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もう死にたくはならないのだから
「20代後半にもなってくるとなんとなく自分の限界って見えてくるよな」
「自分で感じている限界って案外当てになんないよ」
漫画のワンシーンのそんなやりとりが妙に引っ掛かった。
その直後、たまたま紹介されたインタビュー記事がめちゃくちゃ面白くて、同年代で最先端に立って活動するその人の考え方やプロダクトに打ちのめされた。
何だか悔しくて苦しくて「死にてぇ」と口癖になった言葉を呟いた。
でもそこで「あぁ、もう死にたくはならないんだ」と気づいてしまった。
なので記憶の糸が絡まるままに逆行していこうと思う。
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ついに私も26歳になってしまった。早生まれだから世代で言ったら27の代。
小学生の頃、3という数字が好きだったから結婚は23歳でと言っていた。
26歳なんてもう大人で仕事バリバリで安定しているだろうと、大学卒業まで本気で思っていた。
今の自分は何なんだろう。大人になれている気がしない。
でももう子供とは自分も社会も思えない。
周りの結婚報告に驚かなくなった。
「かわいい我が子」の写真とエピソードが日常的にタイムラインに流れる。仕事の話題に初々しさがなくなってきた。
親からの圧力にちょっと煩わしさ感じる今日この頃、テンプレートすぎる20代後半のモヤモヤを持ってしまったな。
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佐渡にいた時の私は「何か頑張っている若くて活発な女の子」だった。
高校卒業と共に大半の人が島外に出てほとんど帰ってこない佐渡では、それは確かな価値だった。
でも尼崎では違う。
右も左も大学生や新卒の年下ばかりで、もう私は「若い」と声高に言われる部類ではないし、「活発な女」も溢れていてさして価値はない。
誰も注目しない、何でもない「ただの人」。時間も立場もしがらみがなくフリーな状況は夜に食べるジャンクフードみたい。ちょっと虚しくとても気楽だった。
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最近、日に日に感覚が変わるのを感じる。
もはや1年前の自分と別人なのかも、なんて思うほど。
きっと人から見たらそんなに変化ないんだろうけど。
前の感覚と今の感覚、違いをうまく言語化できないけど「死」や「無」に引き寄せられる感覚の有無が大きいのかもなんて、今日の「死にてぇ」発言で知ったように思う。
そういえば、あんなに毎日考えていた自殺の方法や血まみれの自分をもうずいぶん脳裏に描いていないな。
一生付き合っていくのかと覚悟したウジウジ考え虫は形を変えていた。もう自分を切り刻まなくても生きていられるらしい。
あんなに怖がっていた「考えない大人」は思った以上に生きやすくて、それはそれで別にいろいろ考えているなと思う。
「人が考えられることにだってキャパがあるんだよ」と聞いた時に、もしかしたらもったいないことしてた?なんて考えるようになった。
長い長いモラトリアムもそろそろ終わりなのかもしれないね。
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あーあ、もうあんなに近くにいた死は遠くに行ってしまったんだ。
人生のリセットボタンは永遠に消滅して、もうどんなに才能の手札が悪くても、失敗ばかりの出来損ないでもこのまま生きてくしかないんだよなぁ。
若くして認められた活動家も、利発な学生も、独創的なクリエーターも所詮他人の人生で、自分の「もしかしたらあったかもしれない未来」には到底なり得なかった。
自分も人生も、もうしょうがないから諦めるしかないんだ。
高望みしすぎた理想にはなれなかった。
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当たり前でありふれた言葉だって、自分の中に落ちてくるのはどこかタイミングがあるらしい。
「諦め」はとてつもない絶望かと思いきや、存外希望に溢れている。
何たって、今ここ、これからの自分を考えるしかないんだもんな。
この先のやることは自分で決められるんだもの。
今の私は「諦めの先」を見てみたいのだ。
全部諦めた上で作るものを、することを、自分の抱く感情を知りたい。
あーあ、もう死にたくなれないから生きるしかないのか。
みんなそうやって生きていくのか。
あーあ、いい夜だな。
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