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ロックの歴史の旅

8月16日付日経新聞の春秋で紹介された、ハードロック・サウンドの生みの親のひとりリンク・レイ。1958年の彼の代表作「ランブル」は、検索するとトップ曲に結果が表示された。歪んだギターの斬新なそのサウンドは、後のジミ・ヘンドリックス等に影響を与えた。その史実を知って思い出したのが、数年前に購入した中山康樹著「ロックの歴史」であった。「ロックはアメリカンより、ブリティッシュだ」若い頃、ブリティッシュロックに傾倒していた知人の言葉を思い出す。その両国の音楽史すらよく知らない。「ロックの歴史」は教科書として目に飛び込んで来た。


この本が出版されたのは2014年4月。その2年前、2012年7月27日のロンドンオリンピック開会式のエピソードが冒頭に書かれている。ポール・マッカートニーは「ヘイ・ジュード」を演奏し歌った。70歳を超えたポールが英国の代表として、世紀の祭典のオープニングに登場した。そしてロックは今でも現在進行形であるとロック少年が綴っている。東京オリンピックが実現していたら、ニッポンのポールは誰であったのだろうか。そんな疑問がふと湧いた。


1951年、それまでブルースやリズム&ブルースと呼ばれ黒人に親しまれていた音楽を、“ロックンロール”と命名して広めたのが、オハイオ州クリーブランドのラジオDJアラン・リードであるという。アランが名付けたその新しいジャンル名は、トリキシー・スミスの「My baby rocks me with one steady roll」から引用された。トリキシーをググると、このナンバーは1921年にレコーディングされ、彼女は1943年に逝去している。彼女のアルバムに収録されたナンバーには、“rocks me”が入ったタイトルが数曲見られる。rockは、shakeやswingと同義であったようだ。クラシックブルースと呼ばれていたその原曲を聴くと、スローなブルースである。


1949年にオハイオ州クリーブランドに移ったアランは、1951年、ラジオ局で働いていたところ、念願のDJの仕事を託されることになった。「レコード・ランデヴー」というクラシック・レコード専門番組だった。ある日、番組のスポンサーで地元レコード店のオーナーのレオ・マインツに招かれ、白人のティーンエイジャーが店内放送で流れるリズム&ブルースに合わせて楽しく踊っている場面を見かけて衝撃を受けた。そして、レオの勧めもあり、アランはリズム&ブルースを専門に放送するラジオ番組を作ることを決心した。7月11日、番組名を「ムーンドッグズ・ロックンロール・パーティ」へと改変すると、白人向けの流行歌には目もくれず、チャック・ベリーやリトル・リチャード、レイ・チャールズ等の黒人ミュージシャンのレコードをヘビロテで放送した。また、自らを「ムーンドッグ」と名乗り、流す曲のほとんど全てを「ロックンロール」と呼んで紹介した。こうしてアランは、黒人音楽を白人向けの番組で流した最初の白人DJとなった。

1965年に43歳の若さで亡くなったアランであったが、その20年後の1986年、ロックの演奏者ではない人物として初めて「ロックの殿堂」入りを果たした。現在では「ロックンロールの生みの親」「ミスター・ロックンロール」「キング・オブ・ロックンロール」などと称えられ、再評価されている。それまでブラックミュージック、リズム&ブルースと呼ばれた音楽は、ロックンロールとも呼ばれるようになり、やがて人種の壁を超えた新しいポピュラー音楽としても発展していく。興味深いことに、その姓Freedは、解放されたという意味を持つ。

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