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土曜日

『土曜日』        作 鈴幸


一人はいい
つまらないのがいい
自分勝手があたりまえの部屋から外へ出る
両手が空いていていい
人の手が足りないのもいい
「動物のアイデンティティとは?」
独り言をあえて会話文にして
好きな歌を恥ずかしいくらい感情を込めて歌う
オーケストラが頭の中で奏ではじめる
笑おう笑おう

5月の三週目の土曜日。汗をかくかと思うほど蒸すような気がしていると、不意に鳥肌が立つような薄さむい予感がしてくる。生温い風がまるでのろのろ通り過ぎるように吹きぬけていく。先週買ったばかりの白いTシャツに裾がふわっと広がった黒のスカート、そして少し厚底のサンダルをはいて、有紀子は駅への道を歩いていた。
出がけに渡された長袖のパーカーがリュックサックの中に入っていることに不安が一つ減った思いがする。
『出かけるの?』とまだパジャマ姿の母に声をかけられると、『めずらしいね』と、父まで庭から顔を出した。リビングからモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』が流れていた。父が買い集めたCDを母が自由にとっかえひっかえプレイヤーに入れて、休日は家の中で音楽が途絶えることがない。『・・・・買い物』と本当とも嘘とも言えないような用事を口にして家を出た。土曜日は部屋で習字をしているか、本を読んでいるのだから、二人が不思議に思っても仕方がない。
駅のファストフードの前で、待ち合わせたのは十時である。スマホで時間を確認して、少しだけ歩く速さを落とした。
クラスメイトの大半が大学進学を進路にし、自由な校風の高校に通っているのだが、有紀子は活発とはほど遠い、おっとりとした低体温と言うべきか。
 待ち合わせの相手がすでに来ている。170センチはある背の高さに目の覚めるようなグリーンのロングスカートが揺れていた。丸くて黒いサングラスをかけて立ち、こちらに大きく手を振っている。ノースリーブの黒いカットソーが夜のように落ち着いて見えて、有紀子は立ち止って頭を下げながら「好き」と心の中でつぶやいた。
『こういうの見る?』と香奈子は有紀子に美術館の招待券を一枚渡した。一九世紀末のパリで活躍した画家たちの展覧会である。招待券の裏に書かれた画家たちの名前のラインナップは有紀子にはなじみのないものばかりだった。
美容関係の仕事をしていると、紹介されたのは春になる前のことだった。長い間続けている書道の講師の弥生先生は展覧会に招いた古い友人に気の置けないそぶりで有紀子を妹を見せるように紹介した。
「べたべたして、重くないの?はっきり嫌って言わないと、この子とんでもない甘え方してくるわよ」
とずいぶんな調子で弥生を評してきた。「有紀子ちゃんが小学生のころから知ってるの」先生が反撃すると、相手はまじまじと有紀子を上から覗き込んできた。
「ああ、あの有紀子ちゃん・・・・」
ずいぶん背が高い人だなと思ったのが第一印象で、その次が、どこかつまらなそうにしている人だと思った。つまらなそうなのが、上品に見える人だ。
「それあげるけど、よかったら一緒にどう?」
弥生がふとその場を離れて受付で他の生徒と話しこんでいる間、香奈子は有紀子にスマートな仕草で誘うのだった。「あの有紀子ちゃん」と言うことは、弥生がこの古い友人に自分のことを伝えているはずで。それがどんなふうに伝わったのかというよりも、有紀子は単純に弥生が自分を話題にしたことに嬉しがっていた。
 有紀子の初恋は弥生である。でも、だったらいいなと思っている。半分は違うし、半分は大切。弥生には恋人がいて、その恋人と弥生の幸せを一番に祈っているのが自分でありたいと思っている。これは半分の幸せを二人に、もう半分は弥生自身の幸せだ。周りから姉妹のように仲がいいと言われていても、有紀子にとっては遠く見上げて観る人なのだが、弥生本人には伝わってはいないはず。
しかし弥生のことを考えて眠れないくらいの思いをした時を『それは初恋じゃない』と有紀子は考えなかった。
一枚の招待券を手にして、きれいなアイラインが引かれた二つの目は有紀子の顔を覗き込んでくる
「・・・えっと、土曜日とか?」
「そうね、嫌じゃなければ行きましょう」
そう言ってスマホを持つ手には大きな指輪が光っていた。何もかもが魅力的で、弥生の柔らかで繊細な美しさとは違うゴージャスな香水みたいな美しさだった。
 二人で電車に乗り、美術館のある駅まで行く。駅に着いて、颯爽と歩く香奈子の後ろを置いてかれないように必死でついて行った。さほど人出があったわけでもないのに、タクシーに乗り込むとうっすらと汗をかいたせいか、冷房の風が心地いい。
ふと香奈子と視線がぶつかって、(ああ、サングラス外したんだ)とぼんやりと考えた。
「服は自分で選ぶの?」
香奈子はそう言って有紀子のスカートからTシャツの布の手触りを確かめ、口角を片方だけ少し上げる。いいとも悪いとも言わずになんとなくゆっくりともてあそぶようにする。
「選ぶほど持ってないけど、買うときは悩みます」
「・・・・そっか・・・・わたしもそうだったような」
あまり会話は続かなかった。それ以上に静かでいる方がいいような気がしていた。車窓に流れる景色が外国の町並みのように思えてきて、咲いている花も通り過ぎる車も映画みたいに有紀子の視界に一コマずつ切り取られていく。
 二〇分ほど車に揺られて郊外の見晴らしのいい場所に立つ美術館にたどり着いた。
 頭の中には朝、家のリビングから流れていたモーツァルトがかかっている。フィオルディリージとドラベッラ・・・・二人は・・・・ 
 音声ガイドを二人ともに五〇〇円で借りて順路を進んでいく。有紀子は番号順に進んでいくが、香奈子は目に入ったものに迷わず進んでいく。ときどき有紀子は背後から肩を叩かれ、ひきずられるようにして香奈子の目当ての絵の前に連れて行かれた。説明の流れとは違うものは目に飛び込んできて一瞬混乱はするものの、香奈子なりの理由がそこにあるらしいことをなんとなく絵の前で感じられるような気がした。表示の番号を確かめて機械を操作すると、それが答え合わせのようにその裏付けとなって飛び出してくる。女性がひるがえすドレスの裾、戯れる猫たち、きっとこれ以上ないというほど愛情をかけられた子どもの姿。
「(ごめんね)」
イヤホン越しに香奈子が口を寄せてささやいた。有紀子は顔をふるふるとさせて否定した。機械を操作してもと来た場所に戻る。無意識に胸のあたりを抑えて、自分が驚いていることを確かめた。可愛い絵がたくさんあるのに、この展覧会は甘い香りの大人な雰囲気で満ちている。
 展示が半分くらいに進んだ頃、香奈子にようやく追いついた。香奈子は一枚の絵の前に置かれたベンチに腰掛け、優雅にそれを眺めていた。ぼんやりと言うには洗練されて、じっと動かない割にはつまらなそうな感じで。
「毛布?」
そこにくるまってすやすやとまどろんでいるのは子どもで、ベッドの中のぬくもりや毛布の肌触りを確かめて見たくなるといつしか平面の中に吸い込まれてしまいそうになった。
「(座って)」
香奈子が体を少しずらして有紀子をベンチへ促した。
「(寒くない?)」
そう言って、バックの中から薄手の白いショールを取りだして、有紀子の肩へ着せようとする。リュックをおろして有紀子はファスナーを、音をたてないようにそっとあけてその中のパーカーを香奈子に見せた。香奈子はなぜか有紀子からそれを取りあげて自分の膝に置き、一枚のショールを大きく広げて二人の肩を包みこむようにして掛けた。香奈子のむき出しの二の腕が有紀子の白いTシャツ越しに体温を伝えてくる。
「(寒くない?)」
思わず有紀子はくすりと笑った。
 エドゥアール・ヴュイヤールという画家の名前を香奈子が大事そうに口にして、音声ガイドに劣らないようなわかりやすい解説をしてくれる。それに応えるように有紀子のお腹が鳴った。リュックをお腹に押し当てたが無理だった。    
香奈子はスマホを操作して、すでに館内のレストランの予約の時間だったと告げた。半分残った展示は食後にしましょうと言って、香奈子はショールを無造作に丸めてバックへほうりこむ。
そして、さあ、と腰をあげた香奈子が、口を閉じたまま不安そうに見上げる有紀子を見て、バニラアイスが溶けだすような笑顔を見せたのはその時が初めてだった。

