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【女帝】バセドウ病と私。

**記事読了に10分ください。**

ちょっと重い話をします。

バセドウ病とは自己免疫疾患の1つで、代謝や成長などに関わる“甲状腺ホルモン”が過剰に分泌されてしまう病気です。

メディカルノート

去年の10月ごろ、私はこの病気を診断されました。


生い立ち

私は、二人兄弟の妹で、兄は病弱でした。喘息とアトピーを持っていて、冬は喘息、夏はアトピーで眠れない夜がよくありました。
私は反面、いたって健康で、「手がかからないいい子」と、親や親せきに褒められていました。

大人になって気づくのですが、「手がかからないいい子」は、私の中の「存在条件」として居座っていたです。

孤独

ワーキングホリデー以来、10年ほどほぼ海外暮らしの私です。
はじめ、私も人並みに海外暮らしにあこがれていて、現地での出会いとか、初めての体験を妄想しては、ワクワクしていました。

ですが実際には、キラキラもワクワクもせず、ただ、孤独が付きまとうだけの日々でした。友人はおろか、知り合いもほぼいない状態でした。それでも、その暮らしにしがみついていたのは、「帰る場所なんてない」と、勝手に決めていたからでした。
ー20代後半に差し掛かろうとしているのに、大卒なのにキャリアがない。帰ってもしばらく一人で暮らしていく資金もなければ、働くあてもない。それで実家に帰ったら、”手がかかる”人になってしまう。そんな私、誰も歓迎してくれない。ー

だから、辛かったけど、その感情に蓋をし続けました。
両親には、楽しくやってるふりをして、ビデオ電話を切った後、声を出して泣いたりしていました。
今振り返ると、別になんてことはない。視野が狭かっただけです。嫌な環境にいたならできる範囲で動けばよかった。帰りたいなら帰ればよかった。でも私がそれをしなかったのは、自分の感情、気持ち、人生を軽視していたからにほかなりません。

蔑ろ

孤独であろうが、辛かろうが、どうでもいい。ほかに行く場所なんてないんだ、幸せになる方法なんてないんだと、自分を諦めた人生を送っていると、自分が生きていることに価値が見えなくなってきました。人生を消化試合だと思うようになりました。

そんな時分に訪れた幸福。

双子を授かりました。


妊娠中はそれなりに生き生きしました。私は二つの命を体の中で育てている。なんの罪もない、無垢な命。これから人生を送る、希望だけで眩しい光。
この命を守り抜くことは、私の存在価値だと、確かに思いました。
私なんてどうでもいいけど、この二つの命は何よりも大事だ。そう思って生きました。

自分を卑下していたと言えるエピソードがあります。

無事に生まれましたが、早産でした。緊急帝王切開をしました。
双子はNICUに入り、私は違う病棟に入院しました。
産まれたての赤ちゃん達に母乳を届けるために、搾乳してNICUに届ける様、助産師さんから指導され、その通りにしました。
腹を切られて48時間も経たない体で、搾乳し、NICU棟まで歩くのは大変でした。ベッドを降りるだけで傷がずきずきと痛みます。だけど、代わりに誰かに届けてもらうとか、車いすを借りるなんてことを思いもつかず、一人でこなしました。健常者が歩くと3分とかからない距離でしたが、小さく一歩一歩トボトボと歩いていると、20分はかかってたと思います。後ろから知らない看護師さんに腰を叩かれ、言われました。
「まっすぐ背中を伸ばして歩きなさい。治るものも治らないわよ」

あれはきっと、自分自身の投影でした。思うように動かない体にもどかしく感じながらも、助けて。とも言えないで。ただ、自分を責め、鞭を打つのは他でもなく私でした。叩かれた部分が傷に響きましたが、その看護師さんにはヘラヘラと笑って、「がんばりまーす」と返事をしました。
守るべき命があったから、その時の私はこれでいいと思っていました。


発症

双子の子育ては、ワンオペでした。眠れなくても休めなくても平気でした。私が存在していい理由が目の前で私に訴えているのだから。誰かに助けを求めると、”私が存在していい理由”が消えてしまうので、一人で全部やりました。

生理が戻って来たのは出産をして3か月後でした。普通、授乳中は生理が止まるのですが、私の体は、「出産に甘えてんな」というがごとく、すぐに元の体に戻ろうとしました。4か月で母乳が止まったときは焦りましたが、正直、授乳は不快だったし、ミルクは楽でした。ちょっと助かりました。自分をこき使うのも自分の体なら、自分を楽にさせるのも、自分の体です。なのにこの時は、そんな自分の体も少し責めました。赤ちゃん達に申し訳ないと、それだけでした。

子供が幼稚園に入れる年齢になる直前くらいだったと思います。
PMDDが激しくなり始めました。
PMDDとは、月経前不快気分障害といい、生理の前、周期的に気分が落ち込んだり、気性が激しくなることです。
子供たちの小さな行動に、時々我慢できなくなることがあるのは自覚していました。
夫とも喋れば言い争いになる、という日々でした。

だけど、虐待や暴力に及ぶことなく、負の感情は掃き出して
”ちゃんとやってる”と思っていました。

自分で抑えられない行為、が、どんなものか、しっかりと反省もしないでまた日常を過ごしていました。

ある時、またそれが来ました。その時は夫がいて、怖いと言われてもっと怒りが湧いたことは覚えています。
そして次の日になって、「子供たちが震えて怯えていた。問題にした方がいい」と言われました。問題にするのを拒否しました。


