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なんとなく面白そう、が一番キケンなわけ

世の中は楽しそうなことであふれている。
好奇心の塊のような私にとって、時に世界はバラ色の美しい誘惑に満ちているように見える。
やってみたいことだらけで、一つのことに一生を費やすのはもったいない気もするし、1日30時間あっても45時間あっても、きっと全然足りなくなると思うんだ。

片田舎から関東、関西を周ってタイまで行き、仕事も趣味もいろんなことに手をつけてきて、本当に気の赴くまま自由に生きてる。
それはそれで幸せだし、心配なことがないならフーテン的生き方も性に合ってそうではある。

ただ、(今のところ)人生の時間は有限で、
この世に生を受けた間に何かをしたいと思ったら、ある程度やることを取捨選択していく必要があると痛感している。

これまで会社を2つ作ってはみたものの、全然長続きせず解散してしまった。
正直、紙切れ一枚と勢いさえあれば会社は作れるけど、
・なんとなくこの優秀なチームでやってみたい
・個人事業主としての営業に解放されそう
とか、そんなフワッとした想いしかなく、「こんなことがしたい」というビジョンも曖昧だった結果、自分が得られると期待するもの以上に価値を出していくことができなかった。

イベントやワークショップにはよくいくけど、血となり肉となっているものは比例して多いわけではないと思う。
新しいことを学ぶことは、それだけでとても楽しい。知識やスキルという美味しい栄養を永遠に貪っていられるのは、この上ない贅沢だ。

何かを習ったりすることもよくある。
社会人になってからだけでも、着付け、エディトリアルデザイン、ボイトレ、メイク、コピーライティング、演劇、Ruby…オンラインも合わせれば、もう数えきれない。

でも、その中で今も使えるものとして残っているもの、アウトプットまで持ち込めたものは全てではないと言える。
あふれすぎる知の海の中で、何を選ぶか、何を残すか、限られた時間を使う上でもう一度考えてみたい。

私はフットワークが超軽いので、すぐ「それいいね」で始めてしまう傾向があるが、
面白そうなイベントや、プロジェクトに対しては、募る側も参加する側も、何に対してコミットするかを明確に持っておくべきだと強く感じている。

そうしないと、自発性は生まれないし、ずっと提供側がコンテンツを一方的に与え続ける状況になって、結果、参加側にインプットが定着せず、与えられたものだけを受動的に受け止め続ける人が増えるだけで、そのコミュニティなり、サービスは疲弊するし、全体の価値が向上しないからだ。

例えば好奇心だけやたら強い私みたいな人が騙しやすそうに思われる傾向があるのは、そのように「テイクする」ものしか考えないのではないだろうか。
自分がこういう利益をこれだけ得る、という結果に意識が行き過ぎて
そのテイクに対してどんなギブをその組織なり、お客さんなり、社会に排出しているかっているおかげでその利益を得ることができるのか、あるいはどうしたらそうやって受け取るものがもっと素晴らしいものになるのか(MLMでいうディストリビューターみたいな単純な構造に世の中はなっていない)という発想が抜け落ちているからだ。

このホリエモンの「面白い話っていうのは、一緒に創り出すもんだ」って話は非常に納得で、
積極的な関わりを持って始めないことは、お互いにとって価値をを生まないし、持続的な取り組みにはならないということを物語っているように思う。

あれも、これもとなりがちな現代において、
コミットすることを決めて(自分の中で決める+主催の人とすり合わせる)から始めるようにする、というのは、一つの大事なスキルなんじゃないんだろうか。

図解でコミュニケーションを変えることをミッションにここ3年くらい活動