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クワクボリョウタ氏について残念に思うこと

クワクボリョウタ氏の作品への批判ではなく、芸術家と鑑賞者の関係について問い直してもらいたいというのが、このエントリの趣旨です。
芸術家のなかには鑑賞者に真摯に愛されたいと思っている方がいる。だからこそ、鑑賞者は広く深く芸術家について理解してもらいたい。そうでないと芸術家の可能性を狭めるおそれがある。
「かわいい」とかいう簡単な印象だけで評価することの危険性はそこにあるのです。

クワクボリョウタさんの『LOST#6』が修学旅行生に壊された事件。
これを機に、この十年間思ってたことをはっきり言っておきます。

北川フラムさんがプロデュースする展覧会のおかげで、クワクボさんはすっかり鉄道模型アートのひとになっちゃったんですけど、そうなる以前に制作された作品のほうが現代美術として面白いんですよね。

クワクボさんは《10番目の感傷(点・線・面)》で確かに、多くのファンができて、開かれた作家にはなりました。でも、鉄道模型アートによって作家としての可能性は閉じられてしまった印象があります。

鉄道模型アートを制作する以前、クワクボさんは「デバイスアーティスト」ととして、人間のありかたをデバイスを使って見つめ直す作品を多く制作されました

クワクボさんの作品を最初に観たのは2011年の国立国際美術館『世界制作の方法』でした。そのときも鉄道模型の作品が展示されていました。ただ、私はそれよりも『PLX』のほうが面白いと思いました。下のリンク先には書かれてないですけど、「信用ゲーム」という名前も付されています。

向かい合ってゲームをしているひとたちは、対戦ゲームをしているように見えて実は違うゲームをしている、という作品。同じことをしているようで実は違うことをしているという「かみ合わなさ」をデザインした作品です。

実生活でもSNSでの生活(?)でもかみ合わないことは多いと思うんですけど、このかみ合わない状態というのは、“かみ合っていることが当然”という前提があるから起こりうることなんですよね。

向かい合ってゲームをしていたら、対戦ゲームをしているように見えて当然ですよね。でも、実際はそうじゃない。だから、かみ合っていないように見えるのです。

逆に、向かい合っているからといって、対戦ゲームをしているとは限らないと考えたらどうでしょう。二人はかみ合っていないようには見えません。本作には「“同じ”であることを前提としない大切さ」≓「“違い”を認める大切さ」を表現しているともいえるでしょう。

また、『世界制作の方法』では『シ'│フ'│ン』という作品も展示されていました。この作品名は便宜的に“シリフリン”と発音しますが、“'│”を濁音記号として“ジブン”と読むこともできます。

『シ'│フ'│ン』は人間が進化の過程で捨て去った「尻尾」を再び身につける装置です。使用者の腰の動きに合わせてセンサーが反応し、尻尾のようなものが動く仕組みになっています。尻尾はもはや人間にとっては無用の長物です。けれども、着脱できれば“無用の用”になるかもしれません。そしてこの“無用の用”にこそ、人間が失った大切な機能がある。いろいろと考えさせられる作品です。

このように、クワクボさんはデバイスアーティストとして、デバイスを使って人間のあり方について問いかける作品を制作されていました。いまでも制作されているかもしれませんが、鉄道模型作品ばかりが注目されてしまいました。

まあ、この事件を機に、鉄道模型アート以前のクワクボ作品についてもっと知っていただいて、デバイスアーティストとしての価値も「開かれて」ほしいと思いますね。

でも、無理でしょう。中学生はクワクボさんの作品を壊しましたけど、それに怒ってるひとたちは鉄道模型アートにしか興味がなくて、クワクボさんのデバイスアーティストとしての可能性と日本のデザイン/アート分野の未来をぶっ壊していることに気づいていないのですから。

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