 学生の頃の弥生の話を聞かされながら、有紀子に見せていた彼女の姿がほんの一面にしか過ぎなかったことに気付かされた。一人でいるのが好きなのかと思えば、親しくなると、「香奈子一緒に来て」が口癖になったこと。香奈子が海外留学を決めてそれを告げるや否や、毎日のように自宅に入り浸りで甘えて来たこと。今の弥生からは想像もできないことだった。香奈子が
「弥生に・・・書道講師なんていう仕事が彼女に務まっているの?」
と未だに疑問であると真面目なトーンで言うので、有紀子は
「やーちゃん先生は結構人気者です」
と他意なく答えた。
香奈子は、ふとコーヒーカップを持つ手をとめて、有紀子をまたじっと見つめた。有紀子はデザートスプーンを恐る恐る皿に置いて、両手をテーブルの下へもじもじと隠した。
「私も、有紀子ちゃんに好かれるように生きていたいな」
そして、香奈子は何事もなかったかのようにつまらなそうな顔をしてコーヒーをすすった。
 頭の中で『コジ・ファン・トゥッテ』の第二幕が流れ始める。それがきっと「本当じゃなくてもいいような幸福」を香奈子も弥生のように有紀子に与えるのだった。


 見えているものがすべてのはずが、

「本の中にすべて描かれているさ」

と彼は顔をあげないでいる

「じゃあ、本の中に私はいるの?」

 と彼女はそっと寄り添った

「いるよ。いつも、ほら笑ってる」

好きな歌を恥ずかしいくらい感情を込めて歌う

いつしか歌声が重なって

耳慣れたメロディーは心地いい

賭けはどうした!

賭けなんかどうでもいい!

みんな目を閉じて聴いている

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