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これまでわからなかったことがある日突然わかることについて

落書きです。良かったらご覧ください



若い頃、歌舞伎のどこが面白いのかと思っていました。

歌舞伎好きの友人に「絶対泣くから」と連れて行かれても、子別れの場面に号泣する友人を尻目に、いったいなにをどうすればこんな見ず知らずの他人の悲劇にここまで共感できるのかと思っていました。
これは危ない、こんな共感の安売りをしてたら、ゆくゆくこの人は絶対悪い人にだまされるに決まってる、と友人の心配までしていたほどです。

それが今、なぜこの文章を書き始めているかというと、上の現象、つまり歌舞伎で号泣、が先日、他ならぬ自分の身に起こったからです。

先週、私は歌舞伎座に團菊祭というのを見に行ってきました。

團菊祭というのは毎年5月に歌舞伎座で行われる、九世市川團十郎、五世尾上菊五郎の功績を顕彰するお祭りです。
2年ほど前から私は縁あって尾上流の日本舞踊を習っているのですが、そうである以上、尾上の方のお祭りくらいは観に行くのが礼儀と思ったからです。

でも正直、期待はしていませんでした。
そもそも昔の人たちのあれこれを昔の言葉でやられても、教養のない私にはそれこそ猫に小判です。
謙遜で言っているのではなく、ほんとに知識がないのです。
だから、せめて寝ないように気をつけようとだけ思っていました。

ところが、です。

今回、観に行ったのは夜の部でしたが、演目は『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)御殿・床下』というものでした。
まったく知らない話です。
どうしようとパンフレットを読んでみますと、お家騒動に巻き込まれた乳人の女が、自分が仕える若君を守るために実の子を殺されてしまうというお話、と書いてあります。

子供のいない私はこれはますますヤバイ、寝ないようにしなければと思いました。
これが可哀想な猫の話であればいくらでも号泣する自信があるのですが、いかんせん霊長類ヒト科の仔となるとそういうわけにはいきません。

ところがです。
気づくと、私は泣いていました。
乳人正岡が自分の子供を目の前で殺されるあたりからだんだん様子がおかしくなり、私はいつしか鞄からハンカチを取り出し、溢れる涙を抑えて号泣していました。

自分でも驚きました。 
これはいったいどうしたことか。

お家騒動に巻き込まれ殺された我が子をかき抱く乳人正岡の悲しみが、リアルにダイレクトに観ている我が身に襲いかかってきたのです。
なんで、私は歌舞伎で泣いてるのか。
味わったことのない異常事態におののきながら、私は必死に原因を探りました。

そして、あることにふと思い至りました。
これはもしかして、最近わたしが日参している大衆演劇のせいではないか、と。

なに言ってるかさっぱりわかりませんよね。
これからわかりやすく説明します。

前にnoteでも書きましたが、私は一年くらい前から大衆演劇にハマっています。
それも自分でもどうかと思うほどの勢いなのですが、楽しいのでまったく苦になりません。

つまり、私はここ一年のあいだ、しょっちゅうチョンマゲやらチャンバラやら江戸言葉といったものに慣れ親しんでいたために、どうやらその間に時代物のあれこれが脳内に染みつき、そのせいで歌舞伎を理解する解像度がガン上がりしたようなのです。

はい、勘のいい方ならもうおわかりですね。
いわゆるディープラーニングです。

つまり、これまで歌舞伎を観るにあたって参入障壁になっていたものー言葉の違いや江戸の風習ーなんかが、大衆演劇を日々見ているうちに少しずつ頭に入ってきて、ついに現代劇を観るような感覚で歌舞伎を観れるようになった、というわけです。

これ、海外にわたって英語を習得した人が全員口を揃えて言うことに似ています。
曰く、

「それまで全然わかんなかったのに、ある日突然、3年目くらいから、みんながなに言ってるのか急に聞き取れるようになったのよ」

この、急に、というところがミソで、これすなわち、水泳や自転車なんかの習得とまったく同じです。
つまり、段階的に少しずつできるようになるわけじゃなく、ある瞬間、脳に「できる、わかる」回路がバシッとつくられ、そこで初めていろんなことができるようになるのです。

脳って不思議だ、人体って不思議だ、と思わずにはいられません。
そしてこの現象、どうやら嬉しいことに、年齢に関係なく起こるものらしいのです。
なにしろこの私の身に先週起こったくらいですから。

そして、私はたまたま今回、「それ」が歌舞伎で来たのですが、世の中には他にもこういう、ある日突然、3D映像がブワッと見えるような体験をする人がゴロゴロいるんじゃないかと思ってます。

ピカソの絵がわかる人とか。
バッハの音楽がわかる人とか。
ジョン・ケージの『4分33秒』に涙する人とか(いるのか?)
そういうのって、生まれつき才能に恵まれていて労せずわかる人もいるのかもしれませんが、多くはいろいろ積んだ末についにわかるようになった、というのではないでしょうか。
いわゆる「アハ体験」です。
アルキメデスが風呂から飛び出し、「ユリイカー!!(そうかわかったぞー!!)」と叫んだみたいな瞬間です。

そして私はこれ、人間関係にもまったく当てはまる気がするのです。

たとえば若い頃にはなに考えてるかわからなかった、忘れられないあの人の気持ちとか。
今はもう会いたくても会えない、お世話になった人のこととか。

そういう、「あれはいったいなんだったのか」がある日突然、ワッとわかる瞬間が来て、その結果あまりの恥ずかしさに布団かぶるしかなくなったり、勢いでその人のお墓参りに馳せ参じてしまったりすることってあると思うんです。

でも、それがいい。
なぜならば、そういうことを繰り返した方が人は優しくなれるから。

そんなことを考えるにつれ、脳がこれからもそんな風に進化していくのなら、歳をとるのも案外悪くないな、と思う今日この頃です。

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