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常に理想と現実を繋げる存在でありたい

ここらで止めてもいいコロナ

コロナ製の石油ストーブの前からお送りします。くぼたです。

あらゆるニュースがバッドすぎていま(金曜の23:00)まで記事を書くつもりになれませんでした。

元気出していきましょう。止まるな、やるしかねぇんだ。


最近のできごと

2/22(土)、長野市のシンカイで「ロゴリニューアルイベント」に参加。
山だと思っていたロゴが貝をモチーフにしていたことが判明。
なんでも飲み込んでぐちゃぐちゃにして最後は真珠を生み出す場所にしたいという構想らしい。
俺もそういう場所作りたい。

2/23(日)、地元のまちあるき兼空き家見学会に参加。
地域でこういうイベントが継続されていることは純粋にありがたい。
安曇野と北アルプスを一望できる、ゲストハウスにピッタリそうな物件ありました!
さっそく運営サイドに召喚されましたので、気になる方はご連絡ください!

そして相変わらず温泉+サウナ通いは止まらず…
メンタルへの効能は前述したとおりですが、情報収集というか、現場感みたいなものを得るためにもめちゃめちゃいい場所。
なかなか情報をコントロールするというのは難しいようですね。
「日本人のリテラシーは低い!」と嘆いてデマとか噂を信じちゃう人を切り捨てるのではなく、まずはそういう人の存在を認めるところからしか始まらんのではないか。


最近読んだ本・見た映画

震災後の、記事にならない当事者の「ゆらぎ」に徹底的に向き合った記者のルポ。
震災や原発事故という混乱を生き抜くとはどういうことなのか。
今読むことがけっこう"効く"のではないかと思う文章。

あとはじめて『AKIRA』みた。にわかなので。
感想はまぁいいや。


最近よく考えること

理想は理想として必ず持たなければいけないと思う。
この場合の理想は教養とも言い換えられるかもしれない。
「こうしたら社会よりよくなりそうだよね」みたいなビジョンってやっぱりそういう場所からしか得られないだろうから絶対理想は持たなきゃいけない。

他方、現実は現実として厳然として目の前に広がっている。
世代間・地域間…あらゆる「異なるもの」同士の分断・乖離が進む中で「わかりあえない」世界はどんどん広がる一方だ。

「わかりあえない」ことが前提のコミュニケーションを僕らは取れているだろうか。
「わかりあえないから切り捨てる」だけで終わっていないだろうか。


大学入って良かったこと→タイプは異なれど、クオリティの高い思想を持つ友人に出会えたこと

大学時代はサークルを中心に(というかサークル関係者以外にほぼ付き合いがなかったけど)本当にいい人たちに恵まれたなーと思う。

音楽関係のサークルだったけどなぜか(いや、むしろ必然性はあるのだが)「思想を語り合う」という、現代のコミュニケーションの希薄化の中でかなり濃い話をできたと思う。

先日も友人の配属先にわざわざ集まってそういう話をしたり、この前書いた記事について後輩がわざわざLINEで感想送ってくれたりとか。

今の大学生って結局どういうもんかいまいちわからなかったけど、こういうコミュニケーションをとる学生の集団ってなかなか稀有な存在ではなかったかと思う。


大学時代は理想ばかり高く、現実は嘆く対象でしかなかった

大学時代は安全な場所からいくらでも何とでも言えてた。
だが、社会に出てからはそうはいかない。

さっき言ったけど目の前に広がるのは圧倒的な現実しかない。

この一年間で「古き良き日本企業」とか「地域のしがらみ」とか「介護」とか、東京で大学生してる限りいくらでも目を逸らせていたことが一気に目の前に広がった。

そして、それに見事に打ちのめされてしまった。

新卒で入った会社は半年で鬱になり休職、休職して実家に戻ってからも祖父母の介護を発端として家族の揉め事が毎日のように起きた。

「東京に出て大学生やってる」という免罪符ですべて許されていたものは、それを失っただけで一気に重圧となって降りかかった。


現実を変える方法は嘆くことではなく、唯一現実に耳を傾け、理想を広めて行くことのみ

もはや逃げ道を失った僕にとってはもう「やっていく」、すなわち、課題に積極的に関わっていくことにしか解決の道は残されていない。

いきなり話がデカくなりすぎるけど、これはもしかしたら僕らがこれから生きて行く世界というのは「やっていく」ことでしか解決の道筋が残されていない世界なのではないか。

いくら現状を嘆いても、自分の理解の及ばない人たちと距離を置こうとしても、いずれはそうしたものが目の前に現れる時が来てしまう。

人口減少だったり、頻発する災害や疫病だったり、社会全体として関わっていく以外に解決を見いだせない問題がすぐ目の前まで迫ってきている。

特に地方ではそうした問題はすでにリアルに感じられるレベルまで来てしまっている。
都市部でも、今後50年のうちにはそれらが顕在化してくることは間違いないだろう。

僕らはそんな時代に生まれてしまった。

では、そうした時代を嘆いていればことは改善の方向へ進むのだろうか?
課題から遠く離れた場所で自分だけ「そういう連中とは関わらない」生き方をこれからも続けていられるのだろうか?

ちょっと過激な言い草になってしまったけど、こうしたことを常に問い続ける姿勢を保っていたいと思う。

そして、世間一般、特に大学の友人はじめ、エリート層と呼ばれる人に対して、こうやって問い続けていきたい。

「文化的雪かき」、正直とっかかりとしては悪くないなーと思いつつ、何がいけないかと考えると、こうした行為をすぐに「文化」に結び付けるところ、それに尽きるのではないか。

「文化的生活」というのはだれしも憧れることではある。
ただ、そうした生活がどういったものの下で成り立っているか、今一度考えなおす時期に来ているのではないか。

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