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今、モーレツに”フーテン”に憧れている。

「フーテン」と呟けば隣の人から「寅さん!」と百発百中で返ってくるほど、”フーテン”=寅さん、のイメージが強い、というかそのイメージしかないですよね。

今、その”フーテン”にとてつもなく憧れている私です。

そもそも”フーテン”とはどういう意味なのか、調べてみたら次のとおり。

ひとつに、
『定職を持たず街中などをふらつくこと。またはその人。→ 無職』と。
あれ、今、私”フーテン”ってことか。憧れるとかじゃなくてすでになれてる?と一瞬小躍りしそうになったけど、違う違う。

私が憧れているのはこちら。
『「男はつらいよ」の主人公車寅次郎の愛称「フーテンの寅さん」の登場で、「イカれたヤツ」のイメージは薄れ、旅から旅への自由気ままな暮らしを送っている心持ちの優しい「フーテン」のイメージが定着した。』

そうそう、それそれ。
と思ったけど、要するに私はただ自分の直感に従って生きたいだけなのである。
ワクワクする方へ、身を委ねてふわふわと漂いたい。

ヨガ哲学でも「私たちはカルマ(因果応報)の法則、グナ(心の性質)の影響、クリシュナ(聖者)の慈悲によって動かされている。私たちは身を委ねるのみ。」という教えがある。
今自分に起こっていることは全て意味がある。
自分で自分の良いようにしようとするとグナでいうと”サットヴァ(純性)”のつもりでも”ラジャス(激性)”の影響を受けている。
だからただただ身を委ねてできるだけサットヴァ(純性)でいたい。
だけど、現代はその環境がそもそも”ラジャス(激性)”なことの方が多くて、それってカルマの法則でそうなっていること。
だからそれも認めて”サットヴァ”な環境に身を置いて”サットヴァ”な状態でいられるように、ただただクリシュナとラーダラー二(クリシュナの愛しい人)の幸せを願う。

直感を信じて身を委ねて直近4年を過ごしてきて、それで個人的には人生がとてつもなく彩り鮮やかに、豊かになってきていると確信している。

でもそれは私の感覚であって、私以外の人は誰一人私と全く同じ感覚ではない。だから不具合が生じる。
はい、親ともめてこれからの人生について考えているのです。

もう何もやる気が起きなくて、悲しくて悔しくて、でも単純になんでこんなにも親子で分かり合えないのか、ということを今日一日考えて色々調べていたら、こんな記事にぶつかった。

なるほどな。ちょっとキツイ言い方やけど。
『ただし親は、徹底した他者中心の時代に育っています。それは社会環境も家庭環境も「相手を優先」し、「上に従う」価値観が当然のように浸透していた時代。
いわば、そんな時代に育った以上、健全なコミュニケーションの取り方も学習できていないわけです。だとすれば、そんな親が子どもを理解するのは至難の技。まずは子ども自身が、親からの精神的自立を目指したほうが、はるかに懸命だということです。』

誰が悪いでもなく、環境がそうやったんやな。そういう考え方が大多数な世代なんやな。とちょっと納得して気持ちが楽になった。
環境って恐ろしい。
でもそんななか、母はなんとかわたしの考えていることを理解しようとしてくれていて、本当に有難いと思う。女は柔軟やでしかし。

その”環境”でいうと、昨日とても信頼している人に、
「さえこさ、東京にいた時にはひとりでバンバン決めてやってたよ。」と言われてゾッとした。
たった3週間、親と一緒に住むという環境で、私の中に眠っていた
”親の期待通りのいい子でいたい”ちゃん
”依存したい”ちゃん
がもうみるみるうちに元気になってきて、”私なんてひとりじゃ何もできないんだ”と卑屈になってうじうじしてしまっていた。
(グナでいう”タマス(惰性)の状態)

なんてこと・・・環境恐ろしや・・・

この記事にあるように、まずは子どもが親からの精神的自立をするべき。
せやな。

ということで決して執着はしないけど、フーテンのさえこになれれば良いかもなぁと思って、クリシュナを想い、ラーダラー二を想い、ゆったりと呼吸をして眠りにつこうと思います。

ラデラデ〜♡





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