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境界線を曖昧にすること

特に専門分野として意識してきたわけではないのですが、たまたまこのところ「新しい働き方」や「これからのリーダーシップ」「共創空間」などに関する取材が続いています。

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「場づくり」だけにとどまらない。富士通が育むコミュニティと共創空間

取材対象は異なっていても、それぞれが大切にしてる価値観や課題意識には重なる部分も多く、取材すればするほどあちこちに散らばっていたシナプスがつながっていくような感覚を覚えて、取材の際にもより深掘りできるようになってきたと感じています。対象としている読者層もちょうど同世代で、いわゆる大企業で働いてたこともあるため、組織の中だけで課題解決することの手詰まり感や、これからの時代を生き抜くための「個」としての強さの必要性を、自分ごととして感じられるのです。

これからは企業や住む場所にとらわれず、あるいは職業にもとらわれないような軽やかな生き方が求められているのだろうし、それを既に体現している人は本当に強いだろうな、と。

今日もそんな取材があって、「そうだなぁ、やっぱりそうなんだよなぁ」と考えていたところ、こんな記事を読みました。

3人に2人が高齢者、群馬県南牧村から人が減った理由

この記事で語られていることは、おそらく今後2、30年先、そう少なくない地域が直面するであろうことなのだと思います。新しい産業を育てられず、雇用がなくなり、労働者人口が極端に減ってしまった村。

きっと、「もっと住みやすい場所で暮らせばいい」「立て直そうとするより、他のことに注力したほうがいいのでは」と考える人もいるでしょう。経済的合理性を考えれば、到底割に合わないことだから。

けれど、私にはそう切れ味鋭く言い切ることはできなくて。

思えば、日本各地を転々としてきて、そこで暮らす人と関わってきました。一度は故郷を離れても、やはり地元が住みよい、と戻ってきて暮らす人。自分の生まれ育った土地をもっとよりよくしたいと、踏ん張って、でもいきいきと暮らす人。そういった人々と過ごす日常は本当に充実していた。

でもね、それだけじゃないんです。生まれ育った場所以外の土地を知らない人。「先祖代々の土地を守らないといけないから」と、他の選択肢を持たない人。

住む場所だけじゃない。喫茶店のマスター、伝統工芸職人、自動車整備士……「自分には、これしかないから」と笑う人たちがいた。彼らによって研ぎ澄まされた結晶を、私は享受していたのだと思う。けれど、反復的な修練を愚直に続けることによって編み出される技術は、おそらく今後一部は機械に置き換えられたり、採算が合わずに廃れたりしていくのかもしれない。少しのノスタルジーと思い出を残して。

そんな彼らが生きている世界と、今私が見えている世界との隔たりを途方もなく感じて、頭の中をぐるぐると巡ってしまった。私には、どちらもシンパシーを覚えるものであって、どちらが正しいとか間違っているというわけでもないのです。

さぁ、どうしたものだろう。と思っても答えはないのだけれど、ふと以前の取材したロフトワークの林千晶さんの言葉を思い出した。

「間(あわい)」という言葉があって、ふたつの領域が重なり合う部分のことを指すのですが、そういった「間」の価値が高まってきているのではないでしょうか。

http://workmill.jp/webzine/20160719_talk1.html

取材内容は直接的には関連はないのだけれど、でもなぜだか改めてスッと合点がいったのです。その途方もない隔たりを行ったり来たりしながら、境界線を片足でぼやかして曖昧にしながら歩いていくのが、私のできることなのかなぁと思っています。

読んでくださってありがとうございます。何か心に留まれば幸いです。