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「才能、ないな」って思ってからが、始まりです

自分が苦労して苦労してもできないことをサッとやってのける人がいたとき。自分には到底、思いつかないようなことをやる人がいたときなどに、「あぁ、自分って才能ないんだな」って思ってしまうかもしれないけれど、そんなことはありません。「才能ないな」って思ってからが始まりなんです。

「才能ないな」と思ったということは、自分に足りないところを見つけたということ。理想のイメージと比べてなのかもしれないし、他の誰かとの違いなのかもしれないし。どちらにしろ「こう在りたい」というイメージと、今、できていることの間に、何かしらの違いがあることに気づいたならば、それこそが、才能があるかもしれないことの証明なのです。

もし、本当に才能がなかったのなら、その違いには気づけないはずなんです。え、あの人のやってることと、自分のやってること、大して変わんなくない?くらいに思うはず。え、ゴッホの絵くらいだったら、自分にも描けるんじゃないかな、と思うはず。

理想と今がどれだけ違うかとか、理想への道がどれだけ果てしなく遠いかがわかるということは、「違いのわかる人」ではあるということです。

「野球選手になりたい!!!」と無邪気に望み、小学校、中学校と野球をつ続けていくうちに、リトルリーグで、他校の選手でずば抜けた才能のある子に出会ってしまって「あぁ、プロになるってこういうやつのことなんだな・・・」って愕然としてしまう。でもそれは、ある程度やってみて、自分の力量がわかったからこそ、気づけることです。

スポーツならまだわかりやすいかもしれないけれど、絵とか文章とか芸術とかは、その違いに気づけないのが致命的なこともあると思います。本当に才能がない場合、何か人からお金をもらうとか仕事にすることを目指した場合、プロと自分の違いがわからないというのは時に致命的ではないかと思います。でも、本当の本当に才能がなかったら、残念ながら気づけない。好きなことを仕事にできるか、下手の横好きで終わるのかはそこで別れる。下手の横好きではダメなわけじゃなくて、本人が楽しければいいけれど。

例えば「優しさ」にしても、誰かの優しさに気づける人というのは、優しくなれる要素があるから。あ、あの人、しんどそうな人に声をかけてあげてるなとか、周りからひとりを守るような言葉をかけてるなとか、みんなが楽しく過ごせるように場を創ってるなとか、見えないところで配られている優しさに気づかずに生きている人がたくさんいる中で、それに気づけるというのは才能があるからでしかない。優しさに気づける人は、すでに優しい人。「あの人みたいに優しくはなれない」などと責める必要はなくて、気づけたその優しさを今度は誰かにしてあげられればいいんです。気づいたときでいいから。きっと、気づける人だから。

本当は何にも気づかず「オレ、すげぇ!!!」って生きていけるのがいちばんラクだし楽しいかもしれないのに、気づいてしまったら、できない自分にも気づくし、足りない自分にも気づくし、成長しなきゃって思う。でも、それこそが才能がある証拠なんです。あとはその差を埋めるか、見なかったことにするか。

それを決めたら、才能がさらに花開くまでの道が始まります。

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