好きなことに理由は要るのか。
前回の自己紹介を書いていて思ったことがある。それは好きなもののどこが好きかは思いついても、「どうして好きになったのか」「どうして好きなのか」を説明するのって実は難しいのかもしれないってこと。
それに対して、「嫌いなもの」には明確に嫌いな理由やきっかけがあると思う。
「気づいた時には好きだった」はあっても「いつの間にか嫌いになってた」はない気がする。楽しかった記憶より苦しかった記憶の方が残りやすいのとかと同じような感じ?
嫌いなものを好きになろうと思うことはあってもその反対はないから、実は好きであることに理由なんて要らないのかもしれない。
私は10歳くらいから約10年間テニスを続けてきていて、辞めてしまった今でもふいにラケットを握りたくなる。「なんで続けてきたの?」って聞かれても「好きだから」としか答えられないと思う。それならきっと、「好き」そのものが「理由」であり、習慣で、原動力だ。
結婚相手
少し話は変わるけど、よく「結婚相手は好きなものが同じ相手より、嫌いなものが同じ人を選べ」って言われていたりする。確かにそうだなと思う。だって、相手が好きなものだから自分も好きになるって事はあっても、相手の嫌いなものだから自分も嫌いになるってことはなかなかないから。同じ時間を過ごす中で自然に重なっていく感情は「好き」の方だと思う。だから初めから嫌いなものが同じ人を選べっていうんじゃないかな。
ここで思った。
「好き」が習慣で原動力なら、そっちが同じ方が一緒に居れそうじゃない?今まで出会ってきた友達とかは「好き」の共通点で仲良くなってきたわけだし。愚痴で盛り上がる場面はあっても、何気ない会話より愚痴が多い人と関係が長く続くことはないし、居心地が悪い。たくさん「好き」を話してくれる人の方が居心地がいい。
……でも、
確かに嫌いなものが同じ方が生活の中で感じる日々のストレスは少ない。長く一緒にいることを考えると、そっちの方が大切なのかもなぁ。グッて一気に前進する原動力が必要なのって確かに最初だけ。その後止まらずに進み続けていく時にはストレスは障壁になる。だから「嫌い」にもフォーカスしたほうがいいよって教えてくれてるのか。
……そういうことかぁ〜。
嫌いなものとか愚痴で盛り上がるより好きを共有できた方が楽しいじゃん!!って考えちゃうのは私がまだ子どもだからなのかもね。きっと、もっと色んな人と出会って大人になったらより共感するんだろうな。
好きこそ物の上手なれ
色々考えたけど、結局この一言に尽きるのかもしれない。
誰だって好きな物には本気になるから、何事も好きで取り組んでる人には敵わない。その理由が何かに関わらず、「好き」って感情はそれだけ大きなエネルギーなんだと思う。それだけのエネルギーに動かされたら理由なんて考えてる暇もない。
そうしたら、やっぱり「好き」に理由なんて要らないのかもしれない。
自分の「好き」と向き合って、それをとことん突き詰めて。そうやって過ごしていけたら私の生活は今よりも数倍充実するのかもしれない。普段なら後先色々考えちゃうところでも、「好き」って気持ちに動かされるままに思い切って行動してみるのもいいなって、そんなことを考えた話。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。こんな感じで思ったことを綴っていきます。
また次も読んでいただけたら嬉しいです¨̮⃝
冴月-サエヅキ-
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