なんかタイトルはつけたくない

久しぶりにnoteをひらいた。

読む時間も書く時間もあまりなく、気になった記事はちょこちょこ読んでいるが大抵Twitterから飛んでいるからnoteのブラウザから記事を書く画面を開いたのは本当に久しぶりな気がする。

ありがたいことに仕事も忙しく、授業もあり、研究も本意には進められていないほどで(これは良くない)バタバタしていて、事実だけ見るととても幸せなことなのだけれど、メンタル的なキャパは結構ギリギリになりつつある。というわけで吐き出しに来たのだ。最近「自分のため」に書くことが少なかったから、ちょうどいい。思い出した。私にとって、書くことはセラピーなのである。

以下、本音を書きすぎてびっくりするくらい暗いから興味のある人だけ読んでください。


最近、コンプレックスの闇に溺れそうになる。

コンプレックスの内容は何かと言われれば、まあいろいろある。でも一番は、病気を持っているということだろう。2年前?3年前?とかから治療を続けている、パニック障害。長くなってきたので、いつから患っているのかもう忘れてしまった。

ふつうに働いているので(なんなら読者モデルとかで表に出ることすらあるので)時々もう治った前提で病気のことを聞かれることがあるのだが、別に治ってはいない。病院にも通っているし、服薬もしているし、カウンセリングにも行っているし、調子が悪い時もある。ちなみに減薬を進めていた時期もあったのだが、途中で症状が出始めたため減薬をストップしていて、そこから膠着状態が続いている。特に今みたいな季節の変わり目は気圧や湿度・温度の変化が自律神経にくるので結構しんどい。頓服の薬を飲む回数も増えたような気がする。

いきなりだが、私はもう3年ほど彼氏がいない。そして、もうこれから先できることはないんじゃないか、とすら思う。基本的な反応は「そんなことないよ!」「そのうちできるって!」だと思う。私でも友達にきっと同じことを言ってしまう。ただ、本当に本当に自信がない。

数日前、マッチングアプリに登録した。正直今の私がめちゃくちゃ彼氏を欲しているかと言われたらそうではないと思う。なんてったって時間がないし、時間が少しでもうまれたら研究を進めたいし(あと本も読みたいし映画もみたい)。そして研究には終わりがないので、「やることがない」という状態は絶対に発生しない。そう考えると、彼氏なんていなくてもいいのでは、とも思う。のだけど、人間の感情は複雑なもので、どこかで繋がりや癒しを求めている。

マッチングアプリに登録してみた理由は簡単なもので、知人のSNSをみていたら、どうやらマッチングアプリで知り合った人と超幸せな結婚をしたらしかったからだ。最高にタイプで、大好きな人と出会い、結婚した、と。

ほう、そんなこともあるものか、と思い登録した。ここまでは単純でよかった。

ただ、1日アプリをいじっただけで、なんだかもう疲れてしまった。そして自分を「条件」としてみた時の心許なさに辟易としてしまった。

アプリの自己紹介の欄に「病気を持っています」なんて書く欄はない。ないから、書かない。でも、書かないなんて嘘をついているような気がしてしまうのだ。そして、その嘘を突き通すことは私はできない。

仮にお互いが「いいね」を押し、マッチングしたとしよう。いつ、どのタイミングで「私、病気もってるんだよね」と言うのだろうか。そして、その言葉を本当の意味で「なんとも思わない」ひとなんてこの世にいるのだろうか。それを経て、恋愛感情を持ち続ける人なんているのだろうか。ていうか、病気を持っている人を愛する人なんてどこにいるのだろうか。

なんだかものすごくひどいことを言っている気がする。それはわかっている。ごめんなさい。これは「病気を持っている人は愛されない」と言いたいんじゃない。わたしにとっては、大切なひとが病気を持っていようが持っていまいが、大切なひとに変わりはないと思う。でも、自分が同じようにそう思ってもらえるという自信がない。自分に関しては。自信がまるでない。びっくりするくらいにない。

病気を持っている、なんて言ったら引かれるに決まっている。面倒なのに当たっちゃったな、と心のどこかで思うのだろう。その気持ちを非難することはできない。そりゃそう思うだろうな、と思う。

男性が本能的に欲するのは、健康的な女性らしい。そんなよくわからない恋愛雑学みたいなものが目に入るたびに、私は健康ではないのだ、という劣等感が植え付けられ、心を侵蝕していく。

