六法全書とセイレーン
堅く磐石な心で、自律した我を守りたいと思う。
その一方で、柔らかく揺らぐ心が彼方の熱情に我を失いたいと願っている。
答えはその真ん中にあると、漸くわかり始めた最中、粗削りの熱情が後ろ髪を引いて歌い呼ぶ。追憶も希望も忘れるほど、今という時間点の地面を足で踏み締め道筋が見えた時ほど、忘れたはずのそれらが名残で挟撃してくる。進めば進むほどに、過去と未来とが表裏一体に押し寄せる。
その声に、耳を傾けるか?それとも耳を塞ぐか?
それはまた別の話。少なくとも、この響きを
聞き取ることのできる粗い魂が、未だかすかに残響しているのが嬉しい。
(と言いながら、その激情の離岸流に歯止めなく身を委ねた時、持ち手を失った風船のように大海を漂うことが恐ろしくもある。なぜなら、デジタル時計が刻む時間は、潮の流れが円環を描いている間にも直線的に進んでしまうから。日常は結局、堅い心の側から柔らかな心の時として危険なほどに溌剌とした生命力を眺める、アクリル板越しの膨大なプロセスの集積である。堅固な安全圏から清かに眺める海のみなもは、荒波に痛めつけられた肌を捨象した美しさなのだから)
安定と不安定とをどちらも愛するからこそ、迷うのだろう。コードがなければ不安だが、キーが窮屈になれば半音階の冒険に出る。不協和音の瀬戸際を手探りで進みながら、時に金剛石のように堅く、時に水のように柔らかな心というものの不可思議を思い、苦笑する他はない。
セイレーンの歌声は、そこここで優しく響く。
けれど暗い海を行く航海、あたりに立ち込める霧に反響するその声は、いったいどこから来たものなのか。それは判然としない。その姿を追えば、闇の中を彷徨った挙句に航路を見失うかもしれない。
むしろ濃霧の向こうに、滲みながらも確かに明滅するひとつの光点がある。あたりを乱舞する響きとは裏腹に厳として動かぬその灯台の光はか弱いが、小さくとも変わらぬ光を揺らしながらこちらを見据えている。
船はいずこより聞こえくるかも知れぬ美麗な響きに襲われながら、よろよろと光の方へ、少しずつ少しずつ、進んでゆく。
我が心 ゆたにたゆたに 浮きぬなは
辺にも沖にも 寄りかつましじ
――万葉集より
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