私は、誰の手も掛けず、一人でやるべきことをやってこそ、存在していいのだからと。

だんだん、生理前に限らず、急に力が出なくなったり、気分が落ち込んだり、辛い気分になるようになりました。

夜眠れない日が増えました。
心臓が時々変に脈打つ事がありました。

人間でいるのって、もう、しんどいな。
って感じたりするようになりました。

私は、居ても居なくても同じだ。と思うようにもなりました。
子供たちはある程度育った。もう私じゃなくても育てられるだろう。
むしろ、私みたいな無能でネガティブな人間より、もっと親としてふさわしい人がいるだろう。
私はこの子達を育てるべきじゃない。
なんで私はまだ生きてるんだろう。
存在していい理由がなくなったではないか。
今日も生きて、なにしているんだろう。
そんなことまで思う日がありました。
答えもわからないまま、日々は過ぎていきました。




ある時、私は力が出なくて起きられない日がありました。幼稚園を送ることさえできないほど、体が重く、動きませんでした。私がベッドに横になっていると、双子の子供たちがこそこそと話しているのが聞こえました。

「おこってたらどうする?」

「はなしてくる。」

「やっぱりやめよう。こわいから。」

「ダディをさがしにいく?」

「あとにする?」

「いっしょにいこう。てをつないで。」

そして、二人が恐る恐る近寄ってきて、

「マミー。おこってない?」と聞くのです。
「おなかがすいたんだけど、なにかたべていい?」と聞くのです。


4歳の子供がです。私は4歳の子に気を使わせてしまうほど、怖い存在だったのです。

私は、この世でたった二人の心の支えから、
唯一の”私が存在してしていい理由”から、
怯えられていた、と気づきました。

耐えきれないショックでした。


その日、私が動けなくて幼稚園を休ませたことを夫に話し、
いつも頭痛がしたり、手が震えてものを落とす時があることだったり、
ホットフラッシュ(顔が急に熱くなること)があることだったり、
気にも留めなかった症状が、日常的にあることを思い出し始め、夫に話しました。
そして、病院に行くことにしました。
こうして、バセドウ病の診断をされました。

レイキ

病院の予約の後日に、マッサージを予約していました。診断を受ける前でしたが、肩の凝りが限界に来ていて、どうにかしたかったのです。
なぜ、この人を選んだのか、わかりません。あえて理由を言えば直感です。

そのマッサージ師さんは、体の辛い部分のマッサージの後に、レイキを充てる人でした。

そして、施術の前に少しヒヤリングをしてくださいました。その時に、彼女が言いました。
「のどのあたりに問題がありそうね。あと、あなたは自分を大事にするという魂の課題があるわ。この凝りはあなたに自分自身をもっと労りなさいって言ってるのよ。」
彼女は、“見える人"でした。

なんだかわからなかったのですが、”魂の課題”として”自分を大事にする”ことを突きつけられているとしたら、腑におちて、涙が出てきました。

あったかいレイキの力で、肩がスーッと軽くなり、その日からだんだん、自分を内観することに気持ちが向くようになりました。

そして、自分の考えがいかに無責任で自己中心的でいたかを反省しました。

受容

タロットカード大アルカナの【女帝】のカードのテーマは【受容】です。
私は、この病気発症に気づくまでの半生全体を【女帝】の学びだと捉えます。

「生きてるだけで大優勝」って、
名言ですからね。


子供のころからの勘違い【存在条件】を打ち消して、自分自身を【受容】する。新しいまっさらな命を育む人間の責任は、お手本になる人生を歩むことだと、結論付けました。子供たちには、自分を肯定する人生を送ってほしい。生きているだけで私を助けたことを知っていてほしい。存在条件なんてなくて、存在理由なんていらなくて、ただ、目の前に居てくれただけでとってもとってもありがたかった。それをただ、受け止めていてほしい。自分を誇りに思ってほしい。生まれてきてよかったって思ってほしい。
そうしてもらうためには、自分がそうあらなければいけないと、自分を蔑ろにしていては、この子たちが彼女たち自身をを誇れない、と気づきました。

なので、人生を諦めることをやめました。ちゃんと、幸せに向かってもがくことにしました。

まず、必要なのは、自分自身をしっかり見つめ、【受容】することだと思いました。否定的な考えも、卑下する自分自身も、まるっと。こんなことを考えてしまうときがあった、と、私を私がそっと、抱きしめるように。そうすると、自分が今いる場所に光が見え始め、自分の周りにあるものに温度を感じはじめました。

一人ぼっちで生きてきたと思っていましたが、
夫はずっと私を心配し、側にいて、愛してくれていたことを知りました。
自分で、周りの人間を拒否し、自分で観る世界を暗くしていたのでした。


贖罪

私は、罪を犯しました。責任をもって健やかに育てるべき存在を放棄しようとしました。

そのすべては、自分が自分を蔑ろにしたことに起因すると考えました。

だから全力で幸せになることに決めました。罪を償うために

罪悪感で幸せになることはできない。一方で、罪滅ぼしは、自分が幸せになる事。この矛盾を解決するために、私は、罪悪感と愛を交換することにしました。

私が授かった命です。私が幸せにするのです。彼女たちの健やかな人生の基盤を創るのは、まだ遅くない。犯した罪が消えなくても、いつか。娘たちが大きくなって、罪の懺悔をしたときに、「最新のスマホでも買ってくれたらチャラにしてあげる」くらいに言ってもらえる様に。
全力で愛することにしたのです。


まずは自分自身を。
そして、その自己受容は、おん あぼぎゃに繋がっていきます。


サポートはなるべくあなたの見える形にして使いたいと思います。大切に熟考して使います。お気持ち頂けたら本当に舞い上がります!!!