マッチングアプリの画面にうつる男性たちの顔や「休日は〜〜をしています」「一緒に〇〇して遊んでくれる人だと嬉しいです!」「コロナが終わったら一緒に旅行に行きましょう」などという自己紹介文を読むたびに、なんだか遠い世界の人のように感じてしまう。

そこに私は一緒にいられるのだろうか。その旅行に一緒に行けるのだろうか。あたたかい家庭を築くための子どもは産めるのだろうか。好きでもなんでもない、言葉の一つも交わしたこともない男性の顔を見つめながら、「この人は私のことをきっと好きにはならないだろう」と思う。どうでもいい人を相手にどうしてそんなことを思わなきゃいけないのかわからないけれど、それくらい自分が落ちていくのがわかる。そして、仮に気になる人が現れたとしても、この人を相手に私はどこかのタイミングで病気なのだ、ということを打ち明け、それでもいいか?と許可をとり、ちょっとした表情の揺らぎをキャッチしてしまい、がっかりした目の奥を見つけてしまうのだろう。そう思うと、あぁわたしはなんのために身長や居住地でフィルターをかけ、見知らぬ男性にいいねしたりスキップしたりしているのだろう、と思ってしまう。そんなことしたって寂しさは埋まらず、癒しも繋がりも生まれない。

どうしてこんなにも自信がないのかはわからない。でも、それくらい「病気である」ということへの劣等感がすごい。

こう言う感情をもっている人はきっと言わないだけで多くいるのだろう。童貞や処女であることを気にしているひともいるだろうし、障害を持っていること、学歴が低いこと、低所得であること、身長が低い・高い、前科がある、家族が犯罪者、家族がいない、実家に借金がある、、、そりゃあいろんな事情があるだろう。冷静に考えたら私の悩みなんて大したことないと思うときもあるし思う人もいると思うが、それはもうなんていうか、比べられない。私は私に、勝手ながら、劣等感を感じずにはいられない。


自立するべき年齢で実家に住み着いている人を「子ども部屋おばさん」「子ども部屋おじさん」と言うらしい。実家の子ども部屋にずーっと住んでいるうちに、おばさん・おじさんと呼ばれるような年齢になってしまった、という由来だそうだ。最近なにかのweb記事で見かけた。

わたしは、子ども部屋おばさん、なのかもしれない。そんなつもりはなかった。でも、そうなのかもしれない。

前職で異動になった。すでに調子はちょっと悪かった。一人暮らしは孤独で、何年経っても慣れなかった。その孤独を当時付き合っていた男性で埋め尽くしていた。異動して少ししてから、一人暮らしの家を引き払って実家に戻った。実家の方が会社に近かったから、好都合だった。そして本格的に体調を崩し、病気になった。会社を辞め、今はライターの仕事をしているけれど、大学院もあり、さらにはフルで働く体力はさすがにまだなく、都内である程度治安の良いふつうにちゃんとした住処で一人暮らしを安定的にできるような稼ぎはまだない。学費も払わなければならないし、修論が佳境になったら仕事も少し減らさなければいけないだろう。

そんなこんなで、いまは「子ども部屋おばさん」というわけだ。

31歳、「普通」なら一人暮らしをして自立しているか、もうすでになんらかの形でパートナーを得て一緒に暮らしていたりする。もう子どもが2人も3人もいる人もいる。なんて素晴らしいことだ。でも私にはそれができない。できていない。

病気。マッチングアプリ。子ども部屋おばさん。

自分なりに精一杯やってきたつもりだけれど、それでも受け入れられないものがまだこんなにもいっぱいある。その事実や言葉が、刺さって、深く入って、どうしても抜けない。

楽をしようと思ったことはなかったはずだった。でも実際は甘えているのかもしれない。私は私でいいという尊厳が、私はこれでいいんだという心が、どうしても足りない。

ケロッとした毎日と、必死にお仕事する毎日と、サクッとSNSを更新する毎日と、こうしてやり場のない感情を処理しきれない毎日は、すべて共存している。きっとみんなそうだね。

読んでくれてありがとう。

書いてたら勝手に涙が溢れて、少し泣いて、スッキリした。言葉で繋がることが、一番癒されるんだね。

※感情に任せて書いてしまったので誰かを傷つける表現があったかもしれない。それは本当にごめんなさい。



「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。