#4 加速する孤独
#3 家族の居場所 の続きです。
祖母が亡くなる少し前から、家族には問題が発生していた。
バブルの崩壊によって父の仕事が少しずつ傾き始めていたところで、
父は借金の保証人になった知人が逃げてしまったか何かで
尋常ではない額の借金を抱えてしまったようだった。
母はパートに出るようになり、会社をたたんだ父は家にいる日が多くなり、無言の重圧が子供心にも理解できて、息苦しかった。
私が中学生の頃に、住んでいた家を売り、家賃の安い賃貸で暮らすことになった。
広い家から、沢山のものを捨てて3DKのマンションに引っ越した。
祖母の部屋ともお別れだった。
小さい仏壇は両親の部屋に置かれ、私はいつしかお線香をあげる機会も減っていった。
中学生になると、給食がなくなりお弁当になった。
父も新しい仕事を始めたが、母も段々パートを増やしていき、フルタイムで働くようになっていたがお弁当だけは必ず作ってくれた。
朝の出勤時間で忙しい時間の中、お弁当は作ってくれてるのだからと
負担を減らしたくて、朝食は自分で作るようになった。
母が残業で遅くなったり、疲れて帰ってくるので夕飯の支度を手伝ったり
時には私が夕飯を用意したりしていた。
「お姉ちゃんだから」と「良い子の振り」をしてきていたから、料理はよく手伝ったりして
母も女の子なんだから、とよく教えてくれていたから
中学生のころには目玉焼きやお味噌汁、カレーといった簡単な料理なら1人で一通り作れた。
引越しによって、初めて妹とは別の、自分1人だけの部屋ができた。
それに合わせて、中学生になったこともあり、ベッドや本棚も買ってもらった。
でもそれを選ぶ時も母親が、これにしたら?と勧めてきたものから選んだり
これか、これか、これと複数自分の候補を出し、その中から母親に選んでもらったりする方法で決めた。
妹は、これがいい!と自分の希望だけで決めて、母親が難色を示しても、自分の主張を通していた。
そんな中で、私も一つだけ主張を通した物があった。
小学校入学時に買ってもらった学習机は捨てて、ジグゾーパズルをしていた部屋にあった少し大人びた机をもらった。
私のジグゾーパズルを置いていた机だったから、何となく捨てられるのが嫌だったのだ。
その頃にはジグゾーパズル自体もう捨てていたのだけれど。
新しい家での生活は、両親が落胆しないようにと、自分の部屋を気に入ったと言ってみたり、引越しを楽しんでいるように振舞った。
それでも、徐々に家族の形は変わっていった。
慣れない仕事で疲れて帰ってくる母は小言が増え
父の借金によるストレスもあったのだろう。どんどんヒステリックになっていった。
いつも疲れていて、いつもため息をついていて、家の手伝いをしなければ怒り
手伝いをしてもやり方が悪くて文句を言われたりした。
それでも夕飯を作って待っていれば、安心したようにありがとう、とか、美味しく出来てる、とか言ってくれることもあった。
家が借金を抱えていることもあり、お小遣いや欲しいもので我儘を言うことは更になくなっていった。
妹はまだ小学生。父は相変わらず仕事でいない日も多く、残業で遅くなる母親の帰りを待つ間、姉妹で2人きりの家。
洗濯物を取り込み、夕飯の支度をして母の帰りを待つ。
戸締り、火の元、新聞の勧誘や集金。大体私がやっていた。
年を重ねれば重ねるほど、家族には、両親には頼れなくなっていった。
何か困ったことがあっても自分でどうにかする、ということが染み付いていた。
親を困らせてはいけない、負担になってはいけない、良い子でいなければならない。
住むところと、食費と、学校に通わせてもらえているだけで感謝しなければ。
そんな風に思っていた。
初潮を迎えた時も、授業で習っていたから事前知識があったものの、私はパニックになった記憶がある
血で汚れたパンツ、段々と自覚する痛み
授業で習ったし、お母さんにも教わったから、お母さんに言わなくても、1人でもできるはず…
それでもやっぱりよく分からなかった。
私は自宅のトイレで呆然とした。
心細くて、不安で、申し訳なくて、1人で出来なくて。
母親が帰ってきたあと、話す時にすごく申し訳なく思った。
母は別に迷惑には思ってなかっただろうし、お赤飯だって炊いてくれたけど。
トイレの中で途方に暮れて、トイレの窓から見た景色を何となく覚えている。
多分、大人になりたくなかったんだと思う。
大人になってしまったら、甘えることは本当に叶わなくなるから。
それまでは実際に甘えられなくても、子供だから本当に困った時は甘えてもいいだろう、という感覚があった。
子供でいることで
甘えようと思えばいつでも甘えられる、
甘えることが許される存在でいられる
その事実だけで甘えなくても、我儘を言わなくても我慢できたことがあったと思う。
初潮が来て、また1つ歳をとって、学年が上がって、小学生から中学生になって。
大人に近付いたことで、その逃げ道さえ無くなることに怯えていたのかもしれない。
会話が出来る時間も減り、
親との会話は
「こういう答えが返ってきたら安心するだろうな」
「こういう返事なら怒らないかな」
というものだけに絞って、必要最低限に発言するようになった。
算数が苦手なことも、希望した図書委員になれなかったことも、友達とケンカしたことも、抜き打ちテストがあったことも、体育の器械体操が出来なかったことも、跳び箱が飛べなかったことも言わなかった。
どんどん息苦しさが増していく日々だった。
もう私にはジグゾーパズルも、祖母もいないのだ。
どこにも、逃げ場も、頼れる人も、寄りかかれるものも、なかった。
3DKのマンションの中に4人家族で住んでいて
私はどうしようもなく1人ぼっちだった。
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