情報でないかご注意ください。ひとつの情報だけで判断せずに、さまざまな媒体のさまざまな情報とあわせて総合的に判断することをおすすめします。また、この危機に直面した人々をサポートするために、支援団体へのリンクを以下に設置します。(嘘)
※非常時のため、すべての関連記事に注意書きを一時的に自ら表示しています。

ペルリ殿。暑中お見舞い申し上げます。暑中のお見舞いを申し上げるとか、ジャップって超意味わかんないでしょ?ペルリ殿のいる天国には、暑いも寒いもないだろうし、命の尊さを知らないペルリ殿のような感性をお持ちの方は、相手が暑かろうが寒かろうが関係ねぇと思うけど、私のいる北半球の小さな島は、今、夏真っ盛りなのです。

ペルリ殿が来た頃よりも、最高気温は上がっていますが、日本の夏が暑いことは何年前でも変わりません。琉球に行ったことがおありなら、当然わかっておられるでしょう。

沖縄や広島、長崎の民間人が犠牲になったのは、暑い夏のことでした。現実は、私の空想力をはるかに超えるものでありました。東京、横浜でも空襲により多くの民間人が尊い命を奪われました。苦しみ、痛み、悲しみが蔓延し、憎しみや恨みも生まれました。しかし、みんなが助け合い、復興に尽力して現在に至ります。そういった中で継ながれた生命として、会ったことのない先祖、世話になった祖父母、父母への感謝の心が、私の原動力です。

この記事は、夏に書いたもので、ここで筆が止まっていました。今、加筆をしているのは、最近、とある観光協会がペリ公を推していて、終わってんな。と思ったからです。誰を呼びたいんだ?不思議。ペリ公の正体を知らないでやっているのか、観光協会が腐っているのか。とにかく、やべぇ。ペリ公、良かったね。あんたの事好きな人いるみたいよ。まじ意味わかんねぇ。


ヅラが大任を果たした90年後に日本に起こったこと

こうしてみると、欧州の王国同士、民族、宗教間の争い、に諸国を巻き込むただのバスタード集団じゃねぇか。日本の場合、そっちからズカズカやってきて、思い通りにならないからって、民間人が殺され、広島、長崎に原爆まで落とされてんだ。結局、私は「原子爆弾を落とすような鬼畜だもんなぁ。」とか、「一つの民族を根絶やしにしようという発想、実際に虐殺をするような鬼畜だからねぇ。」と思っちゃう。実際に祖父は硫黄島で戦死しているから。原爆投下ですら、トンデモ理論で正当化しようとすることにも腹が立つ。

近年公開された硫黄島奪取後の米海兵隊の戦利品を笑顔で披露する海兵隊員の映像に虫酸が走った。戦死した日本兵の銃剣や刀、寄せ書きされた旭日旗などを、カメラに向かって笑顔で披露していた。私のおじいちゃんの物だったかもしれないと思うと涙が出た。(会ったことのない私のおじいちゃんは、硫黄島に上陸する前の船への爆撃で戦死したと聞いているが、定かではない。)

硫黄島の星条旗 腐乱苦燐

1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。
いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。

ピューリッツァーだか何だか知らんが、この写真も、写真を元にした記念碑も、私にとってはムナクソだ。腐乱苦燐は、骨の髄まで腐乱している。やっぱり、こいつもメイソンリー。

5人のアメリカ海兵隊員と1人のアメリカ海軍兵が硫黄島の戦いの最中、摺鉢山の頂上に星条旗を立てる姿を撮影したものは、史上もっとも有名な報道写真の一つである。1945年度のピューリッツァー賞の写真部門を受賞した唯一の写真となった。写真に写っている6人のうち、3人は硫黄島で戦死したが、他の3人は生き残って一躍有名人となった。後にこの写真をもとにアーリントン国立墓地近くに海兵隊戦争記念碑が造られた。戦時国債の売れ行きが悪いことに頭を痛めていたフランクリン・ルーズベルト大統領は、この写真を見て、国債のキャンペーンにもってこいだと考え、写真に写った海兵隊員を呼び戻すよう命じた。このため硫黄島の戦いが終了したあとで、写真に写ったメンバーは帰国することになった。ギャグノンは引き伸ばした写真を見てメンバーを特定するよう命じられ、5人を特定したが、6人目の人物の名は明かさなかった。実は自分の名前を出したらギャグノンを殺すと脅していたのだ。このため大統領命令として名前を明かすよう命じられ、言わなければ軍法会議にかけるとまで告げられたためギャグノンは名前を明かした。

沖縄の地上戦

民間人が犠牲となった数々の悲劇

鉄血勤皇隊 防衛召集により動員された日本軍史上初の14~16歳の学徒による少年兵部隊。沖縄戦において正規部隊に併合され、実際に戦闘に参加し多くの戦死者を出した。17歳未満の戦死者は567名。

沖縄には21の旧制中学校があり、沖縄戦では、これらすべての男女中学校から生徒が戦場に動員された。男子生徒は14歳から19歳で、上級生が鉄血勤皇隊に、下級生が通信隊に配属された。高等女学校生徒は15歳から19歳で、従軍の看護助手として配属された。ひめゆり(県立第一157人。県立第一と第二の高等女学校それぞれの学校広報誌「乙姫」と「白百合」に由来。)、白梅(県立第二46人)、なごらん(県立第三10人)、瑞泉(県立首里61人)、積徳(積徳25人)、梯梧( 昭和16人)、宮古高女(県立宮古48人)、八重山高女(県立八重山60人)の女子学徒隊が存在。米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日、女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員として動員された。沖縄陸軍病院は沖縄守備軍(第32軍)の直轄で、米軍が上陸して前線の負傷兵が増加するのに伴い、那覇近郊の一日橋、識名、知念半島近くの糸数に分室がおかれた。学徒隊は全員が分散配置された。
しかし、敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)。最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。そのうちの10人(教師と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決している。また隣の洞窟でも米軍の銃乱射で3名が死亡、3名が重傷を負った。

原爆投下 降伏を促すためと装った無差別殺戮

1945年(昭和20年)8月6日(月曜日)午前8時15分、アメリカ軍(米軍)が日本の広島市に対して世界で初めて原子爆弾「リトルボーイ」を実戦使用した。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆したとされる。

これに懲りず3日後、

1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して原子爆弾「ファットマン」を投下した。この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された最後の核兵器である。(ことを願う。)
原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。

8月9日から10日朝にかけて、原子爆弾投下に関するリーフレットが大阪、長崎、福岡、東京に投下された。さらに、ソ連参戦を記した新しい内容のリーフレットが10日に熊本、八幡、大牟田、横浜に投下された。

即刻都市より退避せよ。日本国民に告ぐ!!                 このビラに書いてあることを注意して読みなさい。
米国は今や何人もなし得なかつた極めて強力な爆薬を発明するに至つた。今回発明せられた原子爆弾は只その一箇を以てしても優にあの巨大なB-29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君がよく考へなければならないことであり我等は誓つてこのことが絶対事実であることを保証するものである。
我等は今や日本々土に対して此の武器を使用し始めた。若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯一箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。
この無益な戦争を長引かせてゐる軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に我等は諸君が此の戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。
米国大統領は曩に名誉ある降伏に関する十三ヶ条の概略を諸君に述べた。この条項を承認しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始するよう我等は慫慂するものである。諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。
然らざれば我等は断乎この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀なる武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであらう。“即刻都市より退避せよ”

こんなこと国民に言われてもね。だから、逃げろって言ったじゃん。と言うための工作。

舌出し写真がもてはやされる トンデモ物理学者のご乱心

1922年に来日してるくせに。私の目には、もはや道化師にしか映らない。たった17年後、

1939年8月2日  ナチス・ドイツのユダヤ人迫害にアメリカ合衆国へ亡命したユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインとレオ・シラードがフランクリン・ルーズベルト大統領に「大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言する内容の手紙を執筆した。9月1日 ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した事をきっかけに第二次世界大戦が勃発。10月11日 前述のアインシュタインの手紙がルーズベルトの元に届けられる。10月21日 アメリカがウラン諮問委員会を設置。
1940年4月10日  イギリスが第1回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。1941年7月15日 - MAUD委員会がウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。
10月3日 MAUD委員会最終報告書が公式にルーズベルト大統領に届けられる。
12月8日 日本が第二次世界大戦に参戦(真珠湾攻撃)。
1942年9月26日 アメリカの軍需生産委員会がマンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づける。10月11日 - アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。1944年9月 ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の間でハイドパーク覚書(ケベック協定)が交わされ、日本に対して原爆を使用することが決定された。その後1945年4月には第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まった。

まともな物理学者にも、鬼畜の暴走は止められない

デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂するとし、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
1939年9月1日第二次世界大戦が勃発し、ドイツによるヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
1944年5月16日に、ボーアはウィンストン・チャーチル首相と会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルト大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定では、ボーアの活動監視と、当時英米との対立姿勢が目立ってきたソビエト連邦との接触阻止が盛り込まれてしまう。さらに、ルーズベルト死後の1945年4月25日に、ボーアは科学行政官のバネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、彼の声が時の政権へ届くことはなかった。

核の生みの親 物理学者の罪悪感も及ばず

登場人物全部やべぇ奴

ナチス・ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官ジェームズ・F・バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている。バーンズはマンハッタン計画の責任者の一人として、東ヨーロッパで覇権を強めるソ連を牽制するために、大日本帝国に対する原爆攻撃を支持しており、天皇の護持が容れられれば、大日本帝国には終戦交渉の余地があるとする、戦後日本を有望な投資先と考える国務次官ジョセフ・グルー、陸軍長官ヘンリー・スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタルら三人委員会とは正反対の路線であった。「一発で都市を吹っ飛ばせる兵器を、我々アメリカが所有していることを事前警告すべきである。それでも降伏しなければ原爆を投下すると日本政府に伝えるべきだ。」と主張し無警告の原爆投下に反対を訴えた陸軍次官のジョン・マックロイに対して、バーンズは「それはアメリカの弱さを示すものだ。原爆投下前に天皇制を保証し降伏を呼びかけるのは反対だ。」と述べる。

原爆投下は何のため?

原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害の人体実験を行うためであったという説、更にはアメリカ軍が主導で仕組んだ説があり、広島にはウラン型(リトルボーイ)、長崎へはプルトニウム型(ファットマン)とそれぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された。

閲覧注意!原爆投下目標都市の選定

1945年4月12日のルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。4月25日にヘンリー・スティムソンと、レスリー・グローブスがホワイトハウスに訪れ、原爆投下に関する資料を提出(しかしこの際トルーマンは、「資料を見るのは嫌いだ」と語ったという)。
1945年4月中旬~5月中旬 沖縄戦を支援するために九州と四国の飛行場を重点的に爆撃、大都市への焼夷弾爆撃が中断した。このため京都大空襲が遅れた。
1945年4月27日、第1回目標選定委員会(アメリカ政府には極秘に行われていた)で、日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。  

東京都区部、横浜市、名古屋市、大阪市、京都市、神戸市、八幡市、長崎市。
次の17都市および地点が研究対象とされた。東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、福岡市、熊本市、長崎市、佐世保市。

1945年5月10日-11日、第2回目標選定委員会、ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された。

京都市:AA級目標 広島市:AA級目標 横浜市:A級目標 小倉市:A級目標
このとき以下の3基準が示された。



直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。

1945年5月28日、第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された。


投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。


これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。

横浜大空襲

祖母の友人 お駒ばぁばから、母が聞いた話によれば、横浜駅周辺には遺体が折り重なっていたという。

1945年5月29日、目標から外された翌日に横浜大空襲。なお、この横浜大空襲は、第3回目標選定委員会で横浜が目標から外されたから行われたものでなく、横浜に対して通常空襲を行うために、原子爆弾の投下目標から外したものと思われる。


1945年6月1日、暫定委員会(委員長:ヘンリー・スチムソン陸軍長官)は、
原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない。と決定した。

候補地 京都にまつわるムナクソ エトセトラ

4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた。


人口100万を超す大都市であること。
日本の古都であること。
多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
小さな軍需工場が多数存在していること。
原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。

しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスチムソン陸軍長官の強い反対や、戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。

アメリカと親しい日本?あんたの「親しい」の意味って何?京都じゃなくても日本国民の反感を買うと思わないところがヤバい。


1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった。

1945年7月25日、マンハッタン計画の最高責任者レスリー・グローブスが作成した原爆投下指令書が発令される。ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた。
1945年8月2日、第20航空軍司令部が8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことを決定した。攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった。
1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。
1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった。
1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が八幡大空襲で生じた靄による視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。

原爆投下の爆撃機B29に母親の名前をつけたサイコパス

1945年8月6日午前2時45分、ポール・ティベッツ大佐はB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」をテニアン島から離陸させた。同機は北に向かって6時間飛行し日本列島に到着した。そして午前8時15分、ティベッツは広島市上空で原子爆弾を投下した。
14時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還し、戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された。

広島の被害なんて知ったこっちゃねぇ。でパーティーだってさ。軍人は命令を遂行するのが当然だから、良心の呵責は無いそうで、60年後のインタビューで原爆投下時の心境について「興奮はしなかった。任務に成功してホッとしていた。理解できないだろうが。」と語った。うん。全く理解できねぇし、したくもねぇ。


1976年10月には、テキサスハーリンジンで行われた航空ショーに招待され、原爆投下を再現するショーを行った。この際、地上で爆薬を爆発させてキノコ雲を作る演出が行われたが、このイベントが国際ニュースとして報道されると広島市長らから強い抗議を受けることとなり、最終的にアメリカ政府が日本政府に公式に謝罪する騒ぎにまでなった。


東京帝国大学が、広島と長崎の原爆による被爆者を使って、戦後2年以上に亘り日本国憲法施行後も、あらゆる人体実験を実施した。調査はすべてアメリカのためであり、被曝者のために行っている意識は無かったと言います。結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談するということもできませんですから。とにかく自分たちで調べたら全部向うに出す。被曝者にアドレナリンと言う血圧を上昇させるホルモンを注射し、その反応を調べていました。12人の内6人は、わずかな反応しか示さなかった。山村さんたちは、こうした治療とは関係のない検査を毎日行っていました。調べられることはすべて行うのが、調査の方針だったと言います。1939年8月2日 - ナチス・ドイツのユダヤ人迫害にアメリカ合衆国へ亡命したユダヤ人物理学者アルベルト・アインシュタインがフランクリン・ルーズベルト大統領に「大量のウランが核分裂連鎖反応を起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言する内容の手紙を執筆した。

9月1日 - ナチス・ドイツがポーランドに侵攻した事をきっかけに第二次世界大戦が勃発。
10月11日 - 前述のアインシュタインの手紙がルーズベルトの元に届けられる。
10月21日 - アメリカがウラン諮問委員会を設置。
1940年4月10日 - イギリスが第1回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。
1941年
7月15日 - MAUD委員会がウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。
10月3日 - MAUD委員会最終報告書が公式にルーズベルト大統領に届けられる。
12月8日 - 日本が第二次世界大戦に参戦(真珠湾攻撃)。
1942年
9月26日 - アメリカの軍需生産委員会がマンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づける。
10月11日 - アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。
1944年9月 - ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の間でハイドパーク覚書(ケベック協定)が交わされ、日本に対して原爆を使用することが決定された。その後1945年4月には第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まった[4]。

ポール・ティベッツ陸軍大佐(機長・操縦士)がエノラ・ゲイ(名前の由来になったのはティベッツの母親の名前)の搭乗員に出撃命令を伝えた。「今夜の我々の作戦は歴史的なものだ」

本月六日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり広島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非らず、
本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知してをるところなり、

また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり、

抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり、

米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の与論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、

米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、

而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す

締めの文

ヅラの時代に計画されていたことではないかもしれないが、今の欧州は、無色透明の液体をポンプしなきゃ観光させてあげないよ。ときた。行ってみたい国もたくさんあったけど、ウェルカムされてないところには行かない主義だし、そこまでして行きたいとこもねぇ。
で、長くなっちゃったから、誰も読んでないと思うけど、ペリ公が訪れたことを売りにしている観光地へ、ひやかしに是非足をお運びください。

衝撃的なストーリーは、まだまだ続きがあるけど、疲れたから締める。

注:この文章はすべてフィクションです